第22話 状況報告

 それにしても、片付けでそこそこの時間を費やしたが、飛鳥はまだ来ない。あの人影の相手に手間取っているのだろうか。飛鳥がやられてしまうことは無いだろうが。


 横からふんわりとしたタオルを差し出されて、佳弥は顔を上げた。


「髪拭いたら?悪いけどドライヤーは無いから、タオルで我慢してくれよ。」


触ってみると髪がまだかなり湿っていたので、佳弥はありがたくタオルを受け取った。今日は散々だった、との思いが強くなる。


「へっくち、へっくし」


髪をほどいてガシガシと拭きながら、佳弥はまたぞろくしゃみをした。それを聞いて、幸祐が心配そうに声を掛ける。


「こっちの部屋、エアコン無いんだよ。寒かったら、上がってよ。奥には暖房があるからさ。」


「いえ、結構です。風邪ひく方が数億倍マシです。」


「またまた、佳弥ちゃんはマジで堅いなあ。前世紀の遺物だな。」


幸祐に笑われても頑なに拒否して、佳弥は肩から背にタオルを掛けた。毛先で服が濡れるのを防ぐのである。


「あー、それ、プールの授業の後の女子みたいだなあ。懐かしい。」


 佳弥の背後でガチャガチャと何かしながら、幸祐が言う。


「でも、何でそんなにびしょびしょなんだ?頭を濡らすのがツボ押しだったとか?」


 佳弥は幸祐に背を向けて座ったまま、今日のあらましをもそもそと説明した。疲れて面倒くさくなったので、交差点の件は省いて、銭湯のところだけかいつまむ。案の定、飛鳥の活躍に関しては幸祐は興味津々で食いついてきたが、佳弥は静かに流して終わる。そもそも、食いつかれたって佳弥にもよく分からないことだらけなのだから、事実の表層についてしか話せない。


「要は、佳弥ちゃんが狙われていたってことなのか。カラオケの時のあれもそうだったのかな。」


「さて、どうなんでしょう。迷惑な話です。きっと、人違いだし。」


 カチャン、と音がしたと思うと、ホカホカと湯気を上げるマグカップが佳弥に差し出された。紅茶の良い香りがする。


「うちに上がるのが嫌なら、せめてこれで温まってよ。」


佳弥は礼を言って、素直に受け取った。他者からの好意は遠慮なく受け取るべし。


 冷たい手で熱いマグカップを包み込むように持てば、それだけでも気持ちが緩む。ふうふうと吹いて口に含むと、牛乳のコクが豊かなとろりとしたミルクティーだった。温かさと牛乳の甘味が、冷えきった身体にじんわりと染みる。ミルクになじむ紅茶の香りも華やかだ。タピオカドリンクなんか目じゃないくらい、すごく美味しい、と佳弥は感じた。言わないけど。


「飛鳥さん、遅いなあ。」


 佳弥の脇の床に胡坐をかいて、幸祐もミルクティーを飲んだ。折角片付けた部屋が誰にも使われずにがらんとしている。


「それで、佳弥ちゃんを襲ったっていうのは、何だって?」


「商売敵、と飛鳥さんは言っていましたね。何だったかな、マーラ・ルブラだったかな。」


「マーラ・ルブラ?」


幸祐はずずっと番茶のようにミルクティーをすすった。暫くそうして何かを考えるようにして床の一点を見つめていたが、漸く思い出したかのように頷いた。


「まーるむ・るぶるむ。」


「は?何ですか、それ。」


「ラテン語で、赤いリンゴ。複数形が、マーラ・ルブラ。可愛い社名の割に、やることがえぐいな。自分のシマに邪魔が入ったから実力行使で相手を潰すって、ヤクザの世界じゃないか。」


 確かに、ヤクザだ。物腰は穏やかだったが。佳弥は黒い人影を思い出した。人を転ばせたり、溺れさせようとしたり、槍で突きさしたり…ってそれは飛鳥だったか、とにかく、乱暴狼藉で事を解決しようとするなんてヤクザだ。しかも、こっちの身に覚えが無いんだから、一方的な言い掛かりじゃないか。それで真っ赤なリンゴちゃんとは、ちゃんちゃらおかしいぜ。


 そこではたと気付いて、佳弥は幸祐を振り返った。


「それより、何でラテン語なんか?」


「ああ、ラテン語をマスターしたら、ラテン語圏の言語全部楽勝じゃんって思って、学生の時に第二言語でラテン語取ったから。難しすぎて、挫折したけど。」


 事も無さげに幸祐は言って、紅茶を飲んだ。佳弥は心の内での幸祐の変態度に加点しておくことにした。言語学者でも歴史学者でもないのに、話す相手のいない言語を学ぶなんて、ちょいと頭のねじが曲がって押し込まれているとしか思えない。


「俺は明後日からまた佳弥ちゃんと組むんだよな。そんな危ない仕事、やっていけるかなあ。」


「市川さんでは駄目だと宣告するために、飛鳥さんが集合を掛けたんじゃないんですか。私と市川さんをまとめて説明した方が話が早いですし。」


 きっとそうだ、そうだと良いな、と佳弥は期待した。危ないのは嫌だけれど、それで相棒を変更してもらえるなら、怪我の功名というやつではないか。ペアを変えてくれるのなら、バールを振り回すくらい全然構わない。


「佳弥ちゃんは、脅されたからって仕事休む気は無いんだろ?」


「当たり前です。私が脅迫に屈したら、脅迫者が味を占めます。犯罪を肯定することにつながります。」


フンッと鼻を鳴らす佳弥を見て、幸祐がはははと笑った。佳弥はぷくっとむくれる。


「笑うところではありません。」


「うん、そうなんだけど、佳弥ちゃんらしい考えだな、と思ってさ。」


 当たり前だ、私なんだから、と佳弥は口に出さずに文句を言った。


「何にせよ、俺と佳弥ちゃんでは手に余るかもしれないよな。そもそも、危害を加えてくるような相手がいるなんて、バイトの契約の時に聞いていないし。」


「そうですね。もっと穏やかなものであるはずでした。」


「一度、事務所に行って話を聞いてきた方が良いな。」


 幸祐は珍しく真面目な顔をして呟いた。ミルクティーを飲み干して、着けっぱなしの腕時計に目を遣る。


「こんな時間か。佳弥ちゃん、もう遅いから帰りなよ。飛鳥さんが来たら、俺が話を聞いとくからさ。」


 佳弥もスマホで時刻を確認した。もう九時近い。最早、制服のままうろうろして正当な時間ではない。帰ったら父からお小言がありそうだ。父は佳弥に似て、少し頭が固い。


 それにしても、飛鳥を夜空に見送ってから二時間近く経過している。二時間も屋根の上を跳ね続けられるとは思えない。変身したって超人的な体力膂力が手に入るものではないことを、佳弥は身をもって実感している。世にあふれる魔法少女やヒーローとは違うのだ。飛鳥の身に何かあったのだろうか。


 でも、家のことも心配になって、佳弥はおとなしく帰ることにした。佳弥がこうして幸祐の家の玄関で待っていようと、自宅に帰ろうと、飛鳥の安否に影響は無いはずだ。


「すみません。では、お言葉に甘えて帰らせて頂きます。」


佳弥はタオルとマグカップを幸祐に返した。少し悩んで、礼儀のためにもちゃんと伝えることにする。


「とても美味しかったです。ごちそうさまでした。」


「喜んでもらえて、良かった。」


 にこり、と幸祐は微笑んだ。佳弥には真似できない、人好きのする子どものような笑顔である。これを見るたびに、佳弥は何となく負けたような気がして、悔しくなる。そして、しかめっ面になる。余計に心が老ける。甚だ、面白くない。


「あ、そうだ、ちょっと待ってて。」


 佳弥の気も知らずに、幸祐はよいしょと立ち上がった。カップをシンクに置いて、開き戸の奥の部屋でごそごそと音を立てる。あそこも散らかってるんだろうな、と佳弥は疲れた頭の隅で考える。


 暫くすると、幸祐は洒落たデザインの小さな紙袋を提げて現れた。


「少し早いけど、クリスマスプレゼント。チョコレートだからさ、心愛ちゃんと一緒に食べてよ。」


何だか高そうな、それでいて中身がちょっとしか入っていなさそうな綺麗な紙箱が袋の中にある。受け取るべきか、否か迷って、佳弥は素直に手を出した。他人様の善意と好意は無にしない、それが竹本家の家訓である。


「ありがとうございます。気を遣って頂いて、すみません。」


 礼には礼をもって応えるべし。佳弥は深々と頭を下げた。


 そうだ、と佳弥は少し思いついた。ゴアのためにも、名誉を回復しておいてやるか。思いやりの連鎖だ。


「あの、心愛なんですが。」


「ん?」


「愛くるしい本名で呼ばれるのが心底嫌らしいので、あだ名で呼んであげてください。あの子の友達はみんな、ゴアって呼んでますから。」


ゴア、と口の中で繰り返して、幸祐は吹き出した。


「女の子なのに、物々しい名前だな。でも分かったよ。ゴアちゃんによろしくな。」


ちゃん、はどうしても抜けないらしい。これはもう、そういう病気だから仕方がないものとしよう。佳弥にできるのはここまでだ。


 佳弥は幸祐に挨拶をして、アパートを後にした。


 帰り道、飛鳥や黒い影に遭遇しないでもない、と辺りを警戒して歩いたが、特に変わったことは生じなかった。ただし、やれやれと安堵して家の門をくぐった佳弥は、案の定待ち構えていた父のお叱りを受け、心身ともに疲労困憊となってしまったのであった。

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