第二話 ル・トンボー・ドゥ・クープラン

 授業が終わると、いつものように土屋と連れ立って音楽室に向かう。僕たち二人の間には普段あまり会話というものがない。別に仲が悪いわけではないのだが、話すほどのこともないというか。とにかく無言で並んで歩く。

 音楽室には十五人くらいの部員が来ていて、各自音出しをしている。全員が揃うのは大体クラス教室の掃除などが終わった三時二十分くらいだ。合奏練習は三時半に始まる。

 ピアノのところで村岡先輩と宮下が何かを話している。村岡先輩は僕が来たのに気付いて手招きをする。僕がそちらに行くと、村岡先輩は楽器の音に負けないように少し声を張って言う。

「サックスパート全員に関係する話だから、近藤が来たら楽器庫で四人で話そう。それまで各自音出し」

 僕と宮下は「はい」と返事をして、楽器庫に楽器を取りに行く。

「大事な話って、やっぱりあれかな、アンコンかな」と弾むような声で宮下が言う。

「多分そうだろうね」と僕は答える。

「ねえ、安田くんはわくわくしないの? アンコンだよ? 私たちのサックス四重奏だよ?」

「僕だってわくわくしないわけじゃないよ。ただ、感情が人より少し表に出にくいだけなんだ」

「ふうん」と言って宮下は物珍しそうに僕を見る。「中学のころから思ってたけど、安田くんってやっぱりちょっと変わってるよね」

 僕は何も言わずアルトサックスを棚から下ろす。

 サックスパートは全部で四人。アルトが村岡先輩と僕、テナーが近藤先輩、バリトンが宮下だ。うちの部員は現在三十人で、これは吹奏楽の標準編成を最小限作れるという人数だから、サックスパートは合奏時には全員が違うパートを担当するようになっている。つまり村岡先輩がアルトサックス一番で僕がアルトサックス二番。人数が少ないと個々人の責任が重くて大変だけれど、自分だけのパートが与えられているというのはスリリングで面白いと僕は思っている。それにサックスパートが四人だと、アンサンブルコンテスト(これを略してアンコンという)に出るときも誰が出るかでもめる必要がない。素直に四重奏で出ればいいのだから。

 日課のロングトーンが終わったあたりで近藤先輩がやってくる。村岡先輩はつかつかと歩いていって、近藤先輩の耳元で「楽器庫に来て」と言う。離れている僕たちにも聞こえるくらいの大声だ。近藤先輩は顔をしかめてうなずく。そして村岡先輩が扉から出て行くと、近藤先輩もかばんを部屋の隅に置いて音楽室を後にする。僕と宮下も楽器を持って楽器庫に行く。

「今日も遅かったのね。あれだけ早く来るように言ったのに」

「しょうがないだろ。今日は掃除当番だったんだよ」

 先輩二人はいつもと同じように生産性のない会話をしている。

「二人とも座って。今からサックスパートのみんなで大事な話をします」

 村岡先輩はいかにもパートリーダーらしく堂々と宣言する。

「みんな、私たちの部活が毎年アンサンブルコンテストに出場しているのは知ってるよね」

 僕たちはうなずく。

「夏のコンクールと違って、アンサンブルコンテストは一グループ八名以下の編成で一団体につき二グループまでだから、部員の全員が出られるわけじゃない。私たちの部活では、毎年編成を変えてなるべく多くの人がアンコンに出られるようにしているけれど、それでも出たくて出られない人は何人もいる。まずそのことは覚えておいて」

 そこで村岡先輩は一旦間を置いて、軽く息を吸う。そして続ける。

「アンサンブルの編成は顧問の高橋先生が決める。今年度はサックス四重奏と金管八重奏で出ることになった。それが第一の決定事項」

 村岡先輩は話を止めて僕たち三人の顔をぐるりと見回す。

「サックスパートは四人しかいないから、もちろんこのメンバーで出ることになる。コンテスト出場に不都合のある人はいる?」

 沈黙はノーのサインだ。

「それでは第二の決定事項。演奏曲は高橋先生と私で話し合って決めました。今から楽譜を配ります」

 僕は唾を飲み込む。多分宮下も同じように唾を飲み込んだはずだ。

 村岡先輩はかばんから楽譜を取り出し、パート譜をとんとん、と膝の上で揃えてから一部ずつ僕たちに配る。僕の楽譜には「Saxophone alto」と書いてある。そして曲名は「Le Tombeau de Couperin」。

「レ、トン、ビュー、デ、カウ、ペ、リン?」と宮下。

「ル・トンボー・ドゥ・クープラン。フランス語ね。日本語に訳すと『クープランの墓』」と村岡先輩。

「へえ、フランス語。あ、ラヴェルの曲なんですね。でも何なんですか、『クープランの墓』って」

「クープランという人はバロック時代を代表するフランスの作曲家で、ラヴェルはクープランをオマージュしてこの曲を書いた。六曲からなる組曲で、バロック風の枠組みの中でラヴェルの音楽性が自由に羽ばたいている、というところがこの曲の一般的な説明ね」

「なるほど。でも、クープランはわかりましたけど、『墓』って何なんですか『墓』って」

「トンボーを直訳すると墓。私はそれ以上は知らない」と村岡先輩は少し困った様子で言う。

「トンボーっていうのは、故人を追悼する器楽曲のジャンル名でもあるんだよ。バロック時代のフランス音楽にそういう形式が生まれた」と近藤先輩が口を挟む。

「それでラヴェルは、実際にはクープランを偲んだわけではなくて、各曲は第一次世界大戦で戦死した友人一人ひとりの思い出に捧げられている。それぐらいは調べなかったのか?」

「私のリサーチ不足だったわね」と村岡先輩は苦い顔をする。そして話を続ける。

「この曲は元がピアノ曲で、この版の楽譜でサックス四重奏に編曲されているのは六曲のうちの四曲。アンサンブルコンテストの演奏時間は五分だから、一曲目のプレリュードと四曲目のリゴドンを続けて演奏します。ウェブで過去の団体の演奏を聴いてみたけど、リピートを省略すればちょうどいいくらいの時間に収まるはず」

「あの、どうしてこの曲にしたんですか」と僕は尋ねてみる。

 村岡先輩は僕をじっと見つめながら少しのあいだ黙っている。そして目をそらす。

「私がこの曲を好きだから。高橋先生も、私たちの技量に見合っているだろうって」

「パートメンバーの意見を聞いておくっていう発想はなかったわけ?」と近藤先輩が言う。いつになく冷たい口調だ。

「あなたに聞いてもどうせわけのわからない曲ばっかり挙げてきて参考にならないと思ったからね」と村岡先輩もやり返す。気まずい沈黙。

「この県は地区予選がないから、私たちはまず十二月下旬の県大会に出場することになる。それまでの二か月半で、完璧な演奏に仕上げる。いいね?」

「はい」と僕たちは返事をする。近藤先輩もしぶしぶ声を出す。

「そうだ、大事なことを言い忘れてた。このサックス四重奏の編成は、ソプラノ、アルト、テナー、バリトン。みんなにはいつも通りのパートを吹いてもらうけれど、私はソプラノサックスに持ち替えます」

「ソプラノ?」と宮下が裏返った声で叫ぶ。

「この部にソプラノなんてあったんですか?」と僕。

「ない。だから曲決めのときにも、高橋先生はアルト二本の編成にしたらどうかって言ったんだけど、サックス四重奏はやっぱりソプラノが入ったほうが音域も表現の幅も広がるから、そっちの方がいいと私は思ってそう言ったわけ。そしたら先生は、君が自分で楽器を用意できるならいいよ、って」

「金持ちはいいよなあ。ぽんぽん楽器が買えて」とつぶやく近藤先輩を村岡先輩がにらみつける。

「とにかく、そういうことだから、今週中に二曲の譜読みを済ませておいて。あと、高橋先生が用意してくれた参考音源のCDがあるから、これを順番にみんなに貸し出すことにします。CDは三枚、ピアノ版、サックス四重奏版、それからラヴェル自身が編曲したオーケストラ版があるの」

 そう言って、村岡先輩はかばんからCDの入った袋を出して、CDを一枚ずつ僕たちに配る。宮下はピアノ版、近藤先輩はオーケストラ版、僕はサックス四重奏版を受け取る。

「みんなパソコンとプレーヤーは持っているだろうから、一日ずつのローテーションで、三日で全員に行きわたるようにしてね」

「はい」

「今日のミーティングはこれで終わり。さあ、早くチューニングして合奏の準備をしなきゃ」

 僕たちは立ち上がる。ちょっとした立ちくらみのようなものを僕は感じる。立てないほどではない。ただちょっと、気持ちが現実に追いつかない感じだ。『クープランの墓』。ラヴェルは僕も好きだが、うちの部活はコンクールでは吹奏楽オリジナル曲にこだわるし、演奏する機会はないと思っていた。それがこんな形で実現するとは。僕は自分の幸運を噛み締める。

「安田くんはもう音出しは済んだでしょ? 二人でチューニングしよう」

 村岡先輩と僕は廊下の端の方に行く。村岡先輩が基準となるソの音を伸ばす。僕も後から同じ音を伸ばす。少しピッチのずれがある。

「安田くん、ちょっと高いね。耳で合わせられる?」

「やってみます」

 もう一度合わせると、今度はきれいにピッチが合う。他にもいつもピッチが気になる音をいくつか合わせる。

「それじゃあ音楽室に戻ろう。今日はだいぶ遅れちゃったな」

 村岡先輩はいつものつかつかとした足取りで扉に向かう。僕はその背中を追いながら、「あの、先輩」と声をかける。先輩が振り向く。

「僕も好きですよ、ラヴェル」

「それはよかった」

 先輩はにっこり微笑む。そしてすぐに前に向き直って扉を開け、音楽室に入っていく。僕は村岡先輩のそんな綺麗な笑顔を初めて見た気がして、何秒かその場で固まってしまう。でもすぐに我に返る。

 村岡先輩は素敵な女性で、僕はたまのふとした瞬間にどきどきを感じてしまうことがあるが、僕は別に恋愛をするためにこの部活に来ているわけではないし、村岡先輩だって僕のことなんか恋愛対象としては目にも入っていないだろう。というかそもそも、この部活には部内恋愛禁止のルールこそないものの、僕の知る限り部内でカップルができたことはない。暗黙の了解というやつだろうか。みんな音楽の方が大事だと思っているのだ。

 僕は首を振って、雑念を頭から追い払う。今は合奏の時間だ。集中集中。

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