第21話 疲れた体でお片付け

 さすがに、この人ごみの中でさっきのような大立ち回りは無いだろう。佳弥は念のために上も下もとっぷりと目を配った。やはり、黒い影は無い。


 佳弥はスマホを取り出して、物陰で変身を解いた。とりあえず、地下鉄に乗って幸祐のアパートに向かわなくては。全然気が乗らないが、飛鳥の指示とあれば従わざるを得ないだろう。あんな別れ方では、事後のことが気になるし。


「へっくち!」


 佳弥は一つ大きなくしゃみをした。束ねた髪の毛の先から水が滴るほど濡れているので、頭が寒い。頭が冷えると、思いのほか全身が冷える。ハンドタオルは既にびしょぬれなので、佳弥は行きたくない場所に向かう前に、タオルを購入することにした。多少、逃避が入っているかもしれない、と自覚はしている。


 駅前の大きなビルに入っている百均に佳弥は足を延ばした。コンビニで済まさないのは、少しでも嫌なことから遠ざかっていたい気持ちと、コンビニが割高であることによる。ほんの数分余分に歩けば、老後の資金が五十円くらい貯まるではないか。五十円を笑うものは、五十円に泣く。


 佳弥は百均の棚の間をすたすた歩き、タオルを探した。百均は猥雑な百貨店である。何でも売っているので、欲しいものを探すのに手間取る。


「ん?」


 佳弥は棚の奥で、口の大きなショッピングバッグを提げた中年女性の後ろ姿に気付いた。何気ない素振りで商品を手に取り、棚に戻し、また別の商品を手に取って検分する。時折、商品は手から棚に戻らず、ショッピングバッグに放り込まれる。


 佳弥は額に手を当ててため息をついた。百円だから、安物だから、タダでもらったって平気でしょ。そんな声がダウンコートの背中から聞こえてきそうだ。安物だからこそ、一点一点の薄利を積み上げることが必要であると、何故分からないのか。そもそも、安かろうとまずかろうと、受けたサービスに対価を払わない精神は佳弥には全く理解できない。どこかの誰かが一生懸命作ったという事実そのものだけにでも、価値はあるんじゃないのか。


 佳弥はスマホの画面をタップして、黒衣に変身した。バールのような物でどついてやりたいが、さすがにそれはまずいので実行しない。中年女性の脇にぴったり寄り添い、女性がせっせとバッグに商品を入れるたびに、それをバッグから取り出して棚に戻した。暫くして、女性がバッグが妙に軽いままであることに気付いて中身をちらりと見遣った。その顔に、はっきりとはてなマークが浮かぶ。バッグの底をチェックして、穴が開いていないことを確かめる。


「おかしいわね…」


ひとりごちたものの、女性は気を取り直して、再度商品を手に取り始めた。佳弥は苦り切った表情のまま、濡れたハンドタオルを取り出した。さっきまで外にいたから、大層冷えている。佳弥はそれをたらりと下げ、タオルの端で女性の後ろの首筋をゆっくりと撫でた。


「ひゃっ!」


佳弥とは違って、随分と可愛らしい悲鳴を上げて女性は文字どおり跳び上がった。不安そうにきょろきょろと辺りを見回すが、すぐそばでむっつりしている佳弥には気付かない。それでもなお商品に手を伸ばそうとするので、佳弥は今度はハンドタオルで女性の頬をつるりと撫でた。


「きゃぁっ!」


 女性は顔に手を当てて、その場に立ちすくんだ。顔色が真っ青である。手に持っていた商品をすぐそばの棚に置いて、女性は店から走り去った。


 やれやれ、と佳弥は適当に置かれたその商品をあるべき場所に戻した。私は万引きGメンではないんだけどな、とぼやく。


 善行を積んだものの、何だかくたびれて、佳弥はうつむき加減で店を出た。暗がりで変身を解き、地下鉄に乗ったところで、タオルを買い忘れていたことに気付く。他人様の心配ばかりして、自分の買い物を失念してしまうとは。ますます元気が無くなる。


 うなだれたまま佳弥は地下鉄駅を出た。ブーンとスマホが唸ったので画面を見ると、本日のツボ押しの成果発表である。横断歩道も渡ったし、お湯掛け地蔵も達成したので、効果はあったのだろう。しかし、内容を見て佳弥はがっくりと肩を落とした。万引きの発生を抑制しました、とのことだったのである。やっぱり、シンハオのツボ押し成果判定システムは壊れているんじゃなかろうか。黒い人影が言っていたのもあながち間違いではない。ツボを押して世の中を良くしたなんて思っているのは、確かに滑稽だ。


 佳弥は元気なく道を歩き始めた。今日はバイトで転びまくったし、万引きGメンもくたびれたし、飛鳥はどうなったか気になるし、疲れた。それなのに、幸祐のアパートに集合しなければならない。今日いなかったんだから、あいつは抜きで良いんじゃないのか。佳弥は内心でぶつくさと文句を言う。道中、前回通ったときに幸祐がいたずらしようとした場所がそこかしこで目に入って、悪しき思い出のせいで余計にくたびれる。


 疲労のためにうっかりしていた佳弥は、背後から駆け寄る気配に全く気付かないままとぼとぼと歩き続けた。唐突に肩を叩かれて、仰天して飛びのく。


「そんなに驚かなくても良いじゃん。さっきから呼んでたんだから。」


「ああ…市川さんでしたか、そうでしたか。」


心臓止まるかと思った、と佳弥はため息をついた。黒い影が追っかけてきたのかと思った。幸祐のとぼけた顔を見て、佳弥正直なところかなりほっとした。


「さっき飛鳥さんから連絡があったよ。でも、何で俺んちに集合なんだろう?」


「さあ、三人揃って場所が分かるのがそこくらいしかないんじゃないですか。」


「なるほどな。とにかく、佳弥ちゃんはゆっくり歩いてきてよね。俺、先に帰るから。」


それだけ言うと、幸祐はだっと駆けだした。一人置いていかれた佳弥は、呆然とその姿を見送る。


 さては、今から部屋を片付けるんだろう、と佳弥は想像し、肩をすくめた。まあ、せいぜい頑張るとよろしいでしょう。


 とはいえ、佳弥は幸祐の部屋に上がるつもりはさらさら無い。親しくも無い異性の住居の敷居をまたぐなんて、そんな野蛮で危険な真似はしたくない。アパートの駐車場で待っていれば良いだろう、と考えている。実際、ゆたゆたと歩いてアパート前まで到着した佳弥は、駐車場の灯りの前に陣を構えた。頭が冷たいし、寒いけれど、我慢できないほどではない。蛍光灯が温かいなあ、などと思いつつ夜空を見上げる。黒い影も、飛鳥の姿も見えない。飛鳥が遅くならないと良いけど、と佳弥はぼんやりと独りごちた。


 がちゃ、と戸の開く音が遠くから届いて、佳弥は顔を向けた。二階のドアから、幸祐が手招きしているのが見える。しょうがない、と佳弥はしぶしぶ外階段を登って戸口まで赴いた。


「お宅に上げて頂く必要はありません。ここで待っています。」


硬い表情の佳弥に、幸祐はぽりぽりと頭を掻いた。


「散らかっているところに入ってもらうのは、俺としても非常に心苦しいけど、外にいたら風邪ひくよ?何でか知らないけど、髪の毛濡れたままじゃん。寒いだろ。」


「寒い方がマシです。」


てこでも動きそうにない佳弥の様子に、うーん、と幸祐は唸った。


「ああ、そうか。男一人暮らしの家に上がるのが嫌なのか。大丈夫だって。魔も抜けたから、何もしないよ。俺、片付けで忙しいし。せめて、飛鳥さんが来るまでには何とかしないと。」


「…そんなにひどいんですか。」


「うん。俺、片付けって苦手なんだよね。掃除は好きだけど。ほら。」


申し訳なさそうにしながら、幸祐は戸を開け放った。外から見える範囲でも、物が散乱しているのが分かる。佳弥は深くため息をついた。あれでは、人をお招きすることはとてもできないだろう。飛鳥が来ても、寒空の下で会話するしかないのではないか。本当に、何でこんなところを集合場所にしたのやら。駅前の喫茶店で良かったのではないか。


 心底呆れた様子の佳弥に、幸祐が小さくなって謝る。


「いや、もう、ホント、すみません。」


「分かりました、少し手伝います。」


 佳弥は諦めて、玄関に入った。靴を脱いで上がるのは抵抗があるので、三和土に立ったまま様子を窺う。幸祐はスーツから着替えもしないで立ち働いているようだが、全然機能していない。右の物を左に動かして、左の物を右に動かして、と思うと上の物を下に、下の物を上に、とその時々の思い付きで動いているだけなので一向に進まないのである。掃除は好き、と言っていた言葉に嘘は無いのか、不思議と埃や汚れは目立たない。この散らかりっぷりのままどうやって掃除しているのか、佳弥はそこが気になるところではある。


「市川さん、市川さん。」


 無駄に動き続ける幸祐を、佳弥はぼそぼそと呼び止めた。


「順序よくやりましょうね。まずは、新聞を拾い集めましょうか。いいですか、新聞だけですからね。」


年長者が子どもに教え諭すように、落ち着いた声で佳弥は指示をした。幸祐は素直に返事をして、そのとおりに動く。具体的に言われれば、片付けられるらしい。


「じゃあ、次は本です。中を見ちゃだめですよ。物体としての本を集めてくださいね。」


 言っておいて、佳弥は玄関に立ったままその辺りに置きっぱなしだったひもで新聞を縛った。荷の束縛術は生活の役に立つので、佳弥はしっかり会得している。


 そうやって一種類ずつ順番に片付けていくうちに、部屋は何とか見られる程度には整った。片付け用であろうか、物がごった煮状態で突っ込まれている箱があるが、今はああいうものにまで手を出す時ではない。飛鳥が来た時に、足の踏み場があればそれで良かろう。


 潰した段ボールを縛って、佳弥は腰を伸ばして叩いた。変身していなければ腰痛は無いが、何となく習い性になってしまっている。


「すごいなあ。佳弥ちゃんのおかげであっという間に部屋が片付いたよ。ありがとう。」


 幸祐がフロアシートで床を拭き、片付けを完了させた。テレビの取材カメラが入ったら少し気まずいかもしれないが、小学校の先生の家庭訪問を受けても良いくらいには仕上がった。元と比すれば、大した向上である。


「はいはい、片付けたのは市川さんですよ、よく頑張りましたねえ。」


疲労に疲労が重なった佳弥は、おばあちゃんの口調で適当に幸祐をあしらって、玄関に腰を下ろした。さすがにもう、外で待つのはしんどい。靴は脱がないが、室内にいさせてもらおう。

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