第27話 うっかり先制

 個室の中では宴会が始まったところらしく、参加者の中でもひと際禿げたおじさんが立ち上がって挨拶をしていた。乾杯、の声に合わせてグラスが鳴ったと思うと、途端に部屋中が喋り声でやかましくなる。周りの個室からも酔っ払いの大声が響いているし、うるさいばかりで何を話しているのか通路の片隅に立っている佳弥にはさっぱり聞き取れない。魔はまごまごとたゆたうだけだし、誰かに魔が差したって、飲み過ぎるとか、「子どもはまだ?」的なセクハラ発言をするとか、そんな程度じゃないのかしら。佳弥は退屈になってきて、隅で小さくしゃがんだ。


 待ち合わせまでまだ時間があるので、ここで退散しても中途半端だし、どうしよう。佳弥は退屈しのぎに、ポケットから黒い布を取り出して手の中でもぎゅもぎゅと握った。パッと開けると、何となくそれっぽい小さな黒い塊が二つできている。


「見た目は良い感じだなあ。」


 佳弥は小声で呟くと、片方の塊を耳の穴に突っ込んだ。もう片方を、スイッチっぽいでっぱりを押してから個室の隙間から指で中にはじき入れる。と、耳の中に、不明瞭ながらも他人の会話が流れ込んできた。


「おお、盗聴成功。我ながら、悪よのう。」


盗聴も何も、個室の脇でずっと聞き耳を立てているのだから今更悪どさに変化はないが、何となくアイテムを使った方が悪っぽく感じる。


 とはいえ、個室の中全体にアルコールがなじんできて、複数種の会話がお互いに負けじと声を張り合っているので、中に収音装置を入れたところであまり聞き取りやすさは変わらない。しかも、佳弥には何の縁もない職場の話が延々と続くので、何を話しているのやらよく分からない。


「…の建て替え工事なんですけどね、前と比べても積算がおかしいって言うか、吹っ掛けられている気がするんですよ。」


「渋谷部長の時はもう少しにらみが効いましたよね。やっぱり渋谷さんがいないと、足元見られるんですよ。絶対、積算と施工は癒着してますもん。」


「いやいや、時代が違うよ。材料単価も人件費も上がってるんだ、私がやった時より予定価格が上がるのは道理だよ。」


 何だか知らないが、建て替え工事の値段が上がったらしい。そう言えば、幸祐が、渋谷は以前役所の工事屋さんだったと言っていた。じゃあ、その時の同僚と飲んでいるのだろう。職を離れた後まで飲み会に呼ばれるとは、よほど慕われていた上司だったに違いない。さもありなん、と佳弥は一人で頷く。


 良い香りの前菜が運ばれてきて、佳弥はおなかがぐうと鳴るのを感じた。何故私は、おなかが空いたまま、こんなところでみんなが美味しく楽しく食べているのをただ眺めているのだろうか。佳弥はふと空しくなって、じとっと個室の中を見据えた。


「ん?」


 ゆらゆらとした魔の動きが、少し活発になっている。部屋の中に留まってはいるが、陽気に食べている人に吸い込まれたり、流れ出たりしている。


 ふーむ、と唸って、佳弥は顎に手を当てた。しゃがみっぱなしなので、足が痺れてきた。よっこらしょ、と立ち上がって腰を軽くかがめながら拳で叩いていると、店員さんが忙しなく目の前を通り過ぎた。その影の先が、店員さんからぷつりと切れてその場に残る。


 げ、と佳弥は心の中で呟いた。影は薄く延びながら、すっと佳弥の見守る個室の壁に吸い込まれていく。それを皮切りに、どこからともなくいくつも影が伸びてきては、個室に集合してきた。辺りを見回すと、いつの間にかここの個室だけではなく、店内全体に影が静かに蠢いていた。


 これは、この間佳弥が酷い目に遭わされた奴だ。きっと、マーラ・ルブラ。佳弥は足元にも湧いてきた影を素早く避けながら、どうしたものかと思案した。今回は、佳弥を狙っているのとは違う気がする。思案しているうちにも影が増えてきて、佳弥の眼には店内が真っ黒に近くなってくる。足元の影がずるずるっと佳弥に登ってきたので、佳弥はポケットの布を握りしめ、適当に作った棒切れで殴った。咄嗟のことなので、何の棒だか佳弥にもよく分からない。そのせいで攻撃力が低かったのか、影は一瞬怯んだものの、すぐに佳弥への登頂を再開する。黒衣越しにも、ぞわぞわと鳥肌が立つような感覚が足から背へと登ってくる。


 キャー、と叫ぶ代わりに、佳弥は棒切れを手でつくね直した。先日作ったスタンガンが現れる。あれから佳弥はパソコンで実物を調べてよく観察したので、見た目が本物っぽく改良されている。効果のほどはどうだろう、と佳弥は無言のままスタンガンを足元の影に押し当てた。バチッとはじけるような音がして、佳弥にたかっていた影はたちどころに霧散する。それどころか、スタンガンの当たった部分を起点として、連なる影がほろほろと崩壊していく。


 思ったより、攻撃力があった。佳弥は自分の周りから急速に失われていく黒い影を観察しながら、スタンガンを握りしめる。役に立ったのは良いが、強すぎたかもしれない。何故ならば、周囲に残った影が佳弥に注目する素振りを示し始めたからである。佳弥はさっと立ち位置を変えて、バックヤードの脇の暗がりに潜んだ。じっと息を潜めていると、影はさっきまで佳弥がしゃがんでいたところに新しい分身を伸ばして、しきりに何かを探っている。


 佳弥が手を出したことを影の主に察知された。これは退き時だ。佳弥は冷静に判断した。佳弥としては、今ここでマーラ・ルブラの邪魔をしたかったわけではなくて、単に気持ち悪かっただけだが、そんなことは言い訳にはなるまい。またぞろ直接襲われてはたまらない。佳弥は辺りを窺いつつ、そっと通路に足を踏み出した。


 店内はすっかり影に覆われているが、変身していない人には何も目に映らないのか、お客さんも店員さんも平然としている。そんなもんなのか、と佳弥は事実をありのままに受け入れつつ、じわじわと通路を忍び足で進む。足元の黒い影を踏みつけてしまうが、それはもう不可抗力である。踏んだくらいでは消えもしないので、大丈夫だろう。


 個室の並びを抜けかけたところで、佳弥は一旦足を止めた。カウンターのあるフロアは個室以上に影にあふれている。しかも、通路では壁や床伝いに平面移動するだけだったのが、立体的に盛り上がってきていた。佳弥が通路の壁にへばりつくようにして静かに様子を窺っているうちに、影は見覚えの有るような人型を形作った。見覚えがあると言っても、顔が見えないから個体差の判別はできない。しかし、何となくの雰囲気が、先日お会いした人影に似ている気がする。あら嫌だ、と佳弥は声を出さないようにして呟く。


 人影はふいっと辺りを一瞥すると、通路の奥へと滑り始めた。何かを探すように、視線を絶え間なくあちこちに行き渡らせている。佳弥の目の前を通り過ぎようとする瞬間、人影はぴたりとその場に立ち止まった。何かが気になる、という様子で前後左右を見回す。佳弥はじっと動きも息も瞬きも止めて、壁と一体化した。私は路傍の石、私は路傍の石、と心の中で繰り返す。人影は暫く探るような視線を四方に向けていたが、目と鼻の先に佳弥がいるにもかかわらず、佳弥を認識することはできないようだ。ベータ版って結構やるじゃん、と佳弥が安心しかけた時、不意に人影が佳弥に顔を近付けた。鼻先がぶつかるような距離に顔を近付け、じっと佳弥のいる辺りを見据える。佳弥は再び、私は路傍の石、と念じる。効果のほどは不明だが、おまじない、兼、心の安定剤である。余計なことを考えない方が、気付かれにくい気がする。


「誰かいた気配はあるんだが…」


 ぼそ、と人影は低い声で呟く。声優かDJになったら結構いい線行くのではないか、という渋い声色に、佳弥は聞き覚えがある。やはり、飛鳥と一緒に出会った人影さんだろう。こうして無事に仕事に邁進しているということは、飛鳥は何らかの形で敗北したということなのか。ふん捕まえて、飛鳥をどうしたのか吐かせてやりたいところではあるが、佳弥にその実力があるかというとまるで自信は無い。こちとら腰痛持ちの四十五歳、筋力・体力勝負に持ち込まれたら一瞬で終わる。


 佳弥は半分瞑想状態のまま、人影が通り過ぎるのを祈る。人影は軽く頭を振ると、佳弥から視線を逸らした。肩をすくめるようにして通路の奥を向く。


「またあのちっこいババアがいるのかと思ったが、気のせいか。」


 佳弥の耳に、瞑想を破るような一言が突き刺さる。ちっこいババア。それは、誰のことか。


 飛鳥は背が高い。幸祐よりちょっと高いくらいで、佳弥が並ぶと顔を見上げる形になる。だから、飛鳥はちっこくはない。


 対して、佳弥はちっこい。いや、まだ伸びてるし、いずれは、と佳弥は考えているが、今のところちっこいと評されてもやむを得ない。そして、変身後の年齢は決して若くはない。


 つまり、こやつは、佳弥をしてちっこいババアと呼んだということである。佳弥は正確に判断を下した。佳弥は片手に持ったスタンガンを握り直した。出力、最大、と真心こめて念じる。


 佳弥はスタンガンをまっすぐに人影に突き出した。今までにないほどの音が激しく鳴り響き、人影はたちまちその場に崩れ落ちた。


「あれ、しぶとい。」


足元に転がった人影を佳弥は見下ろした。先ほど佳弥に這い上がってきた黒い影と違って、この人影はスタンガンを受けても消えない。もしかしたら、生身なのかもしれない。


 しかし、人影が倒れた途端に、辺りを覆いつくしていた黒い影は音も無く崩壊するようにして消えていく。見る見るうちに辺りは元の色彩を取り戻した。


 それは良いとして、うっかり手を出してしまった。やっちまったぜ、てへ。と佳弥は内心で舌を出して、足元に転がっている人影を眺めた。くぐもった呻き声を上げながら、手や足を動かそうとしている。どうも、佳弥のスタンガンはお堅く安全性に配慮されていて、人が容易く気絶するような物ではないらしい。


 じゃあ、仕方がないな、とばかりに佳弥は駄目押しのスタンガンを人影の背中に当てた。びくっと全身をのけぞらせたかと思うと、人影は完全に脱力してその場に伏した。


 よし、この隙に、三十六計逃げるに如かず。佳弥は素早く身を翻して通路からフロアに出た。辺りを見渡すと、黒い影は端切れも見当たらない。


 店を出ようとして、佳弥がカウンターの脇を通りかかると、さっき観察した酔っ払いの男女が何やら店員ともめている。さっさと退散したいのに、んもう、と歯噛みしながらも、少し気になって佳弥は傍らで様子を窺った。どうも、若い店員がオーダーミスしたか水でも引っ掛けたか、些細なミスをしたのに対して、男性が目くじらを立てているようだ。やれ飲食代をタダにしろだの、土下座しろだのと騒いでいる。女性は男性をなだめようとしているようだが、酔っぱらっているためか、却って男性はヒートアップするばかり。何と醜い、と佳弥は軽蔑の眼差しを向ける。


「急いでるんだから、手間かけさせないでよね。」


 立ち上がって店員の胸ぐらを掴んだ男性の頭に、佳弥は手を伸ばした。髪の毛、に見えるものをむんずと持って、男性の目の前にぱさっと落としてやる。薄毛を隠すための軽くて自然な着け心地、という風体のかつらが男性の腕の上に着地した。後に残るのは、禿げ散らかした脂光りする頭頂部と、辺りに立ち込める気まずさである。


「あのー、お客様、ええと、その、お召し物が…」


 胸ぐらを掴まれたまま、店員が申し訳なさそうに呟く。その場の全員の視線がかつらと男性の頭を行き来するうちに、男性は店員から手を放した。その拍子に、かつらは足元に落ちる。笑うに笑えず、泣きかけのように表情を歪めた店員がそれを拾い上げ、男性に渡した。男性は物も言わずにそれを受け取り、埃を払って頭に装着した。誰も、何も言えない。


「あ、あの、お勘定お願いしますね。さっきのオーダー、込みで良いですから。ね?」


 同席の女性が取り繕うように明るい声で店員に言う。店員は男性を見ないようにして、帳場へと駆けていく。男性は意気消沈なのか、ショック状態なのか、がくりと膝を折るようにして椅子に座ったまま放心している。


 これなら、もう安心。佳弥はそそくさとその場を後にした。

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