最終章 秦の愁天武 天に在って願わくば⑥
言葉なく、天剣が振り下ろされる。華仙人の花芯は、斉梁諱や褒姫のように、魂の存在は消えない。ただ、肉体が亡びるのみ。一瞬で蹴りはつく。
しかし、待てど、花芯の魂魄は現れなかった。
「……出て来ない?」
花芯の魂は動かない。まさかと系譜を開くと、花芯の名前は、天武の傍に現れていた。
銀河の星のように、数多の名前が飛び交っている。
在るはずのない現象に、香桜は言葉を失った。
花芯は、この時代に生きてはならぬ存在だ。その名前が系譜に現れた。
「それが、きみの答か、花芯」
無言で、花芯の体を抱き、陵墓の城壁を飛び越えた。指先でいたずらすると、扉は難なく開く。
ゆっくりと土を掘り起こし、設計が途中のままの陵墓に足を踏み入れた。
――なんだ、これは。
一瞬、足を止め、香桜は驚愕して、陵墓の中を見回した。
(幻か?)
太陽に照らされた咸陽があった。
それだけではない。天井には、北極星輝く星空、それに、美しい山に湖。湖には水鳥や鴨たちが水浴びをしており、光さんざめく中、一人の女性がいた。
河は美しく水面を光らせ、空は目映い宝玉を散らしたかのように、輝いている。
白銀の月はゆっくりと姿を消し、欠けた太陽が陽光を乱反射させる。
香桜は思わず手で、光を遮った。朗々とした声が世界を切り裂くように響いた。
「朝議を始める!」
なんだ、朝議の最中か。
(俺は、朝議とやらが嫌いだったな……)
重臣たちがずらりと並んでいる――と瞬間、我に返った。
其処に在るのは、毒の充満する土くれたちだけだ。
気がつけば、動かぬ大量の兵馬傭に囲まれていた。
世界が生きたように見えたのは、幻であろう。数千の土人形が整然と並んでいる図は異様だった。
それでも、美しい風景は今、確かにあった。天界よりも美しい、人々が笑い合っている風景が、確かにあった。
花芯の亡骸を抱いて、ゆっくりと東の鬼道を下る。まるで街だと思いながら、土くれを歩き、大きな空洞に出た。
また光が漏れている。
――光など、有るはずがない。
それでも、陵墓の中は光満ち溢れていた。人々の笑い声が聞こえる。ふと、笛を構えた人形を見つけ、香桜はようやく理解した。
――天武が欲し、作りたかったものは、地下宮殿なんて段階ではない。
咸陽――強いては世界そのものだ。
あまりに、この世界が好きで、愛していたから、天武はもう一度、すべてをやろうとしたのだろう。そのくらい、何もかもを愛していた証拠が、まさにこれだ。
歯を食い縛り、自らを悪鬼に落とすのも厭わぬほど、愁天武はこの世界を愛していた。
ただ、天武は知らなかった。
(その感情をどう、伝えるか、さぞかし苦しかったろうな……同情するよ)
見れば、札を並べた盆を持つ皇宮事務、優雅に空に浮かぶ仙女、ふっくらとした肉体美の美女に、吊り目の武将が並べられていた。近くの湖を象った水銀の河には、妓女がいる。
その隣にいる笛吹きを見つけ、香桜は微笑んだ。
遠くには、河を眺める雄々しき武将、更に子供を連れた貴妃、今にも襲いかかってきそうな兵馬もある。夜空に、河川。山麓に、風。
――共に生きたもの、愛おしいものすべてを死の世界に持ってゆこう。
天武はそう思ったに違いない。仙人になれず、世界への未練があるなら、すべてやり直せばいい。地獄なら天国にすれば良いと。
――死しても幸せが続くように願う。それは永遠になれない人の見果てぬ夢だ。
中央に、大きな台座があり、石柩がある。香桜は歩み寄り、抱いていた花芯を下ろした。
「……ここに、置いてゆくよ、おまえの欲しがっていたものは、ここにある」
花芯をそっと横に並べ、香桜は二度と開かないであろう柩を見つめた。
――おまえの勝ちだ、天武。花芯は魂魄までも、俺を拒絶した。龍の永遠を拒み、一瞬の愛を選んだ……永遠を拒む女は、俺の妻にはふさわしくない。
柩に手を掛け、幸せそうに眼を閉じている花芯を見つめ、天帝は眼を閉じる。
反対側に寄りかかって、系譜を開いた。
膨大な歴史を紡ぐ、妃嬪の系譜。人が人を作り、動かしてゆく。
歴史を作るのは女、動かすのは男である。
男と女が入り乱れ、生と死を織り上げつつ、歴史は、永遠に続くのだろう――。
――愁天武の名が、いよいよ銀河の闇に消えようとしている。
天武は、ずっと花芯が来るのを待っていたのだろうか。
乱暴に扉を抉じ開ける音が鼓膜を揺らした。
(やれやれ、妻を奪い返しても、尚、亡骸をも奪い、辱めねば気が済まないらしいな)
宮殿に火をつけたのは、恐らく庚氏だ。
だが、珠羽も、劉剥も、また、激動の時代の大切な駒だ。
「……おまえのことだ。自分の世界を汚されたくないのだろう? 蛟龍、頼む」
香桜は蛟龍仙人貴人を呼んだ。
腐り蛇により、大地は腐葉土と化し、地中深くに、天武の台座と、花芯は深く沈んで行き、やがて見えなくなった。
充分な深さに落とした後、天帝は上から柩と、一緒に眠る貴妃の姿を最後に一瞥した。
「これで、誰にも邪魔はされぬよ。天武、美しいこの世界を、はぐれた龍を、おまえは精一杯、愛してくれた。天帝として、礼を言おう。だから、おまえも言えばいい」
――ありがとう。
系譜の名前の消滅と共に。とうとう言えなかった愁天武の言葉が、あの流暢な声で香桜と重なって、陵墓に静かに響いて消えた気がした。
外では、戦渦の雄叫びが響き渡っている。
大量の兵の足音の大地の震動と共に、新しい時代の胎動と、消える天武の最期の想いを香桜は系譜から、確かに受け取った。
――私は、それでも、精一杯に生きたのだ。未来は己で拓けた――と。
――――――――妃嬪の系譜 了
◆妃嬪の系譜―古代群雄割拠國戦記― 天秤アリエス @Drimica
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