第三話 ハンティンドン・セレブレーション

 今日の合奏曲は『ハンティンドン・セレブレーション』。来年三月末にある定期演奏会のオープニング曲だ。演奏会は二部構成で、第一部はオール・スパーク・プログラムとなっている。このスパークというのは火花のことではなく、作曲家の名前だ。演奏会のプログラムは最高学年である高二の部員と顧問の高橋先生で話し合って決めるのだが、部長をはじめスパーク熱に浮かされている人が高二には多く、こういう結果になった。僕はスパークは特別好きでもないし嫌いでもないが、来年は自分たちが本当にやりたい曲をやらせてもらえるのだから、文句を言う筋合いはない。

 それで、第一部の曲目はこの『ハンティンドン・セレブレーション』と『暗闇から光へ』、そしてシンフォニエッタ第三番だ。作曲は三曲ともフィリップ・スパーク。楽譜が配られたのは学園祭が終わった一週間と少し前のことだ。この一週間は各自の譜読みとパート練習に費やされ、今日が初めての合奏になる。

 音楽室の空間はいつものようにみんなの遠慮のない音出しで飽和している。高橋先生が入ってきて指揮台に立つまでの五秒くらいの時間でそれはぴたりと収まる。

「定演に向けての初めての合奏です。いい演奏会になるように、気を引き締めていきましょう。ではチューニング」

 オーボエがいないうちの楽団では、クラリネットの一番奏者が基準音を出す。続いてみんなが自分のタイミングで同じ音を重ねていく。先生が手を上げて音を止めるよう合図する。

「全然合ってない。耳はいてるか? もう一度」

 クラリネットがまた基準音を出すと、今度はみんなもう少し慎重なタイミングで入ってくる。先生はまた手を上げる。

「少し良くなった。音域ごとにいきます。低音」

 クラリネットが基準音を出す。チューバ、バスクラリネット、バリトンサックスが音を伸ばすが、明らかにピッチが合っていない。先生が手を上げる。

「四人でちゃんと合わせたのか?」

 沈黙。四人は僕の後ろにいるから表情は見えない。

「外で合わせて来い。次、中音」

 中音というのは、うちの部活独自の呼び方かもしれないが、ホルン、ユーフォニアム、トロンボーン、テナーサックスのことだ。人数が多いからすぐにはピッチも音色も合わない。

「もっと周りの音をよく聴いて。もう一度」

 中音のチューニング音は、ピアノの真ん中のドより一音下の実音シのフラットの音だ。この音域の音は、強奏すると結構な威圧感がある。

「もう一度」

 ようやくみんなの音が互いに馴染み始める。

「オーケー。次、高音」

 僕は楽器を構えてクラリネットの基準音を聴く。息を吸って、ソの音を出す。そんなにずれてはいないはずだ。

「トランペットとフルート、少し音が浮いてる。もう一度」

 もう一度、実音シのフラットの高音が教室内に響く。僕の耳には割と合っているように聞こえる。

「オーケー。低音が戻ってきたらもう一度全体で合わせる」


 低音の四人が戻ってきてチューニングが終わると、『ハンティンドン・セレブレーション』を頭から合わせる。高橋先生は初回の合奏では必ずいきなりイン・テンポでタクトを振る。木管のトリルと中音のファンファーレで曲は華々しく始まる。フルートとクラリネットに音階を上下する速いフレーズが出たあと、低音とタンバリンの短く弾むリズミカルな刻みに乗って、僕たちは気持ちよくメロディを吹く。しばらく多幸感に満ちたスパークの時間が続く。ひとしきり盛り上がりを作って、変ホ長調からハ長調(正確にはCのミクソリディアンだろうか)に転調したところで先生は手を上げる。

「今日はここまでの部分を合わせる」と言って、先生はスコアを閉じて手に持ち、表紙をしげしげと眺める。そして僕たちの方を向いて言う。

「畑中、『セレブレーション』の意味は」

「…わかりません」

「じゃあ宮下はどうだ」

「わかりません」

「三池」

「わかりません」

「古谷」

「…わかりません」

「低音は全滅か。パーカッションはどうだ? 荒川」

「『祝賀』です」

「よろしい。この『ハンティンドン・セレブレーション』という曲は、イギリスにあるハンティンドンという町のコンサート・バンドの創立十周年を祝賀するために書かれた曲だ。祝賀の雰囲気を出すにあたっては、絶対に音楽の流れが重くならないように注意しなければならない。この曲では特に中間部で流れが滞りがちだから気をつけるように、と今後も口を酸っぱくして言うことになる」


 それから先生は、十小節ずつくらいに曲を区切り、さらに伴奏とメロディなど、役割別にパートを分けてそれぞれの演奏を細かくチェックしていく。譜読み段階での音程やリズムの間違いを正し、アーティキュレーションを厳しく揃える。この段階は指定のテンポよりも少し遅いテンポで行われる。すべてのパートを確認したら、その十小節を全体で合わせる。最初は遅めのテンポで、次にイン・テンポで。次の十小節でも同じように各パートを確認し、全体で合わせる。その繰り返しだ。

 七回これが繰り返されて、合奏は終わる。今日は低音が弾むような感じを出せていないということで終始槍玉に上がった。パーカッションでタンバリンを担当している荒川が、低音のリズム感向上練習に付き合うよう先生に命じられた(低音とタンバリンは、ズ、チャ、チャ、ズ、チャ、チャ、ズ、チャ、という刻みの「ズ」と「チャ」にそれぞれ対応している)。

 低音の四人と荒川が同じリズムを刻み続けるのを尻目に、他の部員は今日の合奏で先生に言われたところをパート練習で復習する。宮下を除くサックスパート三人の課題は、冒頭と転調直前のところのリズミカルなフレーズをいかに軽く演奏するかということだ。村岡先輩はいつも通りてきぱきと僕たちに指示を出す。三十分のパート練習は滞りなく行われる。

 五時半以降は個人練習の時間になる。下校時間の六時まで、僕はシンフォニエッタ第三番の終楽章を譜読みする。他の二曲はこの一週間で大体吹けるようになったが、シンフォニエッタはメイン曲というだけあって難所も多く(とはいえスパークの曲のサックスパートというのは、大体において他の木管楽器のパートより簡単に書かれている)、いくつかのパッセージはまだ遅いテンポでしか吹くことができない。


 高一何人かで固まって帰る。僕の家は学校からだと最寄駅とは逆方面になるので、その近くに住んでいる人だけだ。宮下が言う。

「あー、結局アンコンの曲全然見れなかったなあ。とりあえず帰ったら音源聴こうっと」

「そっか、宮下と安田はアンコンに出るんだもんね。頑張ってね」と畑中。


 僕と宮下とは本当に近所に住んでいるので、途中からは二人きりになる。

「安田くんは知ってた? あの曲」

「知ってたよ。サックス四重奏でも取り上げられることの多い曲だからね」

「そうなんだ。私本当に音楽のこと何も知らないな」

 僕は黙っている。

「ねえ、何かフォローはないの? でも君の演奏は素敵だよ、とかさ」

 僕は黙っている。宮下はため息をつく。

「まあ安田くんだからね、しょうがないよ、許してあげる」

 しばらく二人で黙って並んで歩く。

「じゃあまた明日」と、宮下の家の前で僕たちは別れる。


 夕食のあと、部屋で宿題をしていると、携帯電話に着信がある。村岡先輩だ。

「もしもし」

「もしもし、村岡です。今大丈夫?」

「はい」

「今度の日曜は空いてる?」

「空いてます。どうしたんですか?」

「ソプラノサックスを選ぶのに付き合ってほしいの。駅前の楽器屋で」

「まだ買ってなかったんですね」

「うん」

「いいですよ。何時に行けばいいですか?」

「開店時間の十時に店前集合で」

「わかりました。でもわざわざ電話しなくても、ラインでよかったんじゃないですか?」

「大事な用件だから。それに私ラインってあんまり好きじゃないの」

「そうですか」

 沈黙。

「じゃあまた明日。おやすみなさい」と村岡先輩。

「おやすみなさい」と僕。

 電話が切れる。

 なんだかどきどきする。先輩と二人で休日に会うんだから、実質デートじゃない? とか思ってしまう自分がいる。落ち着け。落ち着け自分。

 深呼吸しているとまた電話が鳴る。村岡先輩だ。

「もしもし私。一つ言い忘れたことがあった」

「何ですか」

「私の父も同行する。高校生が何十万もの大金を持つわけにはいかないからね」

「そうですか。わかりました」

「じゃあおやすみ」

「おやすみなさい」

 デートじゃなかった。

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