②童貞くんと友だち

「バイトだよ」

 僕は即答した。

 十二月二十五日というただの休日を週末に控えた週の火曜日。暇な学生がみぞれ雨に追われるようにして逃げ込んできた学食には熱気と定食の匂いが充満していた。誰も彼もがどこか浮足立った様子で、幸せの絞り滓のようなものを空気中に撒き散らしている。仲睦ましげな男女の姿がこころなしかいつもより多い気がする。隣のテーブルを見れば髪の短い男と髪の長い女が顔を寄せ合い、微笑みを交わしている。

「二十五日どうする?」

「どこも混んでそうだし日にちずらす?」

「うーんでも当日の雰囲気も楽しみたいしなあ」

 僕は彼らの会話を耳の片隅で受け止めながら箸を突き立てた油淋鶏を口に運び、こんがり揚がった衣をばりばりと噛み潰した。

「なあ、和泉」

 白米を掻き込んでいる途中で名前を呼ばれ、僕は顔を上げた。

「なに?」

「俺はまだ『クリ』までしか言ってないんだが」

 対面に座る生田翔馬が呆れ声で言うのですかさず反論する。

「クリのあとに続くものなんて『スマス』か『トリス』しかないでしょ。前者なら僕はバイトだし、後者なら予定はない。去年も一昨年もなかったし、今年もない。多分来年もないよ」

「………そうか、切ないな」

「いつものことだから慣れたよ」

 僕は頭に浮かんだ稲田さんの顔を振り払うように首を振った。あの日から三日。僕の心にはまだ、彼女に裏切られたときの傷がかさぶた未満の状態で残っている。

「そうか、悲しいな」

 生田は演技がかった仕草で溜息を吐き、毛束感のある前髪を指先で摘んだ。僕は嫌な予感がした。こうなった生田は面倒くさい。「俺にも話を振ってくれ。俺にも質問を返してくれ」とアピールをしているのだ。口に出さないところがなお汚い。

 僕が気が付かないふりをしていると、彼は刻み海苔のような細く整った眉尻を下げ、哀愁を感じさせる視線をテーブルの上に落とした。ゴミでも見つけたのだろうかと思うが、これもアピールの一つだった。

 生田はしばらくの間そうしていた。

 僕は何も言わずに油淋鶏を食べ続けた。学食の喧騒から追い出されたような隅っこの席に、僕の咀嚼音と生田の溜息だけが響く。ばりばり。ふぅ。ばりばり。ふぅ。ばりばり。ふぅ。

 結局、僕が折れた。

「生田はなにか予定があるの? その、クリスマスとやらに」

「あ、俺か? いや、まあ言うほどのことじゃねえんだけどな?」

 生田は人差し指でピンと毛先を弾いた。束感のあった茶髪がバラバラになる。生田はすぐには答えなかった。バラバラになった茶髪をより集めてまた束を作り、ねじった。僕の顔とテーブルとを交互に何度か見て、またため息を吐いた。

「女の子と遊びに行くことになったわ。二十四日だけど」

「よかったじゃん」

 僕は用意しておいた言葉を口の外にそっと起き、箸で刺した油淋鶏を入れ違いに口へ運んだ。甘酢だれをしっかり染み込ませつつも歯ごたえを残した衣を口の中で噛み砕く。

 ばりばりばり。

 鶏肉とタレのうま味が口腔に広がっていく。

 僕が咀嚼を終えるまで、生田は前髪をいじって薄気味悪い笑みを浮かべているだけだった。

「──で? 誰と?」

 声にしてしまってから後悔した。沈黙に耐えきれなくなったからといって無闇に口を開くべきではなかった。蟻に角砂糖をばらまくようなものである。生田は怪光線を放つ直前の化け物みたいに目を輝かせ、手帳型のスマホカバーを指で弾いて開いた。

「この子、レオナちゃん。サークルの同期」

 生田が差し出してきたスマホの画面に映っていたのは、飲み会の一幕を切り取った一枚の写真。顔を赤くした男女数人が、居酒屋の座敷席らしきところではしゃぐ様子が写っていた。

「どれ?」

「真ん中の子」

 生田が指差したのは茶髪の片側を耳に引っ掛けたワンレンスタイルの女子。生ビールのジョッキを片手に、投げキッスをするみたいに口をすぼめてウィンクをしている。

「可愛いっしょ?」

「まあ、可愛いんじゃない」

 と相づちを打ってみたものの、タイプではない。

 僕はもっと楚々としたお淑やかな女子が好きだ。カメラに写すべき顔が分からなくて困惑しているような女子が好きだ。ジュースと区別のつかない可愛い色のお酒を飲む女子が好きだ。男子と話すときに俯きがちになる女子が好きだ。堂々とカメラに向かってキス顔を披露出来るような女子はお呼びでない。奇抜で毒々しい花よりも、地味だけど形が整った花の方がいい。

「この飲み会で仲良くなってさ、ダメ元で誘ったらオーケーもらえたんだわ」

 得意気に前髪をいじくる生田を尻目に、僕は彼のスマホの画面を人差し指と中指でそっと拡大した。画像の奧の方に別の席の様子が映り込んでいた。同じ座敷のようだが、明らかに雰囲気が違う。手前の集団が男女仲睦まじくやっているのに対して、奧の集団は男子数人が黙々と料理を箸で突いている。会話をしている気配もない。そしてその中には生田の姿もあった。

「やっぱ大事なのは勇気っしょ、勇気。一歩踏み出すその勇気。間違いないね」

 生田は僕が画像を拡大していたことに気がついたのか、無言で僕からスマホを取り上げた。

「ま、勇気以外にもいろんな要素が必要だけど、第一に勇気が必要だわな」

 何事も無かったかのような口調で言うと、ワックスで整えられた前髪を大事そうに指の先で捻る。そんなに前髪が気になるのならいっそ抜いてしまえばいいのにと思うが口には出さない。

 僕は皿に残った最後のキャベツと油淋鶏をかき集め、纏めて口の中に放り込んだ。クリなんとかに予定があるという友人への凡百の思いを歯茎に宿し、タンパク質と食物繊維を噛み潰す。

「つーか悪いな、和泉」

「なにが?」

「これはきたでしょ」

 生田はカマキリのような目つきになって、スマホの画面を嬉しそうにスワイプしていた。

「イブの夜に女子とデート。まずはクリスマスディナーをやってるレストランに行くだろ? イタリアンがいいかな? フレンチがいいかな? いや、お前に聞いても分かんねえか、すまん。そんで食事が終わったら移動して、ちょっといい感じのバーで二、三杯飲むじゃん? お互いいい感じになったら知らず知らずのうちに腕を組み合ってそのまま流れるようにホテルへゴールイン! 勝利、これは圧倒的な勝利」

 彼の右手に勝利の三本指が立つ。レストラン、バー、ホテル。童貞卒業への光の階段。

「そんなに上手くいくわけないさ」

 僕は温くなった味噌汁を啜った。

「君のような童貞クンに何を言われても俺の心には何も響かないね」

「お前も童貞だろ」

「ふん、それもあと一週間の命よ」

 僕は無言で味噌汁を啜った。

 生田翔馬という男は童貞である。生まれてこの方、家族以外の裸に触れたことがない。

 けれども世の大多数の童貞とは違って、それなりに見た目に気を使っており小綺麗な格好をしている。もちろん女性にモテるためであり、趣味や自己表現などではない。己の欲望に教え諭されるように服を買い、己の下半身に意見を扇いで服を着ている。だがそうした努力も虚しく、膣を出たきり膣へ戻ることが出来ていない悲しい男なのであった。

 そんな生田がついにクリなんとかという記念日に女子とデートへ行くという。友人ならば喜ぶべきところだろう。しかし僕は喜べないし喜ばない。なぜなら僕もまた童貞だからだ。

 生田は幸せの残滓を撒き散らし、僕はそれらが入ったかもしれない味噌汁を苦い顔で啜る。

 そんな相容れない空気を纏った二人が居座る学食の席へ、陽気で豪快な足音が近付いて来た。

「おーっす。二人ともなにしてんの?」

 喧噪を貫くような大音量の声で呼びかけてきた足音の主は、同じクラスの駿河大輝だった。彼もまた、生田と同じく僕がよくつるむ友人の一人である。

「四限空きコマだから駄弁ってた」

「いいね。俺も混ぜてよ」

「おう、入れ入れ」

 生田が鞄ごと椅子を一つずれ、駿河を迎え入れる。彼は「さんきゅーさんきゅー」と小鳥くらいなら軽く失神させそうな大声で謝りつつ、筋肉で膨らんだ身体を学食の椅子に落ち着けた。

「駿河も空きコマ?」

 僕が訊ねると、彼は太い首を横に振った。

「いや、俺は今日全休。たまたま休講になった。暇だから体育館のジム行ってた」

「さすが体育会系」

「まあな」

 と言って僕の太腿くらいはありそうな腕を得意満面で折り曲げた。季節外れの半袖の口から、週四日のジム通いで育て上げられた立派な力こぶがはみ出る。

 残念ながらこの駿河大輝という男も童貞だった。

 中高三年間をバスケットボールに捧げたスポーツマンでありつつも、悲しきかな彼の身柄は男子校と名付けられた獄中の中にあった。ジャグリングのようバスケボールを操るハンドリングテクニックや、六つに割れた腹筋を褒め称えてくれる女子は身近におらず、一〇代のうちの貴重な六年間は灰色に乾いていたととのことだった。

 ついでに言うと、彼は自慰行為狂いでもある。

 一日に最低五回は自分のイチモツを握らなければ心が落ち着かず、そのせいで一年目の受験を棒に振って浪人をする羽目になった猛者である。今でも最低五回の原則に変化はなく、むしろ本格的にジムで身体を鍛え始めたことによって回数は日に日に増えていっているとのことだ。

「そういえば二人とも、クリスマスイブって予定あるか?」

 駿河がテーブルに身を乗り出しつつ言うので、僕は額に手を当ててため息を吐いた。すると案の定、生田は待ちかねていたとばかりに口角を釣り上げ、

「悪いな駿河。俺は予定があるんだ」

「まじかよ! おいまさかデートじゃないだろうな」

「まあデートっちゃあデートかな。女子と二人で会うんだ」

「生田ぁ、そりゃねえよ!」

 駿河は悲壮な声で叫んだ。僕の飲みかけの味噌汁の水面が震える程の声量だった。隣のテーブルに慎ましく座る二人の男女が、怪しげな大道芸人を見るかのような目を僕たちに向けた。

「なんだよ、おい。お前、デートって、そりゃねえだろ。嘘だろ? 嘘って言ってくれよ」

 駿河は愕然とした顔で椅子の背もたれに寄りかかる。瞼が痙攣していた。

「残念ながら本当のことなんだわ。多分その夜に童貞も卒業だ」

「うぉおおおおおおう」

 獣めいた慟哭が学食の喧噪を薙ぎ払う。トレイを持って行き交う学生が何ごとかとこちらのテーブルを見た。僕はできるだけ縮こまって駿河や生田とは関わりがない振りをした。やかましい童貞ほど見苦しいものはこの世にいない。

「……まあいい。お前はどこぞの女とよろしくやっていろ」

 駿河は吐き捨てるように言って、救いを求めるように僕を見た。

「和泉、お前は何の予定もないよな? ないって言ってくれ」

「ないよ」

 誘わずして振られたということは黙っていた。

「おし、じゃあ俺ん家来いよ」

「別に、いいけど」

「さすが和泉だ、ノリがいい。中野も来るぜ」

 中野幸多朗もまた僕たちの友人である。墨に漬け込んだ綿飴みたいなもじゃもじゃの頭に、度の強い黒縁メガネを掛けた死体みたいに色の白い男。顔面は三十五発ほど殴られたジャニーズといった雰囲気で、まあ僕たち四人の中では一番整っている。僕たち四人の中ではというのがミソだ。世間一般で見たら中野の顔など幼稚園児の福笑い同然である。もちろん童貞だ。 

「なんかすんの?」

「クリスマスイブに予定のない男が集まってすることなんて一つしかないだろ」

 僕が首を傾げたままでいると、駿河は団扇みたいな手を広げて僕の肩をバシバシと叩き、豪快に笑った。

「猥談百物語に決まってんだろうが」

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