第七話 リゴドン

 翌々週の水曜にテストが終わる。筆記用具を片付けていると、土屋が僕のところにやってくる。

「あー、終わった終わった。これで心置きなくゲームができる」

 本当に土屋はゲームのことしか考えていない。部活を続けていられることがむしろ不思議になるくらいだ。僕たちは教室を出て音楽室に向かう。

「そういえば土屋はアンコン出るの?」

「出るよ。今回の金管八重奏はトロンボーン三人の編成だから、全員が駆り出される。正直だるいけど、まあ仕方ない」

「曲は何をやるの?」

高昌帥こうちゃんすとかいう作曲家の、金管八重奏曲。くっそむずい。あれ俺たちには難しすぎると思うんだよなあ。速いタンギングがいるし、ばんばん高音出るし。俺はセカンドだからまだましだけど。練習のたびに疲れ切って嫌になるよ」

 高昌帥と言う名前には聞き覚えがある。朝鮮系の邦人作曲家で、確か何年か前の吹奏楽コンクールの課題曲を作曲していたはずだ。その曲はリズムの仕掛けがすごくトリッキーで、演奏するのが難しそうだった。金管八重奏曲はどんな感じなのだろう。

 音楽室に着くと、他の部員もぞろぞろとやって来るところで、すでに来ている部員は自分の楽器を出している。テスト明けの日の部活は、個人練習と軽いパート練習に費やされ、四時ごろには終わる。みんなしばらく楽器を触っていないから、いきなり合奏をやるとすぐにばててしまうのだ。

 村岡先輩はいつも通りピアノのそばに座っているが、まだ楽器をケースから出していない。顔をしかめて携帯電話の画面を見つめている。僕はそばに寄って、「どうしたんですか?」と尋ねてみる。

「近藤が、今日は部活休むって。理由を訊いても教えてくれない」

「珍しいですね」

「うん。いつも遅れて来るけど風邪以外で休んだことなんてないのに」

 村岡先輩は頬杖をついて考え込む。その様子がなんだかとても絵になっている、と僕は思う。

「そしたらまあ、今日はパート練習なしかな。あ、でも、個人練習してて困ったことあったら呼んでね。私は下の階の廊下の端にいるから」

「はい」


 下の階の廊下で適当に場所を見つけて、音出しをする。午前はとりあえずスケールをさらう。二週間弱のブランクは大きい。いい音が出ないし、指が回らないし、すぐに唇が疲れる。休憩をはさみながら、ゆっくりのテンポで丁寧にスケール練習をする。大丈夫、落ち着いてやれば、すぐに感覚が戻ってくるはずだ。

 昼になると、椅子と譜面台は廊下に置いたままにして、楽器を持って音楽室に戻り、弁当を食べる。女子部員はわりと固まって食べることが多いが、男子部員はそれぞれで黙々と食べる。あたりにはテスト明けの緩んだ空気が漂っている。僕はその空気があまり好きではない。弁当を食べ終わると、かばんからプレーヤーとイヤホンを出し、楽器と一緒にそれを持ってまた下の階に降りる。

 『クープランの墓』のリゴドンをサックス四重奏版で聴く。テンポ指定はAssez Vif(アッセ・ヴィフ)。「十分に生き生きと」という意味だ。意訳すれば「まあまあ速く」くらいの感じか。この曲は、何というか、つかみどころがない。まず出だしが変てこなのだ。主和音で始まらないし、メロディには独特の跳躍がある。そうしてフォルティッシモで元気よく始まると、すぐにメゾピアノまで音量が下がって主題が出る。この主題もメロディとしては単純すぎるし短いし、なんだかよくわからないうちにクレッシェンドしてまたフォルティッシモになる。ここでリピート。そのあとは低音を中心に主題が展開されていく。目まぐるしい転調。突然のピアニッシモ。それからクレッシェンドして、フォルティッシモで最初のメロディが戻ってくる。ここまでをまたリピート。それから中間部に入ると、テンポが少し落ちて、短調に転調する。少し影を感じさせる、憂いを帯びたようなメロディがソプラノサックスに出る。しかしこれも前半との対比が効きすぎているというか、なんだか別の曲のように聞こえてしまう。そしてそれをひとしきり歌い上げると、また最初のメロディが戻ってきて、前半の展開の繰り返しになる。今度はリピートなし。フォルティッシモで元気良く終わる。

 そもそもリゴドンというのはどういうジャンルの曲なのだろう。それがバロック時代の舞曲の一つだということは、前に調べたから知っている。しかし『クープランの墓』以外でリゴドンという曲を聴いたことがない。僕はプレーヤーでストリーミング配信サービスを立ち上げて、Rigaudon(リゴドン)とアルファベットで入力して検索する。たくさんの曲が並ぶが、有名な作曲家の作品は数えるほどしかない。いくつかを選んで聴いてみるが、曲によって雰囲気はまちまちで、テンポが速い二拍子の曲、という以上の共通点を見出だせない。それ以上曲について調べるのをあきらめて僕は午後の練習を始める。

 村岡先輩は「簡単な」リゴドンの方から合わせると言ったが、リゴドンだって充分難しい。頻繁な強弱の変化についていかないといけないし、メロディを吹くには細かいタンギングが必要だ。幸い僕は高一の初めのころに村岡先輩に鍛えられてだいぶ速くタンギングができるようになっているから、この曲に関してはさほど問題はない。中間部はほとんどが八分音符の刻みで、これも大して難しくはない。確かに、プレリュードに比べればまだ「簡単」かもしれない。

 一通りリゴドンをさらったあと、プレリュードも練習する。遅めのテンポでメトロノームに合わせて頭から。すると二小節目のトリルが吹けるようになっている。しばらく練習していなかったというのに不思議だ。まぐれだろうか? もう一度頭から。トリルは綺麗に決まる。後の方のところはやはり指がもたつくが、それでももう少しで音を拍にしっかりと乗せられそうな感覚がある。どうやら今になって練習の成果が出てきたらしい。


 その日の帰り道、いつものように二人で歩いていると、宮下が尋ねる。

「そういえば、お礼、何がいいか考えた?」

「いや、まだ。なんか欲しいものって意外とないな」

「そう。まあ思いついたらいつでも言ってよ」


 次の日は木曜日。リゴドンを合わせる日だ。合奏とパート練習を終えて、僕たち四人はまたいつもの廊下に座って並んでいる。

 チューニングを済ませる。

「じゃあ、リゴドンを合わせます。リピートは省略。最初だから、少し遅めのテンポで。とりあえず中間部の前まで行きます」

 村岡先輩が一、二、と数えると、曲は元気よく始まる。メロディが、アルトサックス、バリトンサックス、テナーサックスと受け継がれ、ピアニッシモでアルトサックスに戻ってくる。その裏でバリトンサックスが十六分音符の分散和音を吹くはずなのだが、宮下の指は明らかに追い付いていない。吹くべき音の半分くらいを取りこぼしている。それでも演奏は止まらず続いていき、中間部の前まで進む。村岡先輩が手を上げる。

「さすがにプレリュードよりはだいぶ合わせやすいね。速いタンギングもみんなちゃんとできてるし。あとは宮下さんの分散和音がちょっと課題かな」

「練習します」と宮下。

「そしたら、今日はとりあえず曲全体の雰囲気をつかむってことで、中間部も合わせてみます。中間部はいきなりイン・テンポで、中間部が終わったら、今くらいのテンポで後半もそのまま合わせます」

 中間部。村岡先輩のソプラノサックスが息の長いメロディを吹く。他の三人は八分音符で伴奏しているが、メロディの最後の数小節はソプラノサックスからアルトサックスに受け渡される。そしてまたソプラノサックスに戻る。もう一度メロディの受け渡しがあったあと、転調してがらっと色彩感が変わる。しばらくそのままで進んでいき、ゆったりとした四分音符のフレーズが出て、そして突然最初のメロディが戻ってくる。後半は最初とほとんど同じ展開で、演奏も先ほどと大体同じような感じになる。宮下はやはり同じところで音を取りこぼす。曲が終わる。

「まあ、この曲に関しては、あとはテンポを上げて強弱やアーティキュレーションをもっとしっかり付けるという方向で行けば大体できあがると思う。今日は前半のハーモニーの確認をします」

 そうして三十分の練習は滞りなく進行していく。


 その夜、近藤先輩からラインが来る。珍しいことだ。というか、近藤先輩とは四月にラインは交換したけれど一度もやり取りはしていない。

「頼みがあるんだけど」

 僕はとりあえずメッセージを開いて続きを待つ。

「俺、実は学外のビッグバンドに所属しててさ、今度の日曜にライブをやるんだよ」

 そんな話は聞いたことがない。そもそも近藤先輩ってジャズとか演奏するのか。またメッセージが送られてくる。

「うちの部活は掛け持ちを良しとしない風潮があるから部員にはあんまり言いたくないんだけど、今度のライブのチケットがなかなかさばけなくて、安田なら口も堅そうだしもしかしたらライブに来てくれるかも、と思って連絡した」

 なるほど。裏でこっそりやっているということか。次のメッセージ。

「チケットは一枚千円で、金を取るのも悪いくらいなんだけど、でも俺も金欠だから、もし来てくれるなら五百円くらい払ってもらえると助かる」

 僕はしばらく考えて情報を整理してから、「事情はわかりました」ととりあえず返信する。そして少し迷ったあと、「ライブ、聴きに行きたいです」と打って送信する。数秒後に既読が付いて、「ありがとう!」と返事が来る。

「じゃあチケットは明日の部活でこっそり渡す。このことはほかの部員にはくれぐれも言わないように頼む」

「わかりました」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 やり取りが終わる。なんだか最近、人に頼みごとをされてばかりのような気がする。そして僕はそれを断ることができない。別に嫌ではないからいいのだが。

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