第4話 愚痴を言わねばやってられない
給料日、
これなら、家に着くまで変身したまま帰った方が給料を多くもらえるんじゃないのか、と佳弥は考えたが、実行する気はない。一般的に考えて、勤務地までの移動時間は労働時間には算定されないだろう。不正をしてまでお金を稼ごうとは、お堅い佳弥は思わないのである。それに、駅には防犯カメラが付いている。佳弥は自分の老けた顔を衆目に曝したくないのに、映像にまで残るなんて耐えられないではないか。
学校での授業が終わり、佳弥は図書室に向かった。バイトは夜に入ることが多いので、先に予習を済ませておくことにしている。
シフト申告制、とは言うものの、ペアで行動する以上は相手の都合での制約が加わる。社会人である
佳弥は書棚から英和辞典を取り出し、机に置いた。英語の教科書とノートを開いて、明日の授業で使う部分の和訳をしておく。
「この出来事によって明らかになった…エアロゾルの環境に対する負荷が大きいことが明らかになった。実に、ミツバチの生息数が、十年前の三分の一になった。」
ちなみに、佳弥と幸祐の仕事の成果としては、ミツバチの生息数が増えるほどの著名な効果は無い。たとえ増えても、二、三匹といったところだろう。仕事が終わるとその効果のほどの報告が返ってくるのだが、満員電車でイヤホンから洩れる音が少し小さくなった(どこの誰のものかは不明)とか、定食のご飯を残す人が二人減った(どこの店のことかは不明)とか、微妙としか言いようのない、確かめようもない「善きこと」が続いている。
幸祐は毎回残念そうに肩を落とすが、給料が振り込まれていた以上、佳弥には文句は無い。仕事は簡単だし、歩くことが多いので健康にも役立っているだろう。四十五歳の身体ではあるが、運動を継続すれば少しはマシになるかもしれないではないか。そうあってほしい、せめて腰の痛みが緩和してくれれば言うことはない。
スマホが震えたので、佳弥は画面を確認した。幸祐からバイト用のアプリを通して連絡が入っている。
佳弥は、幸祐に一切連絡先を教えていない。ラインもメールも電話もできないが、便利なことに、アプリを使うとバイト同士で短文のやり取りができるのである。いや、むしろ不便なのか、と佳弥は苦々しく眉間にしわを寄せた。幸祐と連絡を取り合わねばならない我が身が呪わしい。もう少しましな相手が良かった。何で、たまたまバイトの説明会で一緒になった人間を安易に仕事上のペアにするのだ。バイト先は、人事面で重大な問題がある。
「今日は二十時からでどう?」
と、短い文面がある。ラインのようにスタンプなどというおちゃらけた装飾が無いことに、佳弥は感謝している。スタンプなんてものがあったら、幸祐ならば鬱陶しいものを山と送り付けてきて、佳弥の神経を毎度逆撫でしていたに違いない。
「了解」
佳弥は二文字だけ返した。いつも、最短の文章しか送らない。初めの頃は幸祐も顔文字などを頑張って送ってきていたが、そうすると佳弥が二文字の返事すらしなくなるので、やめたらしい。
ふーと息を吐いた佳弥の前に、ゴアが現れた。
「佳弥、めっちゃ機嫌悪そう。」
小声でくっくっと笑う。
「例の、アンポンタレからの連絡?」
佳弥は黙って頷いて、席を立った。ゴアと一緒に廊下に出たところで、佳弥はうんざりといった様子で肩をすくめた。
「ああ、バイトは良いんだけど、こいつが本当に合わないよ。」
幸祐は、嫌がる佳弥を無理やり変身させてババアにしたという第一印象が最悪だっただけではない。待ち合わせに遅れる、道を間違える、指示を完全に理解しないまま手を出す、仕事中に勝手に一人でふらふらしていなくなる、自分の荷物をどこかに置き忘れる、という有様で、まったく信用ならないのである。慎重な性格の佳弥とは反りが合わないこと甚だしい。簡単な仕事しかないのに勢いで突進して間違えそうになる幸祐を引かせて、修正するのが佳弥の勤めになっている。初めから佳弥一人でやった方が絶対に効率が良い。
バイトの内容はあまり人に言えたものではないのでゴアにも話していないが、幸祐の愚痴は時々聞いてもらっている。そうでもしないと、佳弥がストレスでパンクする。変身後が四十五歳どころか六十歳になったらどうしてくれる、と最近は不安なのである。
「ゴア、今日は部活は?」
「今日は短縮だよ。もうすぐテストだからね。少し勉強してから帰ろうかな。佳弥は?」
「数学の宿題をやる。ああー、テスト勉強もあるんだったなあ。日本史、復習しないと。」
「佳弥はそうやって毎日積み重ねてるから大丈夫でしょ。あたしはスプリンターだから、さぼっていた分、今からダッシュで追い込まないとね。」
そう冗談めかして言うが、ゴアの短距離走はかなり強烈である。日頃の抜き打ち小テストは軒並み最下位レベルだが、定期テストでは大体七、八割の点を取る。建築業界を目指すだけあって、特に数学は成績が良い。毎日コツコツ宿題と予習復習を欠かさない佳弥が太刀打ちできないのだから、世の中は理不尽に満ちている。
佳弥はふと思い立って、ゴアに向き直った。
「
そう呼び掛けた途端に、ぺしっと頭をはたかれる。
「その呼び方は、やめい。」
「だよねえ。」
佳弥は叩かれたところを撫でながら、同意した。ゴアのこの鋭い反応が頼もしい。
「誰かに、佳弥ちゃん、って呼ばれてるの?」
「アンポンタレが、やめろって言ってるんだけど、聞きやしない。」
「女子をちゃん付けで呼ぶって、キャバクラかよ。勘違いも甚だしいね。おっさんサラリーマンだと部下の女の子をちゃん付けで呼ぶらしいけど、今の時代それはセクハラだよ。特に、本人が嫌がってるならさ。」
おお、そうだそうだ、言ってやってくれ、と佳弥は拍手喝采する。すらりと背が高く、凛々しい顔立ちのゴアが言うと何となく説得力がある。佳弥が何度言っても幸祐が聞かないのは、やはりなめられているのだろうか。歳が大分離れているのだからやむを得ないところもあるが、しかし、相手が誰であれ嫌がることを平気で続行するという神経は歪んでいる。もしくは、アホ過ぎる。おそらく後者だろう。
佳弥とゴアは図書室に戻り、静かに勉強を済ませた。宿題を終えた佳弥は、もう少し勉強していくというゴアを置いて先に家に帰ることにする。今日のバイトの集合場所までは家から約四十分。十九時過ぎには家を出たい。さっさとご飯を食べて、出かけなければ。
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