第10話 カラオケボックスでもツボは押せる その2
そうしていくつか英文を訳したり、質問したりしていた時、ふと
何となく気になって、ゴミ箱に入れる前に佳弥はヘアゴムをしげしげと眺めた。こんなふうに突然切れることはめったにない。そんなにくたびれていたかしら。びよんと伸ばしてみたけれど、それほど弱っている気配は無い。変だな、とこねくり回して、佳弥は手を止めた。切断部分が、妙に綺麗だ。劣化してちぎれたにしては、ほつれも糸くずも無い。まるで、刃物で切ったかのようだ。
首を傾げて、佳弥はヘアゴムをデイパックのポケットにしまった。後で明るいところでよく見てみよう。
しかし、ヘアゴムが無いと、髪の毛が鬱陶しい。テーブルの上のノートを読もうとすると、ばさばさと落ちかかってくる。むう、と顔を上げた佳弥の目の前に、
―試作品をもらったからあげる
メモを書いて、にこ、と幸祐が笑う。
佳弥は、他人の好意は素直に受け取ることにしている。お礼代わりに頭を下げ、佳弥は頂いたヘアゴムで髪を結んだ。佳弥にはヒマワリは見えないが、とりあえず髪の毛の暴走は収まった。よし。
ところが、いくらも経たないうちに、また佳弥の後頭部からプツリと音が響いた。ぽとりと椅子の上に落ちたヒマワリのヘアゴムは、やはり鮮やかな切断面を露わにしている。
ヒマワリのゴムを伸ばしたり縮めたりしながら、佳弥は声にならない声で唸った。変だぞ、この部屋にはかまいたちでもいるのか?背後を振り返ってみたが、ソファの背もたれと壁があるだけだ。
―ゴムの切れ目が刃物で切ったみたいです。変ですよね
佳弥はメモを書いて、さっきのヘアゴムとヒマワリのゴムを幸祐に渡した。幸祐が見分している間に、もう一本残っていたヒマワリゴムで髪をまとめる。
これも切れたらどうしよう。生きる死ぬの問題は無いが、何だか気味が悪い。
背後が気になって、もう一度佳弥が振り返ると、ふっと耳の端に痛みが走った。キャッ、とかイヤン、とか、可愛い悲鳴を上げるような佳弥ではない。イデッと言いそうになって、堪えるためにぐっと唇を噛んだ。ここで声を上げたら、努力が水の泡。何とか急場はしのいだが、文字通り耳が痛い。手で触れてみたら、ぬるっとした。血が出ている。
チクショウ、と何だか分からない相手を心の中で罵って、佳弥はハンドタオルで耳を押さえた。佳弥が無言で対処しているので、何が起こったのか気付かなかったのか、幸祐が目をぱちぱちとさせている。佳弥はシャーペンを持とうとして、手にまだ血が付いていたので、それを幸祐に見せて耳を指し示した。
―急に耳が切れました
片手で耳を押さえたまま、佳弥はメモを書く。止血には、三分くらい押さえていればいいんだっけ。
驚いた様子で腰を浮かしかけた幸祐を目と手で押しとどめ、佳弥はもう一度ゆっくりと後ろを振り返った。特に何も変わったところは無い。ソファの後ろは壁にくっついていて、暗殺者が入り込む隙間は無い。背もたれは薄いので、そこに立っていることはできないはずだし、そもそも誰もいない。天井を見上げると、壁と天井の境目に黒い細長い影のようなものが一つくっついているが、パテか何かがはみ出た物だろう。かまいたちになりそうなイタチはいない。刃物もぶら下がっていない。
気味が悪いったらありゃしない。しかし、スマホを見ると、もう暫くはこのままじっとしていなければならないらしい。
佳弥がテーブルに向き直ると、幸祐が上着を頭にかぶるふりをして見せた。少し考えて意図を理解し、佳弥は自分の黒衣の上着をひょいと頭の上まで引き上げてかぶった。ヘルメットが良いけれど、無いものは仕方がない。防御力は低そうだが、ぬののぼうし、を装備しておこう。
―大丈夫?
心配そうな顔をする幸祐に、佳弥は頷いて見せた。痛いだけで、耳本体に別条はない、と思う。見えないから分からないけど。耳を握りしめて数分経過したので、佳弥はそっとタオルを放してみた。
―どうなっていますか?
横を向いて、幸祐に耳を見せる。身を乗り出して傷の具合を確かめていた幸祐は、やがてノートに簡単な図を描いた。耳たぶの少し上の辺りが深く切れているらしい。血は止まっているようだ。
そんなところでは絆創膏も貼りにくいし、困ったものだ。きっと、シャンプーの時にめちゃめちゃに沁みるだろう。佳弥はため息をついた。まあ、乙女の大事な顔でなかっただけマシか。
―何だろう。ツボと関係があるのかな
―考えても分かりませんよ
幸祐の疑問に、佳弥は肩をすくめた。気持ち悪いけれど、どうしようもない。世の中のツボを押すなどという胡散臭いバイトだし、こういう危険性もあるのだろう。危険手当がついて、時給が百円くらい一気に上がると良いのだが。身の危険があるのに時給がほぼ最低賃金と同額なのは、納得いかない。
ぬののぼうしのおかげか、それとももう犯人がいなくなったのか、それ以降は何かが切られるということも無く、だんまり時間は終わりを迎えた。スマホに任務終了の表示がされ、幸祐はすぐさま立ち上がって伸びをした。
「うう、今回は辛かった。」
お疲れさまでしたと言いながら、変身を解く前に佳弥は黒衣を改めた。知らぬ間に切れ込みが入っているという様子は無い。やれやれ、と佳弥は変身を解除する。その佳弥を横から覗いて、幸祐は佳弥の耳の具合を確かめた。
「とんだ災難だったな。まだ痛い?」
「ええ、痛いことは痛いです。まあ、そのうちくっつくでしょう。」
じゃ、と言って佳弥はすぐに帰ろうとして、思いとどまった。今日は、幸祐に恩義がある。ちゃんとお礼を言うべきだろう。
「今日はありがとうございました。英語と、ヘアゴム。」
そう言って、深々と頭を下げる。
「こっちこそ、気を紛らわせてくれて、ありがとう。助かったよ。」
「いえ、それは仕事ですから。」
幸祐が失敗すれば、ペアである佳弥も連帯責任を取らされる。フォローするのは当たり前である。そうでなかったら、勝手にうろちょろして失敗して頂いて構わない。というより、そもそも、二人でカラオケボックスなんて、仕事でなかったら絶対にお断りだ。今日は楽しく歌を歌えという指示でなくて良かった。
温かみのない佳弥の表情に、幸祐は苦笑した。
「無理を承知でお願いするんだけどさ、佳弥ちゃんの写真撮って良いかな。」
「たわけたことを言わないでください。肖像権ってご存じですか。私は帰ります。」
「そこを何とか。顔は撮らないから。ヘアゴムを撮りたいんだ。作った人たちの励みになるかもしれないじゃん。」
佳弥は仏頂面のまま、幸祐を見つめた。何だか理由がよく分からない。
「それ、作ってくれたのは、知的障害のある人たちなんだ。売れる商品を開発するのがなかなか難しくてさ。ヘアゴムなら価格も手ごろだし、良いかなって。」
「そうですか。」
「試作品をもらったはいいけど、俺だとモデルにならないじゃん。写真をどこかに公表したりはしないよ、皆に見せるだけ。だから、どうかな。」
佳弥は仏頂面の深さを増した。そんなことを言われたら、断りづらいではないか。
佳弥は黙ったまま店を出た。それでも、帰らずに、精算を済ます幸祐を待つ。
「撮ってもいいですけど、データはすぐに消してくださいよ。」
ぶっすう、とした表情で佳弥は獣のように低く唸った。どう見ても快諾とは呼べない。
やったあ、と小躍りして、幸祐はスマホを構えた。一回だけ、わざとらしい人工のシャッター音が佳弥の背後で響く。
「お、綺麗に撮れたよ。見て見て。」
「どうでも良いですよ。」
と言いつつ、顔が入っていないかが心配なので佳弥は一応確認をする。耳に怪我をしていない側を斜め後ろから、バストアップで写してある。顔は微かに輪郭が写っているが、誰かは分からない。まあ、許容範囲か。頭の後ろで、ヒマワリが街灯を浴びて淡く輝いている。確かに、綺麗に撮れている。
「まあ、良いですよ。でも、本当に、使い終わったら消してくださいよ。市川さんのスマホに私の写真が存在しているというだけで、鳥肌立つほど気持ち悪いんですから。」
「なかなかひどいことを言うなあ。そこは俺を信用してよ。」
「市川さんだから心配なんです。SNSに流したりしたら、市川さんの存在を消しますからね。」
「佳弥ちゃんが言うと、マジで消されかねない気がするな。肝に銘じておくよ。」
幸祐は真顔で呟いた。佳弥も八割がた本気である。
幸祐は、帰りに寄るところがあるから、と駅に背を向けた。別れ際に、佳弥に声を掛ける。
「佳弥ちゃん、気を付けて帰れよ。どう気を付けたらいいのかは、よく分からんけど。」
まったく、そのとおりだ。佳弥も気を付けたいが、具体的な方策は思い浮かばない。曖昧に頷いて会釈し、佳弥は家へ帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます