第六話 深まる秋

 その週の木曜も予定通りプレリュードを合わせる。プレリュードの後半は、臨時記号が多くて譜読みが大変だったが、アルトのパートに関して言えば、前半ほど難しいパッセージはない。プレリュードは結局、二拍子で合わせている。しかしやはりリズム感は不安定で、僕や宮下の指がもつれたところでたるんだテンポを先輩たちがしめ直す、という具合になっている。もちろんこれでは良くないのだが、二拍子で数えているからこれ以上細かく合わせることもできない。

「まずは個々人の演奏のクオリティを上げることね」と村岡先輩は言う。

「いきなり速くは吹けるようにならないから、とりあえずは今四人で合わせているくらいのテンポで確実に吹けるようになること。テストが明けたら、簡単なリゴドンの方を重点的に合わせましょう。そのあいだに個人練習をしておくこと」

 来週の金曜から二学期中間テストがある。テスト中と、テスト前の一週間は部活が休みになるから、吹奏楽部員の多くはその時期を楽器を吹かずに過ごす。テスト前も楽器を持ち帰って自主練をするのは、サックスパートでは多分村岡先輩だけだろう。なんでも村岡先輩の家には防音室があるらしい。お母さんがピアノ教師なのだ。


 金曜日、授業が終わり、土屋と並んで校門まで歩く。

「あーあ、テスト勉強かったるいなあ。俺はもう赤点回避するのだけで手一杯だよ」と土屋。

「徹夜でゲームするのをやめてちゃんと授業を聞いたらいいだけの話じゃない?」と僕は言うが、その先の返事は大体予想がついている。

「わかってないなあ。俺の人生からゲームを取ったら何も残らないぜ」

 僕はもう何も言わない。


 校門で土屋と別れると一人になる。ポケットからプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に付け、シュミットのサックス四重奏曲を聴きながら帰る。母さんはパートに出かけているから、家には誰もいない。部屋で着替えて、リビングでお菓子を食べる。また部屋に戻ったところで携帯電話の通知音が鳴る。開いてみると宮下からラインが来ている。

「テストがやばい」

「それで?」と短く返す。すぐに既読が付き、十秒ほど待っているとまたメッセージが届く。

「勉強教えてくれない?」

「何かお礼はするから」と続く。

 僕は「他に頼める友達はいないの?」と打ってから、少し考えて「僕だってすごく余裕があるってわけじゃないから」と付け足して送信する。返信を待つあいだに、英語の問題集とノートと筆箱をかばんから取り出す。

類友るいともっていうのかな」

「私の友達に安田くんみたいに勉強のできる子はいない」

 僕はペンを手の中で回しながら返事を考える。いや、実際のところ、僕はこういう頼みごとを断るということがないから、ただ考えているふりをしているだけかもしれない。

「わかった。いいよ」

 すぐに「THANK YOU!」のスタンプが送られてくる。

「じゃあ、明日の午後にうちに来てくれる? 二時くらい」

 僕は「OK」のスタンプを送る。それから、「特にやばい教科は?」と尋ねる。

「うーん、どれも結構やばいけど、一番は数Iかな」

「わかった。僕も先に勉強しとく」

「ありがとう! また明日」

 やりとりはそこで終わる。僕は英語の問題集に取りかかる。


 土曜日。午前中に数Iのテスト範囲の基本事項をざっと復習する。今回の範囲は二次不等式と三角比だ。数式の基本的な意味さえわかっていればそれほど難しい単元ではないと思うのだが。

 昼ご飯を食べているときに、「宮下に勉強を教えてほしいって頼まれたから、今日の午後ちょっと行ってくる」と言う。

「あら、宮下さんのお母さん、最近会ってないわね。よろしく言っておいてね」と母さん。

「誰だ? 部活の友達か?」と父さん。

「そう。中学から一緒」と僕は答える。


 インターホンを押すと、宮下がドアを開けて出迎えてくれる。

「いらっしゃい。今日はありがとう。どうぞ上がって」

 玄関で靴を脱いでスリッパに履き替える。

「私の部屋は狭いし散らかってるから、ダイニングのテーブルで勉強しよう」

 宮下はゆったりとしたズボンを履き、パーカーを着ている。

「親は出かけてる。弟がいるけど、部屋で一人でゲームしてると思うから、気にしないで」

 僕たちは並んで座り、テーブルの上に教科書、問題集、ノートと筆記用具を並べる。

「何からやる?」

「じゃあ、数Iの、二次不等式から教えてもらってもいい? あれさ、不等号の向きがどうなるのか、よくわからないんだよね。あと、解はすべての実数とか、解なしとかさ」

「二次不等式は、グラフを書いて考えるのが一番わかりやすいよ。授業でもやったと思うけど」

「あー、私ね、数Iの授業はいつも寝ちゃうんだよね。寝不足ってわけでもないんだけど、なんか先生の言ってることが全然頭に入って来なくて、ついうとうとしちゃう。数Aの授業はまだましなんだけど。あ、でもノートは写したよ」

 宮下はノートのページをぱらぱらめくり、二次不等式のグラフが書いてあるページを出す。

「えーっと、このあたりかな。それでこのグラフはどういう意味なの?」

 僕はお世辞にも綺麗とは言えない宮下のノートを指差しながら、グラフの意味についてなるべく丁寧に解説する。横軸はxの値を表し、縦軸は不等式の左辺に表れる二次式の値を表していること。二次式の値のグラフは放物線になり、放物線がx軸の上に来ているところでは値が正で、下に来ているところでは値が負になること。

「例えば『(xの二次式)<0』という不等式の解を求めるということは、代入すると二次式の値が負になるようなxの値をすべて求めるということだから、このグラフでいうとここ、グラフとx軸の二つの交点にはさまれた値すべてが解になる」

 宮下は難しそうな顔をしている。

「わかりにくかった?」

「いや、学校の先生よりはだいぶ聞きやすかった。でもいまひとつぴんと来てないかなあ」

「じゃあ実際の問題を解きながら考えてみよう。問題集を出して。まずこの1番の問題ね。左辺を因数分解すると、そうそう、それでマイナス2と1が出てくる。そしたら左辺の二次式の値をグラフで表してみる。まず横軸を引いて、それから、そう、マイナス2と1のところで交わる、下に凸の放物線だね」

「下に凸って何?」

「放物線の向きを表す言葉だよ。今書いたようなのが下に凸の放物線で、上下逆にしたのが上に凸の放物線」

「ふーん。それで、この問題だと、放物線がx軸の下に来ているところを見ればいいから、答えはマイナス2と1の間ってこと?」

「そうそう。次の問題も続けてやってみよう」

 こうして僕たちは二十分ほどかけて二次方程式の基本的な問題を解いていく。この調子だと、テスト範囲の基本事項を復習するだけで結構な時間がかかりそうだ。


 二時間ほどが経つ。宮下は二次不等式を何とか理解し、今度は粘り強く三角形と格闘している。本人が認める通り、頭はあまり良くないのかもしれないが、その集中力は大したものだと思う。サックスの演奏にもそれは生かされている。宮下は中学の吹奏楽部で初めて本格的な楽器に触ったと言う。最初は楽譜も読めなかったから、同じサックスパートで同学年の僕が付きっきりで教えた。それに運指を覚えるのも大変だった。でもひとたび基本を習得すると、宮下はめきめきと成長していった。この四年のあいだ、僕は隣でずっとその様子を見ていた。

「次の問題は、ええ、四角形? どうしたらいいの?」

「四角形は、補助線を一本引くと三角形二つに分けられる。この場合はここに引くと、ほら」

「おお! これならわかる気がする」

 宮下は嬉々として計算に取り組む。きっと勉強が嫌いなのではない。ただコツをつかんでいないだけなのだ。


「あー疲れた。休憩! おやつ食べよう。チョコパイでいい?」

「うん」

 宮下はキッチンに行って棚からチョコパイを箱ごと取り出し、それを持って戻ってくる。僕たちはチョコパイを手に取り、個包装を開けて無言で食べる。宮下は三口くらいであっという間に食べ終わり、二個目に手を伸ばす。

「勉強してるとさ、すぐにお腹が空いてくるんだよね。普段頭を使わなさ過ぎて、考えることに慣れてないのかもしれない」

 僕は黙ってチョコパイを食べ続ける。宮下は二個目を食べ終わったあと、なぜか僕の方をじっと見ている。口にチョコが付いているのだろうか。僕は手で口を拭う。

「ねえ、安田くんはさ」と宮下が急に真剣な声で言う。僕は宮下の顔を見る。神妙な面持ちだ。

「村岡先輩のことが好きなの?」

 一瞬、紺色のワンピースを着た村岡先輩の姿が脳裏をよぎる。僕は何も考えることができなくなる。

「どうしてそんなことを訊くの?」とかろうじて僕はのどの奥から声を絞り出す。動揺を悟られないよう、なるべく表情や声色を変えずに。

「いや、前からちょっと気になってたっていうか、まあなんとなく訊いてみただけなんだけど」

「あの、村岡先輩は、素敵な女性だとは思うけど、だからと言って、先輩として尊敬する以上の感情があるかというと、それは、その」

 言葉が詰まる。

「あー、わかったわかった。いいよそれ以上言わなくて。安田くんにそんなこと訊いたのが間違いだった」

 宮下はいつも通りの屈託のない笑顔を見せる。僕はほっとする。

「英語も教えてもらっていい? 文法がもうわけわかんなくてさ」

「いいよ。もう少し休憩したら始めよう」


 僕が分詞構文について解説していると、廊下の奥からぱたぱたという音がする。振り向くと階段を降りてきた宮下の弟と目が合う。ぱっちりとした目が姉弟でよく似ている。僕の記憶が正しければ、今はまだ小学生のはずだ。ずかずかとこちらにやってくる。

「誰? 姉ちゃんの彼氏?」

「あんたねえ、人に会ったらまず挨拶でしょうが」

「こんにちは。それでこの人は姉ちゃんの彼氏なの?」

「違う違う、部活の友達で、勉強を教えてもらってるの。安田くん。あんた確か前にも会ったでしょ?」

「覚えてない。友達の家に行ってくるね」

「はいはい、いってらっしゃい」

 宮下の弟はすぐに行ってしまう。

「ごめんね、礼儀知らずな弟でさ。反抗期なのか知らないけど、なかなか人の言うことを聞かないんだよね」

「いいよ、別に気にしてない」

「えーっと、それで、どこまで行ったんだっけ。あ、現在分詞の分詞構文ね。意味が何通りもあるやつ」

 僕は解説を続けるが、何度も集中が途切れそうになる。宮下の彼氏。確か中学三年のときに宮下は彼氏ができたと言っていたが、その後どうなったのか。高校に入ってからは全然その話を聞かないから、もう別れたのかもしれない。とか、余計なことばかり考えてしまう。


「あ、もう六時だね。そろそろ終わりにしようか」

 英語の問題集を解き終えた宮下が言う。僕はうなずく。

「本当、今日はありがとうね。助かったよ。だいぶ見通しが立った。あとは自分で何とかする」

「健闘を祈るよ」

 宮下は苦笑いして、勉強道具を片付ける。僕もノートと筆箱をかばんにしまう。僕たちは椅子から立ち上がり、玄関に向かう。

「じゃあ、また。安田くんもテストでいい点取れるように祈ってるよ」

「ありがとう。またね」

 僕はドアを開けて外に出る。振り向くと宮下は手を小さく振っている。僕も手を振り返して、ドアを閉める。

 もうすっかり夜だ。だいぶ冷え込んでいる。上着のボタンを閉めてもまだ寒い。僕は家までの短い道のりを走って帰る。


 部屋で着替えていると、携帯電話のランプが点滅していることに気付く。手に取ってみると、宮下からラインが来ている。

「今日はありがとう! お礼の話するの忘れちゃった。何か欲しいものとかある?」

 僕はリードを一箱、と打ちかけたが、よく考えたらリードは結構高い。何か別のもののほうがいいだろう。

「考えとくよ」

 宮下から笑顔のキャラクターのスタンプが送られてくる。僕も何かスタンプを返そうと思うが、全然スタンプを持っていないのでいい感じに返せそうなものが見当たらない。あきらめて携帯電話を閉じる。

 欲しいものは、と訊かれても何も思いつかないな。僕は小遣いをリードくらいにしか使わないし、聴きたい音楽は定額のストリーミング配信でほとんど聴ける。余ったお金は貯めておく。かといって何かお金を貯めて買いたいものがあるわけでもない。お礼、お礼…。

 そんなことを考えていると、ご飯よ、という母さんの声がする。僕は電気を消して部屋を出る。また考えよう。

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