第五話 プレリュード

 月曜日、長めの合奏が終わって個人練習の時間になると、宮下が僕のところにやってくる。

「ねえ安田くん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「何?」

「静かな場所に行こう。ここだとうるさくて話しづらいから」

 僕たち二人は楽器を持って階下に降りる。吹奏楽部は下の階の廊下をパート練習などで使うことができるのだ。

「このプレリュードのさ、十六分の十二拍子ってどういうことなのかな」

「どういうことって…、十六分音符が十二個集まって一小節でしょ」

「いやそれはわかる、さすがにそれはわかるんだけども」と言ったあとで宮下は少し考え込む。

「ほら、十二拍子って言ってもさ、タタタタタタタタタタタタって、十六分音符一個ずつが一拍になるわけじゃないでしょ? 大きく三でとるとか四でとるとか、そういうことを訊いてるわけ。音源を聴いてもテンポが速すぎてわからないから」

「そういうことなら、八分の十二拍子と同じで三かける四でとればいいんじゃないの。記譜上もそうなってるし」

「ははあ、なるほどね。なるほどなるほど。四拍子」

 やたらなるほどを連呼しながら、宮下は去っていく。僕はその場に残り、譜面を広げ、『クープランの墓』の難所を一か所ずつゆっくりさらう。

 明日からアンコンに向けての練習が始まる。今日の合奏前に村岡先輩が言っていた。毎週火、木、土曜日の個人練習の時間を使って四重奏の練習をすると。まあ定演のメインがスパークでサックスパートの負担は少ないから、個人練習の時間を半分削ってもこの四人ならなんとかなるでしょう、と。大丈夫じゃない、と僕は思った。スパークはともかく、今後楽譜が配られる定演の第二部の曲だって、きっとそんなに簡単ではないはずだ。

 とりあえず、今は与えられた曲をしっかり吹けるようになることだ。『クープランの墓』のプレリュードは、実音でいうとホ短調、シャープが一つのキーで書かれている。アルトサックスは変ホ長調の移調楽器だから、記譜の上での調号はシャープ四つ。これは吹奏楽だけをやっていてはあまりお目にかかれないキーで、したがって僕にとっては慣れないキーだ。シャープが増えれば増えるほど、基本的に運指は難しくなる。

 特に最初の方に出てくるフレーズがなかなか吹けるようにならない。まずは出だしのメロディ。ここが決まらなければ第一印象は最悪だ。一小節目はまだ何とかなる。二小節目の頭のトリルが、前の小節との連結の関係で、どうしてももたつく。小節線の前後のいくつかの音を取り出し、いろんなテンポで、いろんなアーティキュレーションで吹いてみる。この方法は先週の金曜日くらいから試しているが、いまだにイン・テンポではトリルは吹けない。

 あきらめて後の方の小節に移る。一番の難所が十小節後に控えている。正直ここは、指定の半分のテンポでもちゃんと吹けるかどうか怪しい。昔ピアノの先生に教わった方法で練習する。十六分音符三つずつのかたまりそれぞれを、八分音符、十六分音符、十六分音符のかたまりに置き換える。つまり、リズムを少し不均等にして、音の繋がりを小さい単位で意識できるようにするのだ。それができたら今度はリズムを十六分音符、八分音符、十六分音符に変えて練習し、さらに十六分音符、十六分音符、八分音符に変えて練習する。最後にもう一度譜面通りのリズムで四小節間のメロディを吹くと、最初よりはいくらか指が回るようになっている。でもイン・テンポにはほど遠い。僕はため息をつく。地道に練習するしかない。


 火曜日、五時半に僕たちサックスパートの四人は、ちょうど僕が昨日練習していたあたりの廊下に集まっている。サックス四重奏の奏者は、舞台上では向かって左からソプラノ、テナー、バリトン、アルトの順に並ぶことが多い。僕たちもそのように並んでいる。つまり、僕から見て右に宮下、近藤先輩、村岡先輩がその順番に並んでいる。チューニングを終えると、村岡先輩はみんなの顔を見回す。

「それじゃあ『クープランの墓』の練習を始めます。今日はプレリュードを合わせます。最初だから、テンポはゆっくりで。この曲の最初はソプラノとバリトンが休みで、アルトとテナーから始まるから、本番は安田くんが合図を出すことになるわけだけど、今日は私が拍を数えます。一、二、三、四、とこれくらいのテンポでいきます」

「ちょっと待った。今四拍子で拍をとった?」と近藤先輩が口を挟む。

「とったけど、それが何か?」

「この曲は四拍子じゃない。最初のテンポ指定に付点四分音符イコール九十二とあるように、付点四分音符、つまり十六分音符六個分の音価を一拍ととるのが正しいはずだ」

 村岡先輩はしばらく譜面を凝視している。そして一瞬宙を見上げてから言う。

「確かにその通りかもしれない。でもそうだとしても、最初からいきなり二拍子でとると、細かい音符を合わせることができなくて演奏がまとまらなくなるんじゃないかな」

「だから四拍子で合わせると? それで四拍子の感覚が抜けなくなったらどうするんだ?」

 しばらく重い沈黙が流れる。宮下はおどおどした表情を顔に浮かべ、その視線は先輩二人の間を行き来する。

「わかった。一度二拍子で合わせてみましょう。うまくいけばそれでいいし、うまくいかなかったら別の合わせ方をする。それでいい?」

「ああ、それでいい」

「じゃああらためて。一、二、とこれくらいのテンポでいきます。二拍数えたら一小節目から入ってください。前にも言った通り、一番かっこは飛ばして。二番かっこに入ったくらいで止めます」

 村岡先輩が一、二、と数える。僕は頭の中で拍を六等分し、その通りの音価で最初の十六分音符のフレーズを吹こうとする。六つ目の音で指がもつれる。トリルはやはりうまく吹けない。その裏でテナーサックスの近藤先輩は、完璧に均等なリズムで十六分音符のフレーズを吹く。もう二小節間は同じことの繰り返しだ。そのあと村岡先輩のソプラノサックスが入ってくる。廊下で反響して、音色は楽器店での試奏のときよりきらびやかに聞こえる。三人での掛け合いが五小節続いて、宮下のバリトンサックスが入ってくる。少し指がおぼつかない様子ではあるが、一応十六分音符のフレーズは拍に合っている。

 その四小節後、僕の最大の難所がやってくる。僕は指を滑らせていくつかの音を外してしまう。それでも付点八分音符で半音階を下降する宮下のバリトンサックスのフレーズに合わせてなんとか拍から外れないようにする。四小節間で僕がずたずたにしたメロディラインを、次の四小節間で村岡先輩が修復する。一つのミスもない。

 次にアルトとソプラノで二小節ずつの掛け合いがあり、徐々にクレッシェンドしてフォルティッシモとなる。村岡先輩が音域を上から下まで滑らかに動いてデクレッシェンドしたあと、最初のフレーズが戻ってくる。村岡先輩が手を上げる。

「まあ、最初にしては、思ったより悪くないね。一年生二人は指が追いついてないところもあるけど、これは毎日こつこつ練習すればなんとでもなるから、個人の努力に任せます」

 そこまで言って、村岡先輩は近藤先輩の方を見る。

「それで、近藤の意見は?」

 近藤先輩は右手で楽器を持ち、左手を頭の後ろに置く。

「確かに悪くない。でも、村岡が言ったみたいに、リズム感が不安定になっている感じはあると思う。最初だからかもしれないけど」

「じゃあ、どうする?」

 僕たち四人はしばらくそのままの姿勢で固まっている。合奏で一番難しい場面は、こういうすぐには打開策が見えない状況に直面したときだ。

「こうしましょう。今日はとりあえず二拍子で数えて、このリピートの前までを合わせてみる。今後どうするかはまた明後日までに考えておく。それでいい?」

「そうしよう」と近藤先輩はうなずく。僕と宮下もうなずく。

「それじゃあテンポをもっと落とします。タタタタタタ、タタタタタタと十六分音符がこのくらいで、だから一、二、くらいの速さで」


「はあ、村岡先輩のソプラノサックス、かっこよかったなあ」と宮下が言う。帰り道、僕と宮下、バスクラリネットの畑中、トランペットの藤井が並んで歩いている。いつもの顔ぶれだ。

「それにしてもさ、村岡先輩と近藤先輩って、音楽性の違いで対立するとすぐに熱くなるよね」と宮下は僕の方を見る。

「そうだね」と僕は同意する。

「二人とも音楽に詳しいだけに、こだわりも強いんだろうね」と畑中。

「でもさ、喧嘩するほど仲がいいとも言うし、二人とも本当はお互いのことをよくわかってるんじゃないの」と藤井。

「まあでも、プレリュードが二拍子っていうのはびっくりしたなあ。あんなの絶対合わせられないじゃん」

 宮下の声には強い感情がこもっている。宮下はもともと感情表現が豊かな方だが、プレリュードの難しさに対しては特に思うところがあるようだ。

「何、アンコンの曲の話?」と藤井。

 僕は十六分の十二拍子について藤井と畑中に説明する。付点四分音符が基本の音価だから二拍子でとらなければいけない、というところで二人ともへえ、と言った。

「一拍を六等分か。それは確かに合わせづらいね。普段は最大でも四等分とかだし」と畑中。

「それにテンポも超速いしさ。あんな難しい曲吹いたことないよ」と宮下は言うが、アルトサックスの譜面はもっと鬼なんだけどな、と僕は内心思っている。


「じゃあまた明日。バイバイ」

 交差点で別れて、僕と宮下はまた二人になる。僕たちはしばらく黙って歩く。僕はまた、村岡先輩が一昨日見せた曇った表情について考えている。

「どうしたの? ちょっと怖い顔してるよ」と宮下が尋ねる。

「いや、なんでもない。ちょっと考えごと」

 宮下は僕が村岡先輩の楽器選びに付き合ったことを知らない。別にわざわざ言うほどのことでもないだろう。

「そう。まあ安田くんってちょっと考えすぎなところがあるから、ほどほどにね」

 僕は何も言わない。宮下も黙っている。


 夕食後、パソコンを使ってインターネットで『クープランの墓』の楽譜を探す。ラヴェルの作品はパブリックドメインに入っているから、しかるべきサイトを見つければ楽譜は無料でダウンロードすることができる。ピアノ版とオーケストラ版をダウンロードする。ピアノ版の楽譜からプレリュードとリゴドンのページを取り出して印刷する。オーケストラのスコアはさすがにページが多いから、印刷したら親に文句を言われるだろう。それにそもそも僕はオーケストラのスコアなんて読めない。

 電子ピアノの前に座って、印刷した楽譜を譜面台に広げる。プレリュードは、最後の数小節を除くすべての小節が十六分音符で埋めつくされている。何と言ったか、こういう音楽のスタイルを指す専門用語があったはずなのだが、思い出せない。

 右手のメロディラインを少しゆっくりのテンポで弾いてみる。中学に入ってからピアノは習っていなくて、本当にたまに遊びで触るだけだから、ろくに指も回らないだろうと思っていたが、右手に関しては意外と弾きやすい。左手も弾いてみるが、和音の連結を滑らかに弾くのが少し難しい。でもちゃんと練習すれば弾けるくらいの難しさだ。

 両手でもっとゆっくり弾いてみる。思っていたほど難しくはない。たまに指が転びそうになるが、注意すれば拍子を外すことはない。今日合わせたリピートの前までをその調子で譜読みする。


 それにしても、ワンピースがよく似合っていたな、と風呂上がりにパジャマを着ながら僕は唐突に思う。一昨日村岡先輩が着ていた紺色のワンピース。村岡先輩の私服姿を見るのは夏の合宿のとき以来だ。と言っても合宿のときはみんなラフな格好をしていて、そんなお洒落な服はだれも着ていなかった。思えば中学高校と、休日に女子と会うことなんてなかったから、知り合いの女性の私服姿というのはほとんど見ることがなかった。一昨日は楽器のことで緊張していて気にしている余裕がなかったけれど、今思い出すと、ワンピースを着ている村岡先輩はとてもきれいだった。

 …僕は何を考えているんだろう。今日はもう歯を磨いて寝よう。

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