第19話 足がもつれるお年頃

 週明けもまだ、幸祐はツボ押しバイトに出勤停止のようだった。金曜日に佳弥が会ったときは怪しい目つきも妙な言動も無かったが、魔は抜けきっていないということらしい。しかし、おかげでまた飛鳥と組んで仕事ができる。佳弥はほくほくしてバイトに向かった。腰痛も無いし、意欲は高まるし、本当にずっとこうだと良いと思う。


「良い知らせよ、佳弥。幸祐クン、明後日から復帰して良くなったの。」


 集合場所で開口一番飛鳥に告げられ、佳弥はその場に崩れ落ちた。


「あら、そんなに嬉しいの?」


「逆です。全身を貫くような悲しみで、膝の力が抜けました。」


心なしか、腰痛も戻ってきた気がする。佳弥はフラフラと立ち上がった。眩暈がする。一気に老けたのではあるまいか。


 だが、今日はまだ、飛鳥が相棒だ。明後日のことを憂えてくじけている場合ではない。今日という良き日を有効活用しなければ。どうせ、幸祐が戻ってきたら、ろくすぽツボを押せなくなるのだから。佳弥は己を奮い立たせて、背筋を伸ばした。腰痛なんて無い、と自分に言い聞かせる。


 とりあえずの本日の一件目は、準備体操のような簡単な指示であった。駅前の大きな交差点の歩行者用信号が青のうちに、道路を渡って戻って一往復せよというのだ。頭がおかしいんじゃないかというような内容だが、とても易しい。何しろ交差点の規模が大きいので、青信号の時間も長い。小走りに渡れば容易に往復できる。佳弥の心を立て直すにはうってつけである。


 佳弥と飛鳥は大通りの東西に分かれて、それぞれ青信号を待った。人通りが多いので、ぶつからないようにだけ注意をしなければならない。青信号が点灯し、歩行者の塊から少し離れたところから佳弥はぽんと飛び出した。歩く人を追い抜いて対岸に渡り、くるりと踵を返してもう一度渡る。簡単で助かるなあ、と佳弥が交差点の中央に差し掛かった時、上げようとした足元に何かが引っかかった。靴の紐でも踏んだか、と思いつつ佳弥はものの見事にずっこける。膝をしたたかに打ち付けて大層痛い。しかし、顔を上げると歩行者用信号がすでに点滅しているではないか。変身している佳弥は他者から認識されないので、赤信号になってしまったら気付かれないまま轢かれてしまう。マズイ、と焦った佳弥の背中に、飛鳥の声が届いた。


「中央分離帯に避けなさい、間に合わないわ!」


 佳弥は言われるままに、速やかに中央分離帯に退避した。すぐに信号が赤に変わり、右折車が待ち構えていたようになだれ込む。冷や汗ものである。


 信号が変わるのを待ち、佳弥は飛鳥と合流した。


「怪我は無い?」


「はい、この服が丈夫なので、何とか。すみません、転んでしまって。」


佳弥は飛鳥に頭を下げた。こんな凡ミス、まるで幸祐ではないか。自分が情けない。


「良いのよ、このくらいのミスなら挽回できるわ。走れそうなら、もう一度チャレンジしましょう。」


飛鳥に言われて、佳弥はこくりと頷いた。


 次の信号を待つ間に、佳弥は靴ひもを確認した。


「あれ、紐、無いな。」


靴もまた黒衣の一部なので今まで気にしたことが無かったが、紐靴ではなかった。では、加齢のせいで、自分が思っているほど足が上がっていなくて、路面に引きずっていたのだろうか。確か、施設に入っている曾祖母がそんな歩き方をしていたが。それにしても、四十五歳にして、九十過ぎの曾祖母と同じ足取りではちと加齢の進行が速すぎやしないだろうか。自分にがっかりだ。


 落胆しながらも、佳弥は気を引き締めて、今度は足を意識して高く上げながら走り出した。対岸に着くまでは、問題なし。落ち着いてターンして、交差点に差し掛かったところで、佳弥はまた何かに足を取られた。が、今度は警戒していたので何とか持ちこたえた。だというのに、何と言うことか、スマホを見ながら走ってきたおっさんが佳弥の肩に強く当たって通り過ぎ、佳弥はまたもやひっくり返ってしまった。歩行者用信号が点滅しだしたので、やむなく佳弥は再度中央分離帯に立ち尽くす。目の前を車がビュンビュン通り過ぎて、あまり気分の良い場所ではない。


「すみません。」


 青信号の隙に道を渡り小さくなって謝る佳弥に、飛鳥は難しい顔をした。


「おかしいわね。こんなに失敗が続くような課題じゃないはずだわ。」


「あいすみません。この老いさらばえた身体が何とも申し訳ないです。」


「いいえ、これはきっと、佳弥は悪くないのよ。嫌な感じがする。」


飛鳥は腕を組んで、交差点に厳しい視線を向ける。


 と思ったら、ふと笑顔になって佳弥を見つめた。


「それより、佳弥のその姿は四十代半ばというところかしら?」


「はい。恥ずかしながら。」


「人間、四十過ぎからが本番よ。老いさらばえたとか恥ずかしいなんて言わないで頂戴。もっとも、女子高生からしたら、二十歳だってオバサン、オジサンなんでしょうけれどね。」


うふふ、と飛鳥は口元に手を当てて笑い、佳弥のサングラスとマスクを取り去った。


「可愛い顔をしているのだから、余分なことをしない方が良いわ。」


「いや、自分で自分がショックですから。」


「大丈夫よ。何なら、あたしがメイクしてあげるから。たっぷり十は若返るわよ。」


艶然と微笑む飛鳥に、佳弥はちょっぴり心動かされた。そして、その直後にがっかりした。飛鳥と組んで仕事をするのも、今日か明日で終わりなのだ。若返りメイクをしてもらえるチャンスなんて、無いじゃないか。


「メイクはまた今度してあげるとして、視界が暗いと、魔に気付きにくいのよ。真面目な話、サングラスはよした方が良いわよ。」


「ああ、そうなんですか。」


それは残念。仕事に支障を来すなら、外さざるを得ないだろう。仕方がないので、佳弥はサングラスとマスクをポーチに片付けた。こうなったら、なるべくガラス面やツヤツヤの石材には近付かないでおこう。佳弥はいまだかつて、変身後の己の顔をしかと眺めたことは無かった。佳弥であっても、それは怖すぎるのだ。


「じゃあ、最後にもう一度だけやってみましょう。これでも佳弥が転んじゃうようだったら、この課題はパスよ。危険すぎるもの。」


 はい、と佳弥は生真面目な顔で返事をした。


 道路をまたいで二手に分かれ、佳弥と飛鳥は青信号を渡った。佳弥は今度は往路にできるだけ早く走って時間を稼ぎ、復路は辺りを警戒しながら歩くことにした。交差点の中央、車道の上では飛鳥が佳弥の傍らをすれ違い、辺りを警戒しながら通り過ぎる。そのおかげか、今回ばかりは躓くことも無く無事に道路を往復できた。


 佳弥はほっと一安心で胸をなでおろし、飛鳥と合流した。スマホの画面には、業務完了の文字が表示されている。二度しくじったのは特に影響が無いらしい。


「やっぱり、初めの二回は私の加齢による脚のもつれが原因だったんでしょうか。」


「そんなことは無いと思うわ。四十代って、佳弥が思っているほどには身体は衰えていないものよ。」


 次のポイントに向かって歩きつつ、佳弥は飛鳥に言われて納得いかない顔をした。佳弥は、想像の範囲で四十五歳の身体を語っているわけではない。中年になったことのない黄色いくちばしの女子高生どもが、ピーチクパーチクとオバサンをこき下ろしているのとは違う。実際の身体の感覚として、十六歳の時とは激しい落差を感じているのだ。それはもう、大きな翼で悠々と海上を飛ぶウミネコと、目も見えず地中をはいずるモグラとの差に相当する。

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