プレリュード/リゴドン
僕凸
第一話 朝練の風景
楽器に季節を当てはめるなら、サックスはきっと秋だろう。サックス四重奏の演奏を聴いていると特にそう感じる。例えば今聴いているデザンクロの第二楽章。四本のサックスそれぞれが奏でるメロディがもぞもぞとうごめきながら絡み合っていくさまは、ひらひらと舞う落ち葉をスローモーションで見ているようでもあるし、高い空の上で刻々と形を変える雲の姿を思わせもする。サックスの音色は、人の声に近いとか、エロいとか言われるけれど、僕にとっては何よりも秋を感じさせるものだ。
今は十月の始めで、音楽は季節にぴったり合っている。色づき始めた街路樹と澄み切った空。落ち葉や雲は今のところ見えないけれど、秋は確かにやってきている。肌にあたる空気のかすかな冷たさがそれを教えてくれる。デザンクロの第二楽章は秋の気配そのものとして僕の耳に響く。
最後の第三楽章が終わるところで学校に着く。家から学校までは歩いて十五分で、デザンクロとシュミットのサックス四重奏曲がどちらもちょうどそのくらいの長さだから、気分に合わせて好きな方をプレーヤーで聴きながら登校することが多い。ここ数日はずっとデザンクロだ。本当に良い曲というのは、いくら聴いても飽きることがない。イヤホンをしまいながら、第三楽章の弾むようなリズムの余韻に乗って、僕は軽い足取りで下駄箱に向かう。
音楽室は校舎の最上階にある。階段を上っていくと、エチュードを吹くアルトサックスの音が聞こえてくる。村岡先輩だ。ラクールのエチュードの、二十三番だったか二十五番だったか、とにかく八分の六拍子の本来は軽やかな曲なのだが、先輩はゆっくりのテンポで慎重に指使いをさらっているようだ。僕は何回も聴いたそのメロディを耳で追いながら、音楽室の隣にある楽器庫から自分の楽器を出す。それから扉を開けて音楽室に入ると、先輩は演奏を止めずにちらりとこちらに目をやる。いつも通りピアノのそばに立って練習している。
ケースを机の上に置いて開ける。もう十年くらい使われているらしいアルトサックスの管体はだいぶくすんでいるが、手入れが行き届いているおかげで、音は見た目ほど悪くない。少なくとも今の僕には充分に良い楽器だと言える。リードをケースから出して口にくわえ、楽器を組み立てる。やっと一曲を吹き終わった村岡先輩が「おはよう」と声をかけてくる。僕も「おはようございます」と返事をする。それ以上の会話はない。先輩はエチュードのページをめくり、次の曲の譜面を眺めている。僕は組み立て終わった楽器にリードを取り付け、中音域で何回かロングトーンを出してみる。半音階でゆっくり低音域から高音域まで上がって、また下がる。悪くはない。大体いつも通りの感触だ。村岡先輩は次の曲を吹き始めている。僕もいつものスケール練習に取りかかる。朝練では一日に二つのキーのスケールをいろんなテンポでさらう。全部で十二のメジャーキーがあるから、月曜から土曜までの一週間でちょうど一周する。日曜は部活は休みだ。
練習しているうちに他の部員たちが何人かやってくる。うちの部活では朝練はやりたい人が自主的にやることになっている。日によって来たり来なかったりする人もいて、多いときで十人といったところだろうか。
「おはよう。英語の宿題やった?」
クラスメイトでもあるトロンボーンの土屋が尋ねる。
「やったよ。それでお前はまた写させてほしいとか言うんじゃないだろうな」
「面目ない」
「昼休みにジュース一本な」
「ちょっとそこの二人、宿題は自分でやらないと意味ないよ」
フルートの小野先輩が口を挟む。
「わかってまーす」
土屋は僕からノートを受け取りながらまったく心のこもっていない返事をする。
「またゲームで徹夜?」と僕が尋ねると、あくびをしながら「まあね」と答える。
土屋はいつもこんな感じだ。こいつが朝練に来るのは大体僕にろくでもない用事があるときで、絶対に楽器を吹くためではない。僕はスケール練習を続ける。
朝礼の十分前になると、僕たちは楽器を片付け始める。土屋はまだ必死で英語のノートを書き写している。片付けの必要がないパーカッションの荒川はドラムパッドでパラディドルを叩いている。そのうちに片付け終わった人から音楽室を出ていく。
「ほら、もう行くぞ」
「待てよ、あと三問なんだよ」
土屋はノートから顔を上げずに言う。僕は仕方なく隣で待っている。五分前を告げる予鈴が鳴る。
「終わった! よし行こう」
僕たちは音楽室のドアを開けると、楽器庫から出てきた村岡先輩の後ろについて階段を下りる。踊り場のところで村岡先輩が振り返って僕の方を向く。
「そうだ、今日の放課後大事な話があるから、遅れないようにね」
「お、愛の告白か~?」と土屋が茶化す。
「違うから」
先輩は面倒くさそうに言って階段を駆け下りていく。大事な話、というのは、多分あのことだろう。僕には見当がついている。土屋もうすうすわかってはいるはずだ。
「ノートありがとな、いつも助かるよ」
「そうやってわざとらしく感謝されてもちっとも嬉しくないね」
土屋は笑う。僕は何も言わずに早足で教室に向かう。同級生たちの騒がしい声を聞きながら、廊下を歩いていく。隣では土屋がまたあくびをしている。
僕たちのクラスは一年B組。この学校は各学年四十人のクラスが五つある。そんなに大きな町ではないから、中学からの知り合いも多い。
高校生になって半年が経つが、僕には中学生のころと比べて成長したという感じが未だに湧かない。小学校から中学校に上がったときもそうだった。年上の人は頼もしく見えるけれど、いざ自分がその年になってみると、ただ年齢がスライドしただけで中身は何も変わっていない。こうやって僕は頼りないまま大人になっていくのだろうか。
教室の扉を開ける。何人かがこちらを向いて「おはよう」と言う。僕も「おはよう」と返す。一日が始まる。
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