ショタ=精神安定剤


 話は一段落した、と言わんばかりの雰囲気が漂う。

 だから、私は油断した。油断して、気を緩めて、息を吐いてしまった。瞬間、だ。


「さあ、では、このようなところでの立ち話もなんですから――村へと参りましょうか」

「……っひ、ぃ」


 咄嗟に絶叫しなかった私を、誰か褒めてほしい。それほどまでに、ただ、暴力的なまでに思考が揺れた。だって。


 手を。

 手を掴まれ、た。鳥肌が立つ。脊椎に冷たい杭を打ち込まれたかのような悍気が立った。自由な方の片手を強く握り込んで、衝動的な悲鳴と吐き気をやり過ごす。

 嫌だ。嫌だ。やめて。怖い。嫌い。離して。許して。ごめんなさい。嫌い嫌いきらいきらい。……気持ち悪い。虫唾が走る。吐き気がする。溝底の汚泥をはらわたに押し込まれてそのままかき混ぜられたかのような。指先からじわじわと毒虫に食まれているような。嫌悪感。嫌悪。憎悪? 鳥肌。嫌だ。気持ち悪い。だけど。


 振り払うのは駄目だ。と、理性が叫ぶ。振り払いでもしないと、正気を保てない。と、感情が軋む。視界が眩む。軋んで揺らいで歪んで眩んで、喉奥に押し込んだ地獄がそのまま吐き出されてしまいそうで。


(だって)


 男が、不思議そうな目で私を見た。それが見えた。笑顔は作れない。返答は返せない。だって、倒れないだけで精一杯なの。


(大人の男の人は、怖い)


 父がいた。いや、きっと、本当はそう呼べる人なんていなかったんだろう。最初からいなかった。誰かが語る家族の形なんて知らなかった私には、そんな優しい温度の言葉はなかった。

 大きな手は、私を殴る手だった。強い力は、いつも、私では抵抗できない強さだった。だから怖いんだろ。嫌いなんだろ。嫌悪に隠したのは、本当は。……やだ。忘れた。忘れていたい。忘れていいと、あの人は言った。言ってくれた。だから、いらない。そんなものは忘れてしまえ。忘れてしまえる。だろ?

 優しい男の人は。知らない。怖い記憶も知らない。神父様しか知らない。だから。それ以外の、全部、全部、全部。

 愛されなかった、可哀想な女の子と一緒に、殺しただろ。小さな何も知らない守られるだけの無力で無価値でただ愚かな子供と一緒に。

 全部、嫌悪に閉じ込めて、生きてきたはずでしょう。


 ――その髪は誰に似た。その瞳は誰に似た。その顔立ちは誰に似たんだ。なあ、俺じゃないよな。アイツでもないよな。なら誰だ。誰だよ。お前は誰だ。俺の子供を返せよ! なあ!!


 耳鳴りのように、あの声を思い出す。


 ――あなたなんて、産まれてこなければ。


 思い出す。度に。ただ、忘れてしまえと声がする。忘れていいと。もういらないと。だって過去に戻ることなんてないんだから。だってもう二度とあの人達には会わないんだから。

 手が痛い。痛くない。今はどこも痛くないはずなのに、心臓が軋む。怖い。怖いのに、ここには私の家族はいない。ひどい話だ、と笑いたくて、笑えなくて。視界がまた滲んでいく。


 怖いよ。助けてよ。だってもう大丈夫なんでしょ。だってもう、何も、怖いものはないんでしょ。守るって言ったのに。どこ。どこにいるの。どこにもいないじゃない。嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき。

 家族って、いうのは。

 どんな時でも。

 一緒に、いるものじゃ、なかったの。


 神父様、シスター、どこ。助けて。寂しい。怖い。苦しい。怖い。助けて。助けて、たすけて。

 ……たすけて、なはと。


「――ご主人様」


 恐慌状態と言ってもおかしくないほどの混乱に陥っていた私を現実に引き戻したのは、ひどく辛そうな、それでも美しい声だった。血が滲むほどに握り込んでいた手を、優しく包まれる。でも、手の大きさが違うからちゃんと包み込めてなくて。

 ……えっ。思わず振り返った。なにそれ、可愛い。私の握り拳を包み込めない大きさの手のひら! 可愛い!! 一気におっさんのことが吹っ飛んだ。わぁい! ショタは私の心の特効薬だからね!


 それはそうと、ご主人様呼びが地味にメンタルに来る。一周回って新しい趣味に目覚めそうでやだ……! こんな趣味に目覚めたら、私はもう死ぬしかない。


「ナハトは、どうしたらいいでしょう」


 何その一人称。……何その一人称!!? 可愛いにもほどがあるんだけど!? 唐突に可愛いの暴力振るわないで!!? 感情がジェットコースターよりも高低してもはやマントルぶっちって大気圏突破の域。


「えっ? かわ……っ。……すみません。この子の分も、部屋と食事を頼んでもよろしいですか?」


 質問をしながら、失礼にならないようにそっとおっさんの手を解いた。後で念入りに洗おう。

 そんなことを考えていると、おっさんは実に嫌な感じの笑みを浮かべてみせた。


「申し訳ございません! 実は、客人を招き入れることができる部屋は一つしかなく……そちらの子供を泊めることはできないのです」


 そう言ってから、小さく。おっさんは、独り言のように言葉を落とした。


「……薄汚い獣ごときが屋敷に踏み入るなど」


 おっ、聞こえたぞ? おっさんってば罪が重なっていくけど、来世でゴキブリとかにならないといいね。念入りに祈っておくね。地獄に落ちろって。輪廻転生とかすんなよ。永遠に苦しめ。

 先程の私の怒りが忘れられたのか、そもそも響いてなかったのか、根を張った価値観は簡単には揺らがないのか。他の人達も、小さく忍び笑いを零している。うーん、全員地獄行き。むしろ私が落とす。


 怒りのあまりに顔を歪めそうになっていると、ナハトが小さく私の手を引いた。一瞬で怒りが消える。やだなぁ! そんなに心配そうな顔しないでくださいよ!!

 心配しているのが、私のことか、それとも……彼自身の先のことか。知らないけど。


「……ああ、はい。そうですか。では、私と同じ部屋に泊めさせます」

「ぅえ?」


 あっ! ナハトの許可を得てなかった!! 彼の表情を伺う。絶句していた。あぁあああ……!! 衝動的に口を開くから! もう! この馬鹿!

 でも。ナハトが隣にいないのは非常にまずい。私のメンタルが、じゃなくて。……こいつらの目。ナハトを、蔑んで見下して呪うような瞳。私から離れたら、何をするのか分からない。何をされても、私は知覚できないところにいたら――怖い。駄目だ。想像だけでちょっと死にそう。ナハトに何かあったら、と思うだけで、心が千切れそうになる。


「そんな、御使い様にそのような……っ」

「あら、駄目? この子はできる限り側に置いておきたいのに。……もしそれが無理なら、ここには留まらずに去ることにしようかしら」


 首をゆっくりと傾げながら、呟く。すると、とたんにおっさんは顔色を変えた。


「……承知いたしました。では、同じ部屋にお泊りになられるということで!」

「ありがとうございます」


 わぁい話が早い。そんなに私を泊めたいのか。御使い様という存在がいまいち把握しきれていない私は、ただただこの扱いに戸惑うばかりだ。利用してるだろって? それはそれこれはこれ。

 そして。私が御使い様だと理解してなお態度が変わらな――訂正。二人きりのときは態度を変えないと約束してくれたナハトは、とてもいい子だ。好き。一秒一秒好感度が上がっていく……このままだと私はナハトのことを溺愛してしまうかもしれない。すでにしてた。ならいいか。いいか?


 悩み始めた私を見て、おっさんは何かに気が付いたように顎を撫でた。下卑た視線が、私とナハトを捉える。


「しかし。なるほど。つまり、その子供は……」

「ご主人様!! ありがとうございます! このような矮小な身にも慈悲をくださるなんて、光栄の極みでございます!」


 ずずいっ、と。私の目の前に移動してきたナハトは、おっさんの言葉を遮って叫んだ。そこはかとなく焦ったような顔をしている。えっ。やっぱり嫌だった? ごめんね。

 顔を引き攣らせた私を見上げ、私だけに聞こえるように……もしくは、ショタコンである私の耳にだけ入るように。ナハトは低く小さく呟いた。


「……ちょっと、後で、話がある」


 ごめんね!!


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ショタコンなんだけどなんだか異世界で崇められそうで怖い とと @pico

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