第八話 グッバイ・ポーク・パイ・ハット

 日曜の午後。駅近くのホールに着くと、どうやら開場したばかりのようで、人ごみがホールの中に流れていくのが入口から見える。僕もその列に加わり、流れに沿って進みながら、近藤先輩から買ったチケットをポケットから取り出す。今日は手ぶらで来た。ホールは駅の近くにあり、家からもそう遠くはないから歩いて来られる。六百席くらいの規模で、吹奏楽部の定期演奏会の会場も確かここだったはずだ。

 二十代くらいの男女六人が受付をしている。バンドのOBだろうか。そのうちの一人にチケットを渡す。彼女はチケットを切り、半券を返す。後ろにいる男の人が僕にパンフレットを渡す。それを受け取り、ホワイエを通ってホールに入る。場内を見回すと、真ん中あたりの席は大体埋まっているから、前の方の席に座ることにする。席に着いて、パンフレットを広げてみると、それ自体は一枚の大きな紙を折り畳んだもので、演奏曲目とバンドのメンバーといった最小限の情報しか載っていないが、その中に二十枚くらい別の演奏会のチラシがはさまっている。これはかさばるな、やっぱりかばんを持ってきた方がよかったかな、と少し後悔する。

 ジャズのライブを聴くのは初めてだ。これまでにジャズの曲を吹奏楽で演奏したことはあるが、特別それらの曲を好きにはならなくて、ジャズそのものを追いかけようとは思わなかった。この機会がなければ、生のジャズに触れるのはもっとずっとあとになっていたかもしれない。

 それにしても、近藤先輩がビッグバンドでジャズをやっていたとは。僕はパンフレットに載っているメンバー一覧の中に近藤先輩の名前があることを確認し、改めてそのことについて考える。近藤先輩は無口で、自分のことについてほとんど話さない。合奏の場でも、仕事人、みたいな感じのイメージだ。与えられたパートをミスなく淡々と吹き、必要以上に自己主張しない(ただ、このイメージは、吹奏楽におけるテナーサックスのパートが割と地味であることにも由来するかもしれない)。どんな音楽を好きで普段聴いているのか、ずっと謎だった。

 パンフレットの演奏曲目を見る。一曲も知っている曲がない。まあ知らないジャンルの音楽の演奏会なんてそんなものだろう。僕はメンバー一覧を見て、他に知り合いがいないかどうか探してみることにする。このビッグバンドのメンバーはみな高校生で、管楽器(サックス、トランペット、トロンボーン)がそれぞれ十人くらいずついて、ピアノ、ギター、ベース、ドラムがそれぞれ二人か三人ずついる。全員で四十人弱。正確な数字は覚えていないが、一般的なビッグバンドの編成は十人よりは多く二十人よりは少ないくらいの人数だったはずだから、大体二倍の人数だ。多分曲ごとに奏者が交代するのだろう。結局知り合いの名前は近藤先輩以外には見つからない。場内の時計を見ると、まだ開演まで十五分以上ある。僕はパンフレットを足元に置き、ステージの方を向いてしばらくぼうっとする。ステージの幕は下りている。


 開演五分前にアナウンスが流れたとき、場内を見回してみる。満席に近い。そこまで大きくないホールだが、これだけ客が入れば大盛況だろう。チケットノルマがあるから、ということかもしれないが。近藤先輩は僕以外の誰に声を掛けたのだろう。家族。そもそも近藤先輩の家族は何人いるのだろうか。友達。これも何人いるのだろう、想像がつかない。

 やがて開演のブザーが鳴り、ステージの幕が上がる。奏者はすでに舞台上にいる。観客から拍手が起こる。最初にサックスパートの人たちの顔が見える。五人並んで座っている。近藤先輩はいない。幕が上がっていくとその後ろに座っているトロンボーンパートの人たち、さらにその後ろに立っているトランペットパートの人たちの顔も見えてくる。サックス奏者とトロンボーン奏者の前には、ビッグバンド特有の四角い箱の譜面台が置かれている。舞台向かって左手には、ピアニスト、ギタリスト、ベーシスト、ドラマーが一人ずついる。

 幕が上がりきってすぐ、ドラムが数小節ソロを叩き、曲が始まる。かなり速いテンポの曲だ。トランペットとトロンボーンが軽く和音を伸ばし、その上でサックスが細かいフレーズを吹く。ぴったりと息が合っている。全員で決めのリズムを揃えると、アルトサックスとトランペット一本ずつのユニゾンでテーマが出る。流れるようなメロディ。他の奏者はときどき合いの手を入れる。

 テーマが終わると、管楽器群があおるようなフレーズを大音量で吹く。僕はその音量に圧倒される。人数は吹奏楽よりだいぶ少ないが、全員がマイクを通しているぶん音がかなり大きい。そのあいだにテーマを吹いたアルトサックス奏者が前に出る。眼鏡を掛けた背の高い男の人だ。ソロを吹き始めると、その切れ味鋭い攻撃的な音色が僕の耳を刺す。数秒遅れて、僕の頭は驚きで一杯になる。サックスからそんな音が出せるなんて僕は知らなかった。ジャズとクラシックでは好まれるサックスの音色が違うというのは聞いたことがあったけれど、ここまでとは。耳を奪われているうちに、ソロはすぐに終わってしまう。サックス奏者は一礼して席に戻る。拍手。そのあとテーマを吹いたトランペット奏者が前に出てソロを吹く。金管楽器には難しいであろう高速なフレーズがすごい勢いでトランペットのベルから発射され続ける。彼女の小柄な体のどこからそんなパワーが出るのか不思議だ。最初から最後まで、勢いを落とすことなくソロを吹き切る。そしてにこやかな笑顔で礼をする。拍手。

 それからサックスがハモりのあるうねうねとした細かいフレーズを吹き、そのうちトランペットとの掛け合いになる。トロンボーンも要所要所でアクセントを加える。また全員での決めがあり、最初の二人にテーマが戻ってくる。テーマの後半はサックスとトランペット全員でのユニゾンとなる。すごい迫力だ。テーマが終わり、低音が短く三音吹いて曲を締める。すぐに大きな拍手が起こる。舞台袖からマイクを持った女の子が出てきて、挨拶を述べ、今演奏した曲とソリストを紹介する。ソニー・ロリンズ作曲の『エアジン』という曲らしい。名前を呼ばれたソリストはその場で立って一礼する。また拍手。司会の女の子は次の曲の解説を始める。その裏ではメンバーが何人か入れ替わっているが、近藤先輩の姿はまだ見当たらない。


 曲ごとにメンバーが入れ替わりながら演奏は続いていき、四曲目が終わったあとになってやっと、近藤先輩が舞台上に現れる。舞台袖から出てきて、真ん中の方の席に座って曲が始まるのを待っている。この距離では表情までは見えない。

「次に演奏するのは、『グッバイ・ポーク・パイ・ハット』という曲です。この曲はチャールズ・ミンガスというベーシストが、敬愛していたサックス奏者レスター・ヤングの死を悼んで作曲したものです。複雑なコード進行とシンプルなメロディラインの美しい調和に惹き付けられた多くのミュージシャンがこの曲を演奏してきました」と司会の女の子は話す。

 近藤先輩が座ったまま手振りで何拍か合図を出すと、ゆっくりのテンポで曲が始まる。サックスのユニゾンでいきなりテーマが出る。コード進行のことはよくわからないが、メロディラインは確かにシンプルだ。ほとんどブルーノートスケールを上下しているだけのようにも聞こえるが、それでいてどこか含みがあるような、不思議なメロディだ。最初はピアノだけでコードを弾いているが、そのうちトロンボーンが加わって控えめに伴奏する。葬列を思わせる重たい空気が流れる。

 テーマが終わると、前に出てきた近藤先輩がソロを吹き始める。いつも部活で聴いている先輩の音色との違いに驚く。いつもよりずっとダークで深い音色だ。先輩は最初に中音域で注意深く一音を伸ばし、そのあと近くの音域でゆったりとしたフレーズを吹く。音量はそれほど大きくない。短いモチーフを繰り返して展開していくような感じで、おおらかなペースのまましばらく演奏が進む。短い休符のあと、細かい音符で一気に高音域まで駆け上がる。また休符を挟み、高音で少しアクセントをつけて音を伸ばす。しっかりと緩急をつけながら注意深くソロを吹いている。

 ソロの後半になると、管楽器がところどころでアクセントを入れ始める。先輩はその間を縫って、フラジオまで使って大きな盛り上がりを作る。やがてソロの終わりにかぶせるようにしてテーマが戻ってくるが、今度はサックスだけでなくトランペットも加わってユニゾンでメロディを吹き、先輩のソロの勢いを引き継ぐ。先輩が一礼すると拍手が起こる。バンド全体が大きくうねるような流れを作りだしている。次第にデクレッシェンドして、またサックスだけのユニゾンに戻ってテーマが終わる。バンドが伸ばしでフェルマータしているあいだに、近藤先輩がまた細かい音符で彩りを添える。先輩が合図を出すと、伸ばしの音が変わって主和音で曲が終わる。一秒ほどの余韻、そしてまた拍手。


 それ以降、近藤先輩は何曲かでステージに上がったが、ソロは吹かなかった。単純に人数を曲数で割って考えると、ソロを吹く機会は一人あたり一回あるかないかということになる。実際、二曲以上でソロを吹いた人は二、三人だったし、ソロを吹かない人もいた。『グッバイ・ポーク・パイ・ハット』での近藤先輩の演奏は、ある種の渋さを感じさせはしたものの、とても充実した内容だった。ほかにも目を見張るようなソロを吹く人は何人もいたし、曲によって雰囲気も全然違うから単純な比較はできないが、近藤先輩のずっしりとしたソロが僕には特に印象に残った。

 終演後、ホワイエに出ると、楽屋から出てきたバンドのメンバーが並んでいて、客に挨拶をしている。演奏のプレッシャーから解放されたからか、みな弾けるような笑顔を浮かべている。まぶしくて思わず目をそらすと、慣れない笑顔に表情筋がこわばっている近藤先輩と視線がぶつかる。先輩は僕を見ると少し頬をゆるめ、表情筋の緊張はいくらかましになる。

「安田! 来てくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」

 僕は頭の中が整理しきれていなくて、すぐに次の言葉を発することができない。先輩はいつもの鋭い眼差しをこちらに向けている。いや、笑顔だからいつもよりは少し柔らかい気もする。

「ジャズはあまり聴いたことなかったんですけど、今日のライブはすごくよかったです。近藤先輩のソロも」

 変なことを言わないように、考えながら少しゆっくり喋る。

「ありがとう。あんなに長いソロは初めてだから大変だったよ」

 数秒の沈黙が流れる。近藤先輩も僕も口数が少ない方だから、二人で顔を突き合わせるとなかなか会話がうまくいかない。部活のパート練習のときは村岡先輩と宮下もいるから、二人のこの感じになるのは初めてだ。僕は訊きたかったことを思い出す。

「近藤先輩、部活の時とビッグバンドのときでだいぶ音色が違いますよね」

「まあ吹奏楽とジャズじゃ音色に対する要求はずいぶん違うからね。本来はアンブシュアもジャズ向きに変えるのがいいんだけど、アンブシュアを使い分けるとわけわからなくなりそうだから、俺はマウスピースだけ取り換えてる」

「そうなんですね」

 なるほど。確かにサックスにはジャズ専用のマウスピースがあるという話は聞いたことがある。

「それにしてもびっくりしました。近藤先輩がこんなにジャズも上手いなんて」

「いやいや、高三の先輩たちに比べたら大したことないよ」と先輩は苦笑いする。

 僕はまた会話を続けられず黙ってしまい、ごまかすように場内を見回す。

「ご家族や知り合いの方はほかに来られているんですか」と僕はなんとなく訊いてみる。

「家族は来てるけどゆっくり出てくると思う。知り合いは何人か声をかけたけど、みんな都合が悪いみたいだった。それで安田に来てもらったんだ。おかげでチケットをさばけたよ、ありがとうね」

 お互いもうそれ以上話すことを思いつけなさそうな雰囲気が二人のあいだに漂っている。僕は会釈をして、「また明日」と言う。近藤先輩も「ああ、また明日」と言って微笑む。さっきよりはだいぶ自然体の笑顔だ。


 ホールを出てすぐ、「そう言えば近藤先輩はいつビッグバンドの練習をしているのだろう」という疑問が頭に浮かぶ。部活は日曜以外毎日ある。ということはビッグバンドの練習自体はおそらく日曜にあるのだろう。しかしあれだけのソロを吹くためには相当量の個人練習が必要だったはずで、その練習時間は、と考えるとわからなくなる。戻って訊くのも変だから、そのことについてぼんやり考えながら家まで歩いて帰る。


 部屋で着替えてから、パンフレットに挟んであったチラシにざっと目を通す。今日の会場だったホールで今後開催されるイベントがほとんどだ。中に一枚、オーケストラのコンサートのチラシを見つける。来年の一月中旬。東京の有名なオーケストラで、会場は隣の市の大きなホールだ。ドビュッシーとラヴェルの曲を演奏するとのことで、プログラムにはオーケストラ版の『クープランの墓』も含まれている。学生券、一五〇〇円。これだ。僕はすぐに宮下にラインを送る。

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