第15話 その腰にズキっときたらぎっくり腰
「で、こいつはどうするかな。どう見ても、ありふれた生き物ではなさそうだけど。」
何しろ口も無いので、鳴き声も無い。がんじがらめで動けないので、静かになっている。
「中野さんに預けるしかないかなあ。焼いて食うわけにもいかないし。」
「そうですね。ああ、市川さんが食べたいなら止めませんよ。」
「食べないよ。」
「でも、これで俺らの仕事の邪魔もなくなるのかな。」
「それはどうでしょう。これがジーニアス英和辞典を買い占めたとは思えないので、他に本体もいると考えるのが妥当ではありませんか。」
確かに、と幸祐は腕を組んだ。
「じゃあ、こいつに紐付けて、飼い主のところまで案内させるか?」
「電線の上を走られたら、私には追っかけられませんよ。まあ、私たち個人の問題ではなく、法人としての営業を妨害されたわけですから、飼い主のことは中野さんに対処してもらうのが筋でしょう。」
こうした証拠があれば、中野も動きやすいだろう。至極真っ当で常識的な
「しょうがないか。じゃあ、俺、こいつを持って行くよ。」
残念そうに言って、幸祐は影を持ち上げた。殆ど重さも無く、冷たくも温かくもない。ほんの少し柔らかな手ごたえがあるだけだ。
「カラスの巣も、こんなところに置きっぱなしでは邪魔ですよね。どこか隅に寄せときましょうか。」
佳弥はハトの羽根の入ったカラスの巣を拾い上げた。針金ハンガーやらビニル紐やらで構成されていて、思ったよりもしっかりしている。
どこに置いておこうかと佳弥が辺りを見回していると、急に幸祐が叫んだ。
「佳弥ちゃん、それ離して!」
すぐに反応できない佳弥が幸祐を振り返る間もなく、幸祐が佳弥にぶつかった。はずみでカラスの巣は宙に放り出され、佳弥と幸祐は団子になってアスファルトに転がる。身体をしたたかに打ち付けて、息が一瞬詰まる。
佳弥の手を離れたカラスの巣に、黒い影が細長く伸びた。ナイフを入れるように影が巣に食い込むと、ぶちぶちと鈍い音を立ててカラスの巣が両断される。針金ハンガーも容赦なく切られている。地に落ちた頃には、カラスの巣は無残に真っ二つに分かれていた。
黒い影は再び猫のサイズの塊に戻ると、音も無く飛び退って暗がりへと消えてしまった。幸祐が縛るのに使った黒い布切れが、力なくカラスの巣に絡むようにして落ちている。
佳弥と幸祐は言葉を失って、アスファルトの上にへたり込んだままカラスの巣を見つめた。ハトの羽根も切断されている。
「ここまでして、俺らの邪魔をする意味があるのか?」
「そんな大それた仕事はしていないはずですけどね。」
佳弥は上体を起こした。倒れ込んだ時に打ったせいか、腰がぎくりと痛む。立ち上がれないので、そのままスマホを取り出してアプリを確認した。
「緊急事態、即刻その場を離れて回避してください…だそうです。」
画面を読み上げて、カラスの巣に目を戻した佳弥は、なるほどと頷いた。すぐ隣で幸祐が息を呑む。
「どう見ても、ヤバイやつだ。」
「はい。」
カラスの巣の断面から、二人に向かって薄い墨汁のような水が染み出してきていた。しかも、以前神社の手水舎で見かけた時とは比べ物にならない勢いで広がっている。
逃げよう、と幸祐は立ち上がった。佳弥もステッキにすがって立とうとして、低く呻いた。腰に激痛が走って砕けて、力が入らない。
「こ、腰が…。ぎっくり腰かもしれません。」
おのれ、四十五歳の身体め、と佳弥は自分を呪った。はいつくばって逃げようにも、その動きさえ腰が痛い。幸祐が手を貸そうとしたが、姿勢を変えるだけで全身がふにゃふにゃになるほどの激痛が走る。ぎっくり腰って、こんなに辛いものだったのか。ぎっくり、などというひょうきんで軽いイメージの名前ではとても言い表せない苦痛ではないか。でも、このタイミングでそれを実感しなくてもいいのに。
佳弥はカラスの巣を振り返った。墨汁のような、飛鳥が言うところの魔はすぐそこまで迫っていた。
どうなるのか分からないが、もう避けられない。やんぬるかな。佳弥は覚悟を決めた。
その時、佳弥をかばうようにして幸祐が割って入った。直後に、カラスの巣から流れ出た黒い水が幸祐に触れ、低いところへ流れるようにして勢いよく幸祐に吸い込まれていく。黒い水は僅かな時間ですべて幸祐に注ぎ込んで、姿を消した。路面も濡れていないし、初めから何も起こらなかったのように跡は何も残っていない。ただ、二つに分かれた乾いたカラスの巣が転がっているだけだ。
「あの、市川さん、大丈夫ですか?」
佳弥に覆いかぶさるようにしてぎゅっと目を閉じている幸祐に声を掛けると、幸祐は恐る恐る目を開き、佳弥から離れて上体を起こした。背後を振り返って、黒い水が消えてしまったことを確認し、二重瞼のどんぐり眼をしばたかせる。
「あれ、どうなっちゃったの?」
黒い水に接触した幸祐自身は何も感じていなかったらしい。佳弥は目撃した状況を説明した。
「えっ、俺、あの魔を吸い込んじゃったのか。どうなるんだ?死んじゃう?」
「すみません。私にも責任があるので、お葬式には行きます。」
さすがに申し訳なくて、佳弥はしおらしく頭を下げた。佳弥の見ていた範囲では、黒い水は一滴残らず幸祐に染み込んで、佳弥には触れていないはずだ。
「やめてくれよ、縁起でもない。」
「自分で言ったんじゃありませんか。それで、今のところ、体調に変化は無いんですか?」
「うん。さっきも何の感覚も無かったし、今も特に変わらないなあ。痛くもかゆくもないし、ムラっと悪いことをしたくなるとか、そういうのも無いよ。」
佳弥はサングラスの奥からじっと幸祐の瞳をのぞき込んだ。相変わらず、子どもじみた輝きのある目をしている。猛烈に魔が差している感じではない。もっとも、魔が差した瞬間の人の顔なんて、どんな様子だか分かったものではないが。とりあえず、今の幸祐は正気に見える。
「確かに、変わりなさそうですね。でも、一応、事務所に行って相談した方が良いと思いますよ。逃げろっていう指示があったんですし。」
「そうだな。明日にでも顔出してみるよ。」
幸祐も不安そうに答えた。
「今日はこれで終わりにしよう。佳弥ちゃん、立てる?」
佳弥は尋ねられて、黙って首を横に振った。少しでも腰に重力が掛かると、とんでもない痛みに襲われる。仕方がないので、佳弥はその場で変身を解いた。ふっと体が軽くなり、腰の痛みが和らぐ。おそるおそるステッキを使いながら立ってみると、何のことは無い、地面でぶったところが微かにうずくくらいで、腰痛は殆ど感じられない。佳弥はため息をついた。今は若いから良いけれど、生きていれば必ずあの腰がやってくるのだから、今のうちに三十年後に備えるべきなのかもしれない。
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