第四話 ヤマハVSヤナギサワ
日曜日。約束の時間の少し前に楽器店の前に着く。村岡先輩と先輩のお父さんが待っている。先輩は裾の長い紺色のワンピースを着ている。お父さんは鼠色のポロシャツを着ている。遠目に見てもわかるくらいのがっしりとした体格だ。二人は話し込んでいて、僕が近付いてくるのに気付かない。
「おはようございます」と僕が声をかけると、二人はこちらを向く。
「おはよう」と先輩が微笑む。お父さんはうなずく。
「お父さん、こちら安田くん。安田くん、私の父です」
「はじめまして。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。娘がいつも世話になっているね」
「いえいえそんな、お世話になっているのは僕の方です」
「美樹がいつも言っているよ、安田くんは頼りになるいい後輩だって」
先輩の方を見ると、少し照れたような顔をしている。今まであまり見たことがない表情だ。しかしすぐに顔を引き締めて言う。
「まだ開店まで少し時間があるから、今日のプランを簡単に伝えておくね。予算は三十万円以内。調べてみると、その値段で買えるまともな楽器はヤマハかヤナギサワの一番安いモデルくらいしかないから、多分そのどちらかを買うことになる。とりあえず両方試奏して決める」
僕はうなずく。
十時になると、店員さんが自動ドアを開ける。僕たち三人は店の中に入る。
「いらっしゃいませ」
僕もこの店にはリードを買うためによく来る。あまり大きくはないが、有名どころのメーカーの管楽器は大体揃っている。
先輩はカウンターの前まで歩いていって、「ソプラノサックスを新しく購入したいのですが」と言う。レジにいる店員さんがカウンターの横から出てくる。
「ソプラノサックスですね。他にサックスを吹かれたことはありますか」
「アルトサックスを五年ほど」
「ソプラノサックスはどういうところで吹かれる予定ですか」
「高校の吹奏楽部で、サックス四重奏です」
「予算の方は」
「三十万円以内くらいで考えています」
「わかりました。マウスピースやリードはお持ちではないですか」
「リードは持っています」
「ストラップは使われますか」
「はい」
「それでは楽器をご用意いたしますので、しばらくお待ちください」
店員さんはレジ奥に引っ込む。僕たちは立ったまま、左手にあるショーウィンドウのソプラノサックスを眺めている。
やがて店員さんがマウスピースとストラップを持って出てきて、それらをテーブルの上に置く。ショーウィンドウから楽器を一本取り出す。ネックのコルクにグリスを塗ってマウスピースを付ける。
「予算が三十万円以内ということになりますと、ヤマハかヤナギサワのエントリーモデルが候補に挙がってまいります。まずはこちら、ヤマハのYSS-475というモデルを試奏してみてください」
先輩はかばんからリードケースを取り出し、リードを一枚取ってケースの上に置く。店員さんが手渡したストラップを首にかけ、それから楽器を受け取りストラップに付け、リードをマウスピースに付ける。楽器を構え、指を押さえて一つひとつのキーの動きを確かめる。キーはぱたぱたと軽やかな音を立てる。一通りキーを確かめ終わると、しっかりと息を吸って、楽器に息を入れる。太い音が鳴る。中音域でいくつか音を伸ばす。いつもの先輩のアルトの音に比べて大きく硬い音のような気がする。先輩は少し顔をしかめる。
「大体みなさんソプラノに持ち替えると、息を入れ過ぎてしまうことが多いですね。もう少し軽い息で吹いてみてください」と店員さんが言う。
先輩はうなずいて、軽く息を吸ってもう一度音を伸ばす。今度はさっきよりふくよかないい音に聞こえる。先輩はまた何回か中音域で音を伸ばしたあと、ハ長調のスケールで低音までゆっくり下がり、そのあと高音までゆっくり上がる。
「いい音になってきましたね。別の楽器も吹いてみますか」
「はい」と先輩はリードとストラップを外して楽器を店員さんに渡す。店員さんはそれをテーブルに置いて、ショーウィンドウから別の楽器を取ってくる。コルクにグリスを塗って、マウスピースを付け替える。
「こちらはヤナギサワのS-WO1というモデルです。ヤナギサワの楽器はハンドメイドですので、価格は先ほどのヤマハより少し高めとなっております。また、生産量が少ないため品薄状態が続いており、こうして店頭に並ぶことは少ないです」
先輩は楽器を受け取ると、先ほどと同じようにストラップとリードを付け、楽器を構えてキーの動作を確かめる。中音域でいくつか音を伸ばす。ハ長調のスケールで上から下まで音を鳴らす。楽器を口から離してしばらく見つめ、そして僕の方を見る。
「安田くんはどう思う?」
僕は数秒考える。それから慎重に言葉を選んで言う。
「正直、あまり違いがわかりませんでした。どちらも良い音で鳴っていたとは思います」
「そう。お父さんは?」
「言ったろう、私は音楽のことは何もわからん。ただ安田くんの言う通り、どちらも良い音で鳴っていたとは思う」
先輩は黙って少し考え込む。
「私も大体そう感じる。あまり音色の違いは分からない。ヤマハの方が若干息が入れやすい気がしたけど、ヤナギサワも入れにくいというほどじゃない」
それまで僕たちの会話を聞いてうなずいていた店員さんが口を挟む。
「少し予算をオーバーしてしまいますが、ヤマハの上位機種という選択肢もございます。試奏してみますか」
「お願いします」
再び楽器が交換される。
「こちらはヤマハのYSS-675というモデルです。先ほどのYSS-475はネックと本体が一体でしたが、こちらは着脱式となっております。他にも細かいところで仕様の違いがあり、それによって音色や吹奏感も変わってきます」
先輩は楽器を構え、キーの動作を確かめ、先ほどと同じように音を出す。正直僕には違いがわからない。
「確かに少し吹きやすいような気がする。でも、本当に少しの違いしか私にはわからない」と先輩は言って、僕の方を見る。
「音色はどう? 違った?」
「僕にはほとんどわからないです」
「値段はいくらくらい違うんですか?」とお父さんが尋ねる。
「こちらの値札をご覧になってください」
店員さんが指さした値札を見ると、ヤナギサワのS-WO1はヤマハのYSS-475よりも四万円くらい高く、YSS-675はそれより更に六万円くらい高い。わずかに三十万円を超えている。
先輩とお父さんは顔を見合わせてうなずく。
「最初の二本のどちらかにします。もう少し試奏させてください」
「かしこまりました」
店員さんは先輩からYSS-675を受け取り、テーブルの上に置く。
「今度はどちらから試奏されますか」
「ヤナギサワからで」
先輩は店員さんからS-WO1を受け取り、ストラップとリードを付けて楽器を構える。また中音域で音を何回か伸ばして、今度は色々なスケールを上から下までの音域でゆっくり吹く。それが終わると、ヤマハのYSS-475で同じように吹く。リードとストラップを外して店員さんに楽器を渡す。
「もう一度ヤナギサワを吹かれますか」
「いえ、もうほとんど決まりました。少し三人で相談させてください」
先輩は僕とお父さんに向かって話す。
「音色の面での違いはほとんどわからないけれど、吹くときの抵抗感はヤナギサワの方が好き。吹き応えがあるっていうか。少し高いけどヤナギサワの方がいいような気がする」
「美樹がそう思うのならそれでいいよ」
二人は僕の方を見る。
「僕もそれでいいと思います」
先輩は店員さんの方に向き直る。
「ヤナギサワのこの楽器を買います」
支払いを済ませて店を出る。僕たち三人は並んで駅まで歩く。
「すみません。呼んでいただいたのに何の役にも立てなくて」
「いやいや、第三者の意見というのは大事なんだ。君の耳が悪いわけじゃなくて、多分実際どの楽器もそんなに音は変わらないんだろうさ」
先輩は黙っていて、何か考え事をしているようにも見える。手にはソプラノサックスの入った真新しい黒いケースを携えている。
「ほら美樹、ちゃんと安田くんにお礼を言わないと」
先輩ははっとして立ち止まり、僕の顔を見る。先輩の表情は少し曇っている。
「安田くん、今日はありがとう。とても助かった」
「私からも礼を言うよ。ありがとう」
僕たちは駅の入り口に着いている。僕は軽く頭を下げて、二人が改札を通って行くのを見守っている。二人は振り返ることなくホームへと階段を上がる。
先輩の曇った表情が気にかかる。家までの帰り道、ずっとそのことを考える。別に満足のいく買い物ができなかったわけでもないだろう。楽器を選ぶ上で何か困ったことがあるようにも見えなかった。僕にはよくわからない。
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