第5話 そのツボはツボではない

 佳弥かやはバイトには軽くて小さめのリュックを背負って出かけている。あれこれと試して、これが一番身体に負担が無かったからだ。肩掛け鞄は肩が凝るし、左右のバランスが悪いせいか腰が痛くなる。ハンドバッグは両手を使いたいときに邪魔。あとは、玄関に置いてある父の登山用ステッキを持って行こうかと思いつつ、まだ実行していない。これ以上老けて腰痛がひどくなったら、拝借せざるを得ないだろう。

 今日は、鞄の中に日本史のテキストを入れておいた。テストが近い。準備しておかないと。

 二十時の十分前に、佳弥は待ち合わせ場所に到着した。幸祐こうすけは大抵遅れる。今までの佳弥の記録によると、八割五分の確率で遅れてくる。佳弥より早かった試しは無い。それでも、佳弥は待ち合わせ時刻より少し前に来る。幸祐に合わせて遅く行動していたら、際限なく延びていくだけだ。締めて引っ張り上げて現状維持させなければならない。

 佳弥は黒衣に身を包んだ姿で、リュックから日本史のテキストを取り出した。街灯の真下、一番明かりが採れるところでページを開く。変身しない状態で勉強するより、心なしか頭に入ってこない気がする。四十五歳になる苦行と、テスト勉強とを並立せよというのに無理がある。

 柳条湖事件の部分をじっと暗記しているところで、佳弥のテキストの上からひょっこりと黒衣の幸祐の顔がのぞいた。

「お、勉強してるのか。偉い、偉い。」

佳弥は時計を確認した。今日は五分遅れのご到着の模様。平均的な遅れだ。実にケシカラン。

「満州事変と言えば、その背景の張作霖ちょうさくりん爆殺事件だろ。あんな派手なことしてまで殺してやりたいと関東軍に思わせたんだから、相当に能力のある人だったんだよな。会ってみたら、どんな人だったんだろうなあ。」

 幸祐はしみじみとした口調で言った。佳弥は奇異なものを見るような目でそれを眺める。幸祐の口から張作霖だとか関東軍だとか、教科書に載っている単語が出てくるとは思ってもみなかったのである。

「市川さんでもご存じなんですね。」

「あのなあ、俺だって一応大学出てるんだからな。」

「学部はどちらですか?」

「法学部。」

 佳弥は、サングラスとマスクの奥で、世も末だという顔をした。こんないい加減な人間が、社会の基盤である法令に携わっていただなんて。だから、ざるだとか、骨抜きだとか言われる法律がいっぱい作られていくんじゃないのか。

「アリエナーイ、って考えてるだろ。顔に出てるぞ。」

「いいえ、そんなことは考えていません。」

 佳弥はリュックにテキストをしまい、スマホの指示に従って歩き出した。嘘はついていない。

「ま、公務員試験に有利そうだからって理由で入っただけだから、俺も偉そうなことは言えないんだけどな。」

「えっ、市川さん、公務員なんですか?」

佳弥は愕然として、足を止めて振り返った。こんな奴と同じ職場は、絶対に嫌だ。いや、その前に、こいつがいわゆる公僕だなんて、税金の無駄遣いというヤツではないのか。

「違うよ。公務員ならバイトなんかできないよ。まあ、俺の職場でも兼業許可取るのは結構大変だったけど。っていうか、佳弥ちゃん、何でそんなとこに食いつくのさ。」

 幸祐の問いには答えないまま、佳弥はほっと胸をなでおろした。大事な大事な就職先の選択肢を狭められてはかなわない。

 そうか、公務員になるなら法学部に行くというのも有りだな、後で必要な受験科目を調べよう、と黙って考えつつ、佳弥はT字路で立ち止まった。左右を確認し、スマホの画面と突き合わせる。今日のツボ押しポイントは、ここを左に曲がった先をもう少し進んだところにある神社らしい。

「こっちだな。ほら、行こう行こう。」

 ところが、佳弥が慎重に確認しているうちに、幸祐が右に向かってどんどん進んでいく。

「そっちじゃありませんよ。」

 佳弥は諦め半分で声を掛けた。案の定、幸祐は聞いていない。何が面白いのか、電灯の周りを飛ぶ虫やら、薄曇りの空にかかる月やらをきょろきょろ落ち着きなく眺めながら歩いていく。今の佳弥より若くて背が高いので、放っておくと距離が開く一方である。

 またこのパターンか、と佳弥はぼやく。こうして道を間違えて、無駄に時間を食って、アプリ経由でナビゲーターから怒られて、慌てて正確な目的地に走ることになるのだ。中途半端に老いた身体で走ることの辛さが分かっているのか、と佳弥は強く問いたいところである。それでも、生真面目な佳弥は幸祐に遅れないように小走りについて行く。そうして、佳弥による幸祐の評価がまた下がる。

「あ、ほらほら、この神社だよ。」

 暫く進んだところで、年季の入ったお社と手水舎だけの小さな神社が姿を現した。幸祐が喜んで駆けていく。

 佳弥は首を傾げた。さっきのT字路は、絶対にこっちではなかったはず。三度確かめたのだから、自信はある。が、心配になって、佳弥はスマホでグーグルマップを開いた。どうやら、こっちにもあっちにも神社があるようだ。やはり、こちらは間違い神社だろう。

「市川さん、この神社は間違いですよ。早く戻りましょう。」

 佳弥も神社に入って、幸祐に呼びかけた。今日のツボ押し行為は、御手水で手を清める真似をしろという、いつもどおりに訳の分からないものだ。こっちの神社でもできないことはないだろうが、きっとしかるべき場所で行わないと意味が無いのだろう。

 しかし、幸祐は佳弥の忠告を聞く前に、既に御手水の前に陣取っていた。この神社の手水舎は形ばかりで、ぼろい柄杓は置いてあるものの水は止められ水盤は干上がっている。どうやっても、手を洗うふりしかできない。

「柄杓も使うべきなのか、エア柄杓で行うべきなのか。どっちだと思う、佳弥ちゃん?」

「この神社は間違いですってば。聞いていますか?」

 佳弥はうんざりして問うが、幸祐は聞いちゃいないのである。嬉々として柄杓を持ち上げ、形だけ水をすくって手をすすぐ。何が楽しいのかさっぱり佳弥には分からないが、幸祐は喜色満面の様相だ。

 ようし、と言って幸祐は満足そうに柄杓を置いた。苦り切った表情でそれを佳弥が咎める。

「良くないです。ここは間違いです。」

「間違いって、どういうこと?ちゃんと、神社でツボ押したろう。」

じゃあスマホでアプリを見て見なさいよ、また怒られてるから、と佳弥は思う。間違ったことをすれば当然忠告の指示が飛んでくるのだ。

 ごそごそとスマホを取り出そうとした幸祐は、ふとその動きを止めて水盤に目を向けた。

「あれ、何か湧いてきたぞ。」

 幸祐に言われて、佳弥も手水舎に近付いて水盤を見遣った。水を注ぐ竹の筒ではなく、水盤の底にある栓から、墨汁を限りなく薄く溶いたような黒っぽい水が滲み出てきている。ツボを押した途端に目で見て分かる変化が起こったのは初めてのことで、さすがの佳弥も思わずじっと見入ってしまった。

 だが、本来指定された神社ではないはずであることを思い出し、佳弥は首を横に振った。おかしい。ここではないはずなのに、どうして。

 佳弥の疑問はそっちのけで、幸祐は薄黒い水に興味津々である。

「これ、何だろう。」

「下手に触らない方が良いんじゃないですか。市川さん、私の言うことを聞いていますか。」

当然、聞いていない。幸祐はおそるおそる、黒い水に手を伸ばそうとしている。

 と、その時、背後から唐突に、低く婀娜っぽい女性の声が響いた。

「それに触れては駄目よ。」

 佳弥は驚いて振り向いた。変身している間は誰も佳弥たちには気付かないはずではなかったのか。

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