第16話 魔が差したで済んだら警察要らない
「今日は、ありがとうございました。」
佳弥は駅の入口の脇で、幸祐に頭を下げた。幸祐にはあまり自覚は無いが、幸祐に全部魔を押し付けてしまったがゆえに佳弥は無傷でいられた。そのことは申し訳なく思うし、感謝もしている。幸祐を嫌いであることと、受けた恩義とは関係無い。そこはちゃんと分けるべきだと、お堅い佳弥は考える。
「うん。今日は疲れたな。」
幸祐はぼんやりと呟いた。元気が無いな、と佳弥は訝しんだ。いつもなら疲れたと言っていてもへらへら笑っているのだが、今は雰囲気がどんよりしている。
「市川さん、大丈夫ですか?元気無いですよ。魔が効いてきましたか?」
「うん…」
心配する佳弥を、幸祐が濁った眼でじっとりと見据えた。絶対に様子がおかしい。これはすぐにシンハオの事務所に連れ込んだ方が良いのではないか。
「市川さん?」
佳弥が幸祐をのぞき込んだ途端に、突然幸祐は佳弥を両腕で強く抱き寄せた。
「な、何をするんですか!」
驚いた佳弥が抗議するが、返事が無い。ぎゅっと、ぬいぐるみでも抱くように佳弥を胸に押し付けるばかりである。もぞもぞと佳弥が押し返そうとするが、窮屈で力が入らないし、うまくいかない。
何たる破廉恥行為、と憤ると同時に、佳弥は身の危険を感じた。相手は二十七歳の男子、十六歳の女子にかなう腕力ではないかもしれない。佳弥は幸祐にしっかりと抱き締められたまま冷静に自分を取り戻した。ここは一発、大逆転の手を取るしかない。
佳弥は深く息を吸い込み、へその下に力を込めた。そして、ふんっと気合を込めて思い切り膝を突き上げた。幸祐の股間に見事に膝蹴りが炸裂する。幸祐はもんどりうって、股間を押さえたまま道の端にうずくまった。悲鳴すら上げられない様子で、小さく縮こまって悶絶している。
「痴漢行為で訴えますよ。」
ハンドタオルで全身をはたきながら、佳弥は凍てつく視線を幸祐に投げつけた。幸祐は辛うじて顔を上げた。目にいっぱいの涙が浮いているが、さっきのようなどんより感は無い。
「う、ぐ、ご、ごめん…」
「謝って済む問題だと、お考えですか?」
佳弥に問われたが、小刻みに肩を震わせる幸祐には答える余裕が無いようだ。ほんのちょっぴりだけ気の毒になって、佳弥はステッキの柄にハンドタオルを乗せて、幸祐に差し出した。半径一メートル以内に近付く気は毛頭無いのである。
幸祐は何度かタオルで涙をぬぐいつつ、暫しの間じっと痛みに耐えた。
「う、お、俺、どうかしていたよね…佳弥ちゃんに、あんなことしたら、こうなることは、分かりきっているのに。」
弱弱しい声で幸祐は呟いた。まだ立ち上がることはできない。
「いくら俺でも、しないはずなんだ。あんなこと。」
佳弥は少し離れたところから、黙って幸祐の様子を窺っている。あまりに
「今は、絶対にしたくない。お金を山のように積まれたってお断りだ。」
「それはそうでしょう。」
「いや、痛いのとは関係なく、だよ。俺だって、誰彼構わず抱きつくような変態じゃないんだからな。特に、佳弥ちゃんには、あり得ないよ。後が怖いもん。」
実際、とんでもない破目に陥っている。幸祐はもう一度涙をぬぐって、深々と息を吐いた。
「何だろう。急に、少しならいいかなって思ったんだよな。寒いし疲れたし、家に帰っても一人だし、ちょっとだけ人のぬくもりが欲しいなあ…って。あれが、魔が差すってやつなのかな。」
「やっぱり、あの魔が効いてるんですね。」
佳弥は腕を組んで唸った。今は幸祐の様子におかしいところは無い。さっきので、吸い込んだ魔は全部消化しきったのだろうか。幸祐を眺めていても、どこかから黒い水が滲むようなこともないし、判断が付かない。
佳弥はため息をついた。
「すみません、やり過ぎました。元はといえば、私の代わりに魔を吸い込んでくれたのに。」
うずくまったままちっとも立ち上がれない幸祐に、佳弥は頭を下げた。ここまで効くとは思わなかった。蹴らないという選択肢は無いにしても、原因が原因なのだから、もう少し手加減すれば良かった。手加減の具合が分からないのが難点だが。弱めにしておいて、足りなかったら何度か打てば良かったのか。強いの一発と、どっちが響くのだろう。
「いいんだ、気にしないで。俺が変なことしたのが悪いんだ。それにしても、マジで効いたよ…」
「はい、練習していますから。」
真顔で答える佳弥に、幸祐が練習、とオウム返しに言った。
「村上春樹さんの1Q84を読んだんです。最初の方で、トレーナーの主人公が女性客相手に、いざというときの攻撃手段として股間の蹴り上げを教えていて。」
人形相手にひたすら股間を蹴る講習をしていたシーンを読んで、佳弥はこれだと感じ入ったのである。それ以来、佳弥は日々鍛錬に励んでいる。人形は無いから、兄を見ておおよその位置の目星をつけて、想像の
「兄に試させてくれと言ったんですが断られました。今にして思えば、無理にでも頼んで、適切な強度を研究するべきでした。すみません、いきなり実戦で。」
「そりゃ、お兄さんが正しいよ。」
しみじみと幸祐は述べた。なるほど、脅すだけならもう少し弱くても大丈夫、本気で逃げるなら全力でということか、と佳弥は唯一の貴重なデータから判断する。
内股ではあるが何とか立ち上がった幸祐は、スラックスに付いた埃を落としながら力なくうなだれた。
「ああ、俺、この後もまたやらかしちゃうのかなあ。真人間でいられる自信が無い。刑務所は嫌だよ。」
股間の痛みより、自分の犯した過ちがこたえている。幸祐は柄にもなく、何度もため息をついた。ここから先、人が沢山いる電車に乗って、家まで無事に帰りつけるのか。また、犯罪を犯してしまうのではないか。自身に対して疑心暗鬼で、何ともならない。
「あのさ、佳弥ちゃん。一つ、お願いをしても良いかな。」
「何ですか。」
「俺の家まで付いてきてくれないか?俺から三メートルくらい離れて歩いて。何するか分からないからさ、俺の様子が怪しかったら、そのステッキで思いっきり殴ってほしいんだ。」
できれば股間以外を、と幸祐は小声で付け加える。
何だか、先日も頭を殴れと頼まれたな、と佳弥は思い出した。アンポンタレな幸祐ではあるが、多少の自覚はあると見える。
「ご自宅はどちらですか?あんまり遅くなると困るんですが。」
幸祐の自宅は、電車と徒歩で約三十分の場所だった。佳弥の自宅からもその程度である。それなら、あまり遅くならずに帰れる。このまま幸祐を野放しにするのは、佳弥も心配である。ミニスカートの女子高生の群れの中に、隠しカメラを持ったエロおやじを放り込むようなものではないのか。
犯罪者を裁くよりも、犯罪を未然に防ぐ方が大事だ。已むを得まい、と佳弥は了承した。それを聞いて、幸祐は漸く安堵したような笑みを見せた。
幸祐の自宅までの道中、佳弥は付かず離れず幸祐を監視した。心配していたとおり、時折ふっと幸祐の瞳が曇る。と思うと、電車で隣に座って寝ているおじさんの鼻穴にペンを突っ込もうとしたり、エスカレータを逆走しようとしたり、駅の壁に貼ってあるポスターにうんこの絵を描こうとしたり、低レベルな行動に走ろうとする。小学生の男子か、と呆れながらも、その度に佳弥は幸祐の児戯を食い止める。衆目を浴びながらステッキで頭をぶち割るわけにもいかないので、容赦なく手の甲をつねりまくることにした。何せ、幼稚ないたずらの衝動に駆られている最中の幸祐は佳弥など目に入らないらしいので、近付いても危険は無いのである。さすがに、列車の緊急停止装置を作動させようとした時だけは、ためらいなく後頭部を殴打したが。
ひどく気疲れして、佳弥はぐったりと地下鉄駅を出た。あと少し歩けば、任務完了である。
「ごめんな、佳弥ちゃん。」
数メートル先を歩く幸祐が振り返ってすまなそうな顔をした。佳弥につねられて我に返るたびに己のしでかそうとしていた軽犯罪に気付き、自己嫌悪に頭を抱えるということを繰り返し、幸祐自身も佳弥以上にくたびれている。
「明日はお仕事ですか?」
「土日は休み。」
「じゃあ、家にこもっていた方がいいですね。様子を見て、月曜もお休みをとった方がいいかもしれませんよ。」
「うん。俺もそう思う。本当に、自分が信用できない。」
ちらっと後ろを顧みて、幸祐は背を丸めた。
「もう少し離れた方がいいんじゃないか?俺、危ないよ。」
「大丈夫ですよ。いざとなったら蹴りますから。あ、それが怖いのか。次は手加減します。」
真面目くさる佳弥を見て、幸祐は少し笑った。
「俺、佳弥ちゃんが相棒で良かったよ。」
「私はうんざりですが。」
佳弥は正直に答えた。それを聞いて、また幸祐が笑う。何がおかしい、と佳弥は頬を膨らませた。意味も無くステッキで殴ってやろうかしら。
この夜更けにピンポンダッシュをしようとした幸祐を何とか阻止したところで、やっと二人は幸祐の自宅アパートにたどり着いた。お互いにもうヘロヘロである。
「遅くまで付き合わせて、ごめんな。本当にありがとう。助かった。人として終わるところだった。」
幸祐は佳弥から五メートルほど離れた、妙に遠いところから礼を言った。佳弥は幸祐がちゃんと部屋の中に入るところまで見届けてから、その場を後にする。
やれやれ、魔というのは本当に厄介なものだ。佳弥は、変身したわけでもないのに重くてかなわない身体を持て余しながら家に帰った。
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