①童貞くんと星が降る夜

 今なら流星群だって銀河の彼方まで打ち返せそうだった。

 年の瀬も迫ったあるバイト終わりのことである。

 忙しい金曜日の夜にやってくる客はカップルばかりだった。彼らはレジの前に立って初めて自分たちがフライドチキン屋の列に並んでいたのだということを思いだしたかのようにメニューを眺め始める。顔を寄せ合ってどれにしようかこれにしようかと楽しそうに囁き合う。僕はレジスターの脇に枯れ木のように立ちながら文句一つ言わず貧乏揺すりを欠かさない。やっとメニューが決まってもこっちが払うこっちが払うと財布の出し合いが始まるので僕の貧乏揺すりは加速する。

 そんな客以外誰も幸せにならない金曜日の夜を圧倒的な人手不足の中で無事に片付けて、僕たちはホットココアを片手に帰り道を歩いていた。

 そう、僕たちなのだ。

 いつもは店から駅までの道を一人寂しく歩くのだが、今日は違った。僕の隣を同僚の稲田さんが歩いているのである。両手で持ったホットココアに向かって小さな口で細い息をフーフー吹きかけながら、僕と並んで歩いているのである。

 稲田さんは僕より一つ年下の大学一年生で、ウサギの尻尾のような一つ結びの黒髪が可愛らしい女の子である。身長は一五〇センチに届くか届かないかという小柄さだが常に充電一〇〇パーセント状態のパワフルさで動き、真夏の午後二時の太陽とサシでやり合えそうな明るさがあり、どんなときでも笑顔を絶やさない。毎月店舗が実施している『スマイルアワード』では四カ月連続一位をとり続けている接客業の女神である。

 そんな彼女が僕の隣を歩いている。バイト終わりの帰り道を、僕と一緒に歩いている。

 たまたまお互いに同じタイミングで帰り支度を終えたところ、稲田さんの方から「帰りましょうか」と誘ってくれたのがきっかけだった。断る理由は地球のどこを掘り返してみても見つからないに決まっていた。僕たちはお互いに今日来た客の悪口を言いながら店を出て、「私最近このコンビニのココアにはまってるんです」という彼女の言葉に促されるがままコンビニでホットココアを買って今に至る。

 稲田さんはバイト仲間の間でも男女問わず人気がある。噂によれば何人もの男が密かに彼女を狙っているのだという。社員昇格を狙っている茶髪のフリーターの同僚とか、ロン毛バンドマンの後輩とか、大手商社に内定をもらって鼻を高くしている高身長の先輩とかだ。

 そんな風にして誰からも憧れられている稲田さんの隣を、僕は今、独占している。邪魔する者などどこにもいないバイト帰りの道で、僕は彼女を独占している。この言い表せない高揚を全力で叫べば、たちまち真っ暗な東京の空に無数の星が瞬き始めるに違いない。

 今の僕はそれくらい無敵なのだ。

「そういえば今日、流星群らしいですね」

 不意に話を振られ、僕は慌てる。頭の中に蔓延っていた彼女を巡る想像を両手で端へと追いやると、喉を詰まらせながら答えた。

「ら、らしいね」

 動揺を誤魔化すためにカップの縁に口を付ける。不用意な唇に熱々のココアがかかって悶絶した。

「い、和泉さん? 大丈夫ですか?」

「だい、大丈夫」

 僕は火傷しかけた唇を拭い、稲田さんの手元を見ながら首を横に振った。

「よかったらこれ、使って下さい」

 彼女は僕の顔の前に四つ折りにされたハンカチを差し出してくれた。口を拭けということらしい。ありがとうと受け取ろうとしてみたけれど、皺も汚れもない綺麗なそれを目にして申し訳なくなった。

「だ、大丈夫。平気だから」

「そうですか?」

「うん。舐めれれば取れるよ」

 僕はべろりと舌で唇を舐め回して笑った。彼女はなぜか口元を引き攣らせていた。

「そ、それにしても、寒い夜に飲むココアは格別だね」

「温かくて甘いと身体がぽかぽかになりますよね」

 と笑う彼女の吐息と、ホットココアの湯気とが交じり合って寒空の中に溶けていく。恥を忍ばずに言うと僕はそれを肺一杯に吸い込みたかった。

 稲田さんと歩き始めた瞬間から、一つだけ心に決めたことがある。

 僕はこの帰り道に彼女を遊びに誘う。

 眼球だけを動かして彼女の横顔を盗み見た。小動物のような丸っこい顔は、思わず撫でたくなるような可愛さがある。着込んで膨らんだ身体は思わず抱き締めたいくらいの形をしている。もしもこんな子を彼女にできたら。こんな子と一緒に街を歩けたら。想像が頭に広がる。周囲の男たちは必然的に稲田さんに注目するだろうし、僕のことを羨むに違いない。そんな未来を創造するだけで気持ちが高まってくる。悪いな、この子は僕の彼女なんだ。言ってみたい。

 誘いに応じてもらえる可能性はゼロじゃない。むしろ高いだろう。なぜなら彼女は今夜、自ら「一緒に帰ろう」と言ってくれたのだ。興味のない男にそんなことを言うか? 言うわけがない。好きでもない男と夜道を一緒に歩きたいと思うか? 思うわけがない。どうでもいい男とココアを飲みたいか? 飲みたいわけがない。

 つまり勝算は十分だ。あとはどのタイミングで声を掛けるのが自然かを見極めるかだけだ。

 駅まではもう遠くない。このまま何も考えずに歩いていたらあっという間に着いてしまう。稲田さんとは電車が反対方向だから改札のところでお別れだ。それを逃したらもう、こんなチャンスは来ないかもしれない。ここで覚悟を決めて振り絞った勇気の一滴が、近い未来の童貞卒業につながるはずだ。

 甘いココアを喉に流して身体を内側から温める。覚悟の息を肺の底から吐き出し、舌と唇を軽くストレッチ。誘い文句を入念に口の中で転がしてから、いざ、

「あの──」

「和泉さんっ」

 互いの声が重なった。僕たちは恥ずかしくなって顔を背ける。宙ぶらりんになった手が、同じく宙ぶらりんだった彼女の手の甲に触れ、僕は反射的に手を引いた。

「さ、先にどうぞ」

 顔背けたまま言った。

「和泉さんこそ」

「いいよいいよ。稲田さんから言ってよ」

 僕は紳士ぶりを見せつけるように、丹精込めて作りあげた笑顔で彼女のことを見た。申し訳なさそうに視線を下げる彼女の表情に、心拍数が急上昇する。

「すみません、あの、和泉さん」

 星屑を散らしたような稲田さんの瞳が僕を真っ直ぐに見つめた。何か予感めいたものがあった。この夜は多分、僕にとって忘れられない夜になる。そう感じた。

 真摯な視線に耐えきれなくなって目を反らしかけたところで、彼女は探るように切り出した。

「和泉さんって、来週の土曜日、空いてますか?」

「来週の、土曜日?」

 脳内に出現したカレンダーを素早く捲っていく。今日は十二月十七日。来週の土曜日。今日から数えて八日目。一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、

 声帯が機械にでもなったかのように、酷く無機質な声で数字を読み上げた。

「……二十五、日?」

 稲田さんは頷いた。

「はい、二十五日です。クリスマス、なんですけど」

「クリ、スマス」

 声が掠れた。彼女はこくりともう一度頷いた。僕は手が震えるのを止めることができなかった。指の先から脇の下までの筋肉が全部溶けてなくなってしまったかのようだった。

「も、もし先約があったら断ってもらって構わないんですけど……あの……」

 稲田さんは小さな手でココアのカップをぎゅっと握りしめ、道路の上に希望の欠片を探すみたいにして俯いていた。

「ないよ!」

 僕は足を止め、緊張に震える声で答えた。素っ頓狂な声になったけれども気にしなかった。

「空いてる! 二十五日空いてるよ! 一日中空いてる!」

「本当ですか!?」

 稲田さんは目を輝かせて僕を見る。その大きな瞳の両端に、涙がうっすらと溜まっていた。

「よかったぁ……」

 彼女は涙を拭いつつ、安堵の息を吐いた。勇気を振り絞ってくれた彼女のことを今すぐ抱き締めたかった。小さな頭を胸に収めて、艶やかな黒髪を手の平で優しく撫でてあげたかった。

 けれども僕はその気持ちをグッと堪え、何も知らないかのような口ぶりで訊ねた。

「二十五日、何かあるの?」 

 稲田さんは涙の粒を小指で払うと、天使のような優しい笑みを浮かべた。


「夜からのシフト、変わって下さい」


 自分の口の端が引き攣る音を聞いた。

「二十五日の夜に彼氏とデートの約束をしてたんですけど、うっかりミスでシフト希望表に○を付けて出しちゃったみたいで………」

 ぶちぶちぶちと繊維質の何かが千切れていくような音を聞いた。何の音かは分からない。

「……あ、あ、ははは」

「篠田さんとか松本さんとかに相談してみたんですけどみんな予定があるみたいで困ってたんです。けど和泉さんの予定が空いているって言って下さって嬉しかったです! ありがとうございます! 今度シフトで困ったことがあったら言って下さいね! 喜んで代わりますから」

「あははは、あは、はは」

 先走った妄想を見事に叩き潰されて僕は言語能力を失った。他人の笑い声を聞いているみたいだった。「空いている」とあんなに強調した手前、今さら「空いてない」と言えるわけがない。かといって彼女の返答を喜べるわけもない。僕は機械的に笑いながら、手にしたカップに口を付けた。甘くて温い何かがどろりと喉を這い落ちていく。

 目と鼻の先に迫った駅の風景がなぜだか水彩画のように滲んでいた。

「和泉さん? 大丈夫ですか?」

 心配そうに顔を覗き込まれて我に返った。

「あ、そ、そうか、そうだね。何かあったら、そ、相談するよ。うん、そうだね。うん」

 世界で最も無意味な相づちを打っている横で、彼女が駅の方へ向かって一度大きく手を降った。誰かがいる。誰だろう。

「あの、じゃあ私はこれで。改札のところでカレが待ってくれているので。いつも迎えに来てくれる優しい人なんです」

「あ、そ、そう。うん、じゃあ」

「おつかれさまでしたー」

 ぺこりと頭を下げて去っていく稲田さんの先に、背の高い男がスマホをいじりながら立っている。僕は彼女に向かって振りかけた手を下ろしながら、じっと目を懲らした。駆け寄った稲田さんと自然に手を繋いだその男は、大手商社に内定をもらって鼻を高くしている高身長の先輩バイトだった。

 改札の中へと消えていく二人の背中を呆然と見送ったあと、僕は何気なく空を見上げた。星一つない漆黒の天幕の中を流星のような白い筋が一瞬横切ったような気がした。そのまま僕の元に落ちてきて跡形もなく潰してくればいいのにと思った。

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