第八十八回 ……ごめんね。


 とにかく今はここ、千佳ちかがいる総合病院。

 ここに来る前に、可奈かなが言っていたことを語らなければならない。



 ――千佳に何があったのかを。


 つまり初めて訪れた千佳のお家、そこで可奈が見たもの。それは、

 剥がれかけの幾つかの貼紙、……インターホンもなくて、でも辛うじてあった薄い文字の『星野ほしの』という表札、開いていたドア……住所は此処のはずで、いくら呼んでも返事はない。いけないこととは思っても奥へ奥へと、水滴? 水の音だけが聞こえてくる。


 お風呂場から、

 開ける硝子戸、……日の当たり少ない薄暗い中に於いても、きっと可奈にとっては、今まで経験したことのない光景だったのだろう。この上ない悲鳴を上げた。


 ……赤く染まる浴室。一糸まとわぬ姿で眠る千佳、左の手首からは血……血が流れ続ける。その近く……タイルの上には、剃刀が落ちていた。あと……あとは、信じたくないことだけど、遺書らしきものもあった……そうだ。だけど、



 ――だけど、もう遺書ではない。


 それは、その一言は、千佳の肉声として、ここに言葉として存在する。


「……ごめんね」

 と、息とともにかかる一言。……温かな涙の雫、千佳の体温も感じる。


 良かった。

 本当に良かった。――死ななくて、千佳が生きていて本当に良かった。


 キム・ウメダさんのお陰だ。


 偶然の成せる技もあったが、千佳と同じアパートの住人、隣人さんでもあった。


 本日は喫茶『海里マリン』が定休日。……そのこともあり、たまたま部屋にいた。

 そして可奈の悲鳴に反応して、駆けつけて、救急車を呼んでくれたからだ。



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