第9話 カラオケボックスでもツボは押せる その1

 幸祐こうすけはいつもより早めの六時過ぎを指定してきたので、佳弥かやはゴアとの勉強を切り上げて集合場所に向かった。住宅地と繁華街の境目に立地しているカラオケ屋が本日の勤務地だ。

 佳弥は六時前に到着して、変身はせずに英語の教科書を読みながら幸祐を待った。六時過ぎ、の「過ぎ」がどの程度のものかは個人差のあるところだろう。佳弥なら、十分以内である。果たして幸祐はどうなのか、まああいつならば三十分以内に来れば御の字だろう、と佳弥は醒めた予想をする。

「んん…admire…何だったっけ。」

 テスト範囲だから、一度は授業で読んだところだが、抜け落ちるものである。

「称賛する、感心する。」

ひょい、と幸祐が斜め上から教科書をのぞき込みながら言った。佳弥は驚いて飛び退いた。

「そんなに驚かなくてもいいじゃん。」

「突然現れないでください。」

ぶつくさと文句を垂れつつ、佳弥はさっき悩んでいた英語の文章を確認する。何だって?感心する?

「会議の参加者は皆、彼女の勇気に感服した。」

なるほど。と佳弥は感服したところで、改めて幸祐を見上げた。

「英語、読めるんですね。」

「あのなあ、俺、大学出てるって言ったろ。今の佳弥ちゃんよりは読めるよ。」

 それはそうかもしれない。佳弥は中学を出てまだ一年も経たない。中学と比べて、高校の英語の教科書がぐっと難しくなったことに驚いている。アンポンタレであっても、幸祐はかつてこの難しい教科書を乗り越えてどこかの大学に受かったのだから、大したものなのだろう。佳弥は、学力面についてはほんの少しだけ幸祐の評価を見直すことにした。佳弥は律義なのである。

「英語は割と得意だったし、分からないところがあったら聞いてよ。」

「ありがとうございます。困ったらそうさせてもらいます。」

 殊勝に礼を言う佳弥を、幸祐は不思議そうに眺めた。それに気付いて、佳弥が眉をしかめる。

「どうかしたんですか。」

「いや、佳弥ちゃんが随分と素直だから、どうしたのかなって。どこか具合でも悪い?」

「失礼な。他者に対しては正当な評価をしようと努めているだけです。」

「そうか。やっぱり、堅いなあ。」

 ははは、と幸祐は楽しそうに笑った。佳弥は面白くなくて、ぶうとむくれる。時計を見ると、六時二十分。六時過ぎ、と表現できるギリギリかもしれない。何だか腹が立つが、英語も教えてくれたし、許容しておいてやろう。

「さて、まだ変身しない方が良いよな。カラオケに入るのに、変身してたら受付してもらえないもんなあ。」

 幸祐はポケットからスマホを取り出して眺めた。今日の指示は、カラオケボックスに入って、座ったまま無言で一時時間以上過ごせというものだった。歌わずに曲を流しておくのも、ドリンクを頼むのも、スマホを見て時間を潰すのも不可らしい。意味不明にもほどがある。不毛な時を過ごすことに意義があるのだろうか。

 幸祐はスマホを何度も読みながら、困ったように頭を掻いた。

「俺、じっと静かにしているの苦手なんだよなあ。」

「そうでしょうね。」

 これまでの行動を見ていれば分かる。佳弥は静かに同意した。

「なるべく気を付けるけどさ、駄目だったら、ごめんな。」

「弱気ですね。市川さんがそわそわしだしたら、ぶっ叩きましょうか。」

「うーん、そうだなあ。それが良いかも。さっきの教科書で殴ってくれよ。」

冗談で言ったつもりが、しおらしく返されて、佳弥は毒気を抜かれて黙った。いくら何でも、無抵抗の相手を問答無用で殴るほど佳弥は乱暴ではない。気に食わないことを繰り返し言われれば、蹴ることはあるが。

 これは困ったな、と佳弥は悩みながら入店した。ボックスに案内され、扉の前で幸祐は不安そうに佳弥を振り返った。

「なあ、本当に頼むよ。」

「善処します。」

 薄暗い照明のボックスに入って変身し、二人は押し黙ったまま向かい合って座った。スマホを確認すると、ナビゲーターから経時情報が入っている。少なくとも、あと一時間はこうしてだんまりを続けるわけだ。

 どうしたものか、と佳弥は深く息を吐いた。向かいの幸祐は、落ち着きなく辺りを見回しては、はっとした様子で動きを止め、うつむき、しかしそれも長続きせず、というのを繰り返している。まだ数分しか経っていないぞ、と佳弥は思うが、静かにせねばと思うと却って焦ってしまうのかもしれない。眠れない夜に寝ようとすると、ますます眼が冴えるように。

 幸祐があまりに落ち着かないので、佳弥は段々と心配になってきた。気晴らしに、変な顔でもして見せてやるべきか。無理だ。それに、ウケ過ぎて吹き出したらどうする。本当に、殺るしかないのか。佳弥はデイパックから英語の教科書を取り出した。両手に持って、じっと幸祐を見据える。それに気付いたのか、幸祐が緊張した面持ちで背筋を伸ばし、何か思いついたのか少し身を屈める。頭をはたきやすいように、差し出したらしい。

 佳弥は何だか少し不憫になってきた。まだ十分も経っていない。この調子で叩きまくっていたら、ただでさえねじの緩んだ幸祐の頭はねじが抜け落ちて完全に破損してしまうのではないか。頭を一回叩くと、脳細胞が何万も死ぬというし。これ以上阿呆になった幸祐とペアで、この先バイトを続ける自信は佳弥には無い。

 そうだ、と佳弥は鞄からノートとペンケースを取り出した。英語の予習をしよう。佳弥は教科書とノートを真ん中に置いて、シャーペンを一本幸祐に差し出した。次回の授業で読む予定のページを開いて、日本語訳をノートに書きつけていく。念のためにスマホを確認すると、特に警告は出ていないから、この程度の作業はしていても大丈夫らしい。

―生き物の中で?して、これを生物?と呼ぶ

 分からないところを?にして、書いていく。ちらりと幸祐を見ると、佳弥の意図を理解したのか、教科書に目を落とした。佳弥が?を書いたところに、幸祐は該当の単語と訳を書き添えた。それではすぐに終わるから飽き足らないのか、少し考えて、文法事項も付け加える。手持無沙汰だった時に比べると、様子が穏やかだ。

―分かった?

と幸祐が隅の方に書いたので、ああ、そういう意思の疎通も有りか、と佳弥は頷いた。

―このbeingは何ですか?

―次のtreatedが過去分詞だから、受動態になってるのは分かる?

ほうほう、と佳弥は黙ったまま感心した。筆談も悪くない。幸祐の講釈も意外といけている。やむをえまい、幸祐の評価をもうワンランク上げておくか、と佳弥は考える。しかし、さっきのそわそわっぷりで大いにマイナスが出たから、総合評価は底値のまま不変である。

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