第17話 おねえさんと一緒

 週末、自室で黙々と股間蹴りの鍛錬に励む佳弥かやの耳にスマホのバイブの音が届いた。驚いたことに、飛鳥あすかからメッセージが入っている。

「あいつがダウンしたから、飛鳥さんが暫く代わりに相棒になるって?」

いくら佳弥でも、独り言の時にはわざわざ「市川さん」などと馬鹿丁寧には呼ばない。アンポンタレ、もしくはあいつとしか言わない。

 ふむ、と佳弥は仮想股間に向けてもう一発鋭く蹴りをかました。この奥義が実戦で役に立つことは分かった。役に立ち過ぎて、幸祐こうすけを潰してしまったのだろうか。それとも、家にこもっていろと言ったのに、魔のせいで外出してやらかしてしまったのだろうか。新聞の社会面と地方面には目を通したけれど、市川という名の二十代男性による犯罪は載っていなかったはず。だが、少し心配だ。

 都合の良い日時の候補を聞かれたので、佳弥は平日の午後五時以降でお願いしますと返した。

 そうして、あくる月曜日の夕方に、佳弥は飛鳥と落ち合った。相変わらずセクシーダイナマイトな飛鳥に、佳弥は目の遣り場に困る。お願いしたら、コートっぽいものくらい着てくれないだろうか。同性であってもこうなのだから、幸祐はもっと困っていたのではなかろうか。そうは見えなかったけれど。

「幸祐クンね、魔をいっぱい吸い込んじゃったでしょ。抜けきるまではツボ押しできないのよ。」

 飛鳥は佳弥と並んで歩きながら説明した。歩くたびに豊満なバストが揺れるので、気になって佳弥は横を向けない。男子と違うのは、揺れ自体にドギマギすることは無いが、見られたら嫌なのではないだろうかと忖度そんたくするがゆえに目を逸らすということころである。

「中野さんに言われて、昨日あたしがお家まで様子を見に行ったんだけど、幸祐クンもあれで平常心を保てるのだから大したものね。」

「いいえ、彼は全然平常心じゃないですよ。当日の帰り道は本当に大変でした。小学生男児気質を丸出しで。」

佳弥はあの時の心身の疲労を思い出して、サングラスの下で顔を曇らせた。今日はちゃんと仕事を休んだだろうか。あの調子で出勤していたら、即日クビになること間違いなしだ。

「それで、市川さんはいつごろまでお休みですか?もう解職くびですか?」

「嬉しそうに聞くわね。駄目よ、気の合う相棒は大事にしなきゃ。」

くすり、と飛鳥は笑った。飛鳥にまで、幸祐と佳弥は気が合うと言われて、佳弥は憮然として押し黙る。

「昨日見た感じだと、年内には復帰できそうよ。休みは十日から二週間かしらね。」

「魔って、放っておけば自然と抜けるんですか?」

「ひどくなければね。もともと、一つ所に留まる存在ではないもの。基本的には、流れることで人の世に影響を与えることができるのよ。」

「流れ出て、そばにいた私に移ったりは?」

「することもあるし、しないこともある。でも、見た感じ、佳弥は影響は受けていないわよ。」

立ち止まった飛鳥に佳弥はじっと見つめられた。魔が染みているかどうかは、見れば判るのか。佳弥が幸祐を見ても何も分からなかったが、何か見分けるコツがあるのだろう。

 その日のツボ押しの内容は、飛鳥に合わせて難度の高いものになるのかと思いきや、佳弥と幸祐のいつものぐだぐだなレベルのものだった。これなら、飛鳥がいなくても一人で良いんじゃないだろうか、と佳弥は思いながらもせっせとツボ押しに励んだ。飛鳥は幸祐と違って手が掛からないどころか、能動的かつ的確に動いてくれるので、実に円滑に仕事がはかどる。

 こうして、二時間の間にいくつものツボを押すことができて、佳弥はバイトで初めて快い疲労と満ち満ちた充実感を覚えた。素晴らしい相棒だ、ずっと幸祐が休みだったら良いのに、と佳弥は心の底から感動した。あいつを雇っておくことは、シンハオにとって大いなる損害ではないのか。

 飛鳥と別れてからスマホを確認すると、ツボ押しの成果もなかなかのものであった。いくつもツボを押して効果が増幅されたためか、何と、交通事故が一件減ったというのである。おお、社会の役に立てた、と佳弥はまた感動する。佳弥の乾いた心に潤いがもたらされる。もしかしたら四十五歳の精神も少し若返るかもしれない、と佳弥の心は大いに弾んだ。

 実際、その後に飛鳥と幾度かバイトをしている間、佳弥は腰痛が楽になったと感じていた。ストレス源がいないためかもしれないが、もしかしたら本当に心と変身後が若返ったのかもしれない。そうだと良いなあ、と夢想するが、手を見る限りでは大きな変化はないので、鏡で顔を見ることはやめておく。佳弥の根本的な性格は変わっていないのだから、四十五歳が急に二十代まで若返ったりはしないだろう。

「佳弥は本当によく働くわね。」

 何日か経ったころ、飛鳥が感心して佳弥を褒めた。幸祐がいなくて仕事がはかどるのが嬉しくて、佳弥は実に熱心にツボを押していたのである。自分でもこれほどバイトに熱意を持って取り組むとは思っていなかった。

「そう言えば、市川さんが休む直前の頃、やたらと肩透かしを食らっていたんですけど、ここのところそれがありませんね。」

それもまた、佳弥の意欲を掻き立てている要因である。指示ポイントを回っても回っても無駄足に終わると、心底嫌になるのだが、ちゃんとツボを押して業務完了の表示が出ると次のやる気も出る。

 飛鳥は、佳弥の言葉を聞くと小首を傾げ、細い人差し指を立てて頬に添えた。

「そうね。その報告を聞いていたから、あたしも今佳弥と組んでいるのだけど。今のところ、邪魔が入ったという気配は無いわね。狙われていたのは、佳弥でなくて幸祐クンの方だったのかしら。」

「さもありなん、ですね。あの阿呆、悪目立ちしますから。」

「駄目よ、佳弥。阿呆なんて言っちゃ。良い子じゃない、幸祐クン。」

「子、であることは認めます。ガキです。」

ぶう、と佳弥はむくれた。本当に、幸祐が復帰しなければいいのに。飛鳥のような上級者と組むのはいつまでも続くことではないだろうが、せめて、普通の大学生くらいの精神である人が隣にいてくれたらいいのに。魔が差したからといって、政治家のポスターの鼻穴と目に画びょうを刺そうとするガキンチョはもう嫌だ。

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