プロローグ

 マネージャーから電話があり、体を拭く手を止めて通話する。先にベッドに入っていた女はそわそわと落ち着かない様子で宍上の通話に聞き耳を立てていた。

「誰から? なんて?」

「マネージャーさんです。退所届が無事受理されたそうで」

 もう一度、タオルで髪の水気をしっかり拭き取ってからベッドに入る。女があからさまにほっとした表情をしているのは、自分以外に“女の影”がありはしないかと不安だったからか。

(恋人はあなただけですよ。少なくとも今夜に限っては)

 どれだけガールフレンドを増やしたところで、一夜を共にできるのは一人だけだ。もちろん、そんな無粋なことを言って、夢見る乙女を幻滅させはしないが。

 宍上の浮き名は知れ渡っているはずなのに、どうしてなのか彼の前に現れる女は、「自分こそは彼の最愛のパートナーになれる」と信じて疑わない。逢瀬を重ねる、肌を触れ合わせる。宍上にとって、そんなの慈善活動をしているのと変わらないのだが。

「でも、良かったの?」

 宍上の二の腕に指を這わせながら、女が訊ねる。

「何がです?」

「だって、事務所やめたらこれから大変でしょう? キミドリプロみたいな大手を抜けたら。今までみたいに厄介なファンか来たとき、自分で対処しなきゃいけなくなるし。こないだみたいなストーカー騒ぎが起きたら大変でしょ」

 ストーカー騒ぎというのは、先日事務所で包丁を持った女が暴れた一件のことだ。事務所の意向で真相は伏せられているが、実際にはストーカーではなくキミドリプロ所属の女優が事件を起こしたのだ。……その女優の乱心も宍上の差し金であるのは言うまでもないが。

「心配いりませんよ。完全にフリーになるわけじゃなくて、劇団に移籍するんですから。劇団関係のことなら大概は劇団の人がなんとかしてくれます」

「本当? 紅蓮くんの負担が増えるわけじゃないのね?」

 そんなふうに心配する声の中に、“宍上紅蓮の恋人”として彼を気遣う自分に酔っている色が混じっていることに気づかぬ宍上ではない。

「本当に可愛いですね、あなた」

「え? いきなり何よ、もう……」

 女の手を取り、自分の顔に擦り寄せると、女は照れくさそうに笑った。本当に単純だ。無意識に自分が優位だと信じこめる、自惚れと傲慢。少し甘やかしただけでどんどん増長していくそれを観察することが、最近の宍上の楽しみだった。

(さて、彼女とはいつ手を切ろうかな)

 ここまで熟せば、あとは腐るだけ。宍上との関係を断たれたとき、知らず知らずのうちに堕落した彼女は、はたしてどんな醜態を見せてくれるだろう。あの女優よりも面白いものになるといいのだが。

 期待に胸を高鳴らせながら、宍上は女をあやした。




 人間として二十二年、役者として二十年生きてきた宍上にとって、人間は二種類に分けられる。

 愛玩する者と、それに奉仕する者。すなわち搾取者と奴隷だ。

 たとえば、見た目が綺麗な者。あるいは絵が描けるとか歌が上手いとか、そういった“特別な何か”を持っている者は、すべからくそれを世間のために使うことを義務づけられる。

 それを食らうのが何も持たない人間達だ。何も得ずに生まれてしまった自分の人生を慰めるため、なんの疑問も持たず、当然の権利のように、あればあるだけ食い続ける。長所や特技の味に飽きれば、ゴシップやスキャンダルを引きずり出し、汚い不味いと言いながら食らう。そして骨の髄までしゃぶりつくしたら、ころりとそれを忘れ、また新たな生贄が現れるのを待つ……。

 宍上に言わせれば、芸能界とはそんな野獣けだもの達をなだめすかすため、志願奴隷を集めては売りさばく奴隷市場なのだ。

 たまたま見目良く生まれた宍上は、無自覚な野獣の一人であった母親により、“よかれと思って”幼いうちから芸能界に入れられた。その結果自分に群がるファン達がまるでよだれを垂らしたハイエナの群れのようにしか見えなくなってしまった。

 自分の顔も、歌も、演技も、肉体も、友人も、恋人も、学校での成績も、家の住所も、行きつけの喫茶店も、友達とのメッセージのやりとりも、母親の職業も、次々と変わる母親の配偶者も、ありとあらゆる情報が引きずり出され、食い物にされる。それが“理不尽”だと気付く頃には、宍上の人生は食い尽くされきっていた。

 選択の余地はなかった。そんな自由は、とっくのとうに食われてしまっていた。だから精々、周りの人にまで累が及ばぬよう、“美味しい味”であり続けることしかできることはなかった。“爽やかな好青年”も、“女たらしのプレイボーイ”も、すべて世間が求めた“味”にすぎない。


『――本当の自分って、いったいどんな人間だと思いますか?』


 俳優業をやってきて、数えきれないほどそんな質問をされた。普段なら適当に期待されている言葉を返すのが常だが、混じり気なしの本音を答えるならば。

「本当の僕なんてどこにもいませんよ。あなた方に食べられて、胃袋の中で溶かされてしまいました」


 そんな風にして“消化試合”を過ごすうちに、気づいたことがあった。


『やだ、やだ、捨てないで紅蓮君。あたしなんでもするから、“二番目”でもいいから』


『何か悪かったので言ってよ、ちゃんと直すから。だから、嫌いにならないで……』


 勝気でしっかり者だった彼女も、凛として芯の強い人だった恋人も、宍上と別れるときには一様に弱々しく、悪く言えばみっともなく惨めな姿をさらすのだ。初めのうちは女性とはそういうものなのだと思い込んでいたが、どんな相手でも、どんなシチュエーションで別れを告げても同様の反応を示されるのは明らかにおかしい。交際経験が十人を越えたあたりで、原因が自分にあると悟った。

 宍上紅蓮という食物は、どうやら成分に依存性物質を含んでいるらしい。

 期待通りに、希望を汲んだ対応をしていると、そのうち相手のほうの我慢がきかなくなってしまうようなのだ。宍上という“理想の彼氏”の白昼夢を見続けた結果、本来の現実を見られなくなってしまう。無理矢理目を覚まされたところで、夢の中で味わった幸せが忘れられなくなり、さえない現実に失望して堕落していく。そんなふうに破滅していった女を、宍上は何人も見てきた。

 ――ざまあ見ろ。

 宍上はいつからかそれに、ささやかな愉悦を覚えるようになっていた。

 自分自身はなんら倫理に反することはしていない。男として女と交際し、一定期間恋人として接し、ある程度経てば正統な順序を踏んで別れるだけだ。相手が勝手に駄目になっていくのを最前列の特等席で眺めることができる。

 自分の人生が多くの人によってめちゃくちゃにされたように、自分もまた、他人の人生を容易に壊すことができる。

 そう自覚したとき、宍上は怪物となった。




「ねえ、次行くところの劇団ってどこなの?」

 ひとしきり遊んだあと、ベッドから出てミネラルウォーターで喉を潤していると、ベッドで気怠げに横たわっていた女が訊いてきた。

「『テアトル・パピヨン』? 『イーグレット航空』? 『夢幻座』? あ、わかった、『マヨヒガ』とか?」

「まだ言えませんよ、守秘義務もあるので」

「えー?」

「冗談です。『ブルートループ』ってところですよ」

 有名劇団を次々に挙げていた女も、その名前には聞き馴染みがなかったのか怪訝な顔をした。

「初めて聞いた。新しく出来たところ?」

「設立三十年くらいだそうですよ。十年ほど前までは、それなりに名前が通ってたみたいですけど……最近だったら『寝台の蛹』とか『人魚鉢』とか、聞いたことありません?」

「全然知らない……」

 女からの反応が芳しくないのは予想できていた。過去はどうあれ、今はマイナーの零細劇団である。マネージャーや事務所からもひどく反対され、おかげで話を無理矢理通すため、ストーカー騒ぎを起こさなければならなかった。

「どうしてもね、会いたい人がいるんです」

 半ば一人言のように言ってから、女がぎょっとした表情になっているのに気づく。いけない、これではまるで恋でもしているかのように聞こえてしまうか。

「少し前に共演した、男の俳優さんですよ。凄く気が合って、尊敬できる人で。またこの人と共演したい、同じ舞台に立ってみたい、って思っていたら、止まらなくて」

「ふーん……

 女は面白くなさそうに唇を尖らせている。ああ、やはり嫉妬しているのか。仕方ない。宍上は女の機嫌をとるためにベッドに戻る。

「やだな、そんな顔しないでください。僕の恋人は、あなただけなんですから」

「もう、調子の良いことばっかり……」

 ふてくされた顔で甘えてくる女とじゃれつきながら、宍上は彼のことを考える。

 斎波正己と初めて出会ったのは一年ほど前のことだった。




「劇団ブルートループ所属の斎波正己です。本日はよろしくお願いします」

 音響機材もないのによく響く声と、はきはきと聞き取りやすい発音。舞台演劇出身者特有のこの喋り方は、宍上はあまり好きではない。

 『スマホ探偵クラウド』という連続ドラマに出演したときの思い出はほとんどない。テンプレートで作成されたようなありきたり筋書きに、視聴率を少しでも上げるために顔と知名度で揃えられたキャスト。つまりはまあ、宍上によく回ってくるつまらない仕事の一つでしかなかった。

 彼に出会うまでは。

「劇団員かあ。じゃあ、テレビは初めて?」

「そうですね。なにか至らぬところがあれば、ご指摘お願いします」

「まあまあ、そんな緊張しないで。もっと肩の力を抜いてさ」

「斎波くんってこないだあの舞台に出てたよね? 見たよ、『トランペッター』のクロード役!」

「ありがとうございます」

 マイナーな劇団に所属する舞台俳優。彼のプロフィールに興味を惹かれるものはないはずだったが、気づくと宍上は斎波の姿を目で追っていた。

 違和感、不信感……いや、それは親近感と呼ばれるものだったかもしれない。

「あなたが宍上さんですか。初めまして、よろしくお願いします」

 あちらこちらに挨拶をして回っていた斎波がついに宍上まできた。宍上は自分が奇妙な感情を抱いていることに戸惑いながら笑顔を作った。

「敬語はやめてください。年齢、そんなに変わらないじゃないですか」

「あなたこそ敬語を使っている。それに、経歴キャリアで言えばあなたは大先輩でしょう」

 子役時代の経歴を含めれば、確かに宍上の芸歴はそれなりに長い。だが……大人達の都合に振り回されただけの時間を年功序列に使う気にはとてもなれない。

「じゃあ、先輩としてお願いです。そんなにかしこまった態度はやめてください。“友達”にそんなふうにされたら、やりづらいです」

「む……」

 宍上演じる主人公の友人役。役柄に絡めた返しが予想外だったのか、斎波は一瞬黙り込んだ。

「……わかりました。いや、わかった。多少馴れ馴れしいかもしれないが、普通に話そう。それで構わないんだな? 宍上君」

「ええ、よろしくお願いします」

 虚をつかれたように戸惑う斎波が可笑しくて、その時は自然に笑うことができた。




「斎波さんは舞台の人なんですよね? どうして今回はドラマに?

 機材の準備を持ちがてら、雑談をする。撮影場所として使われている休日の学校が珍しく感じられるのか、彼はきょろきょろと周りを気にしていた。

「やっぱり経験を積むためですか? 今後はドラマを中心に?」

「ん……うん、ああ」

 半ば心ここにあらずといった様子で頷く。教壇だの黒板だの、机や椅子だの……数年前に飽きるほど見ただろうに、そんなに気になるのだろか。

「舞台でも学校のシーンはあるでしょう?」

「それはそうなんだが……なんというか、こうして実際に学校で演技するというのが不思議な感じなんだ。ドラマだから、リアリティを追及するのは当然なんだが」

 言いながら、斎波は衣装として着ている学生服に目をやる。高校生役としてはかなり体格の良い斎波だが、制服に袖を通すと真面目な学生のようにしか見えないから役者とは不思議なものだ。

「こんなことを言ったら、役者失格かもしれないが――制服を着て、こんなふうに学校にいると、まるで子供に戻ったみたいだ」

 ――この人、もしかして。

 言葉にできない確信が、数秒宍上から言葉を奪った。

「うん? どうかしたか?」

 急に口を閉ざした宍上を心配してか、斎波は怪訝な顔をした。

「いえ……ちょっとその感覚、わかります。刑事物のドラマに出たら、本当に刑事さんをやっていたみたいた気分になったり、まったく知らない土地でロケしてるのに、まるで生まれ育った街にいるみたいに感じたり。デジャヴ、って言うんですかね」

 ずっと何かの役柄を演じていて、やっとそれから解放されて本来の自分に戻れたような。

「そうそう。働きすぎ、なんだろうな。ひどいときはあるはずのない台本を探したりしてしまって、知り合いから笑われてしまったこともある」

 常人からすれば寝惚けてしまったか、単なる錯覚だと切り捨てるだろう。だが――宍上のように人生を、世界観を演技に塗り潰された人間にとっては、それは強固な実態を伴った日常の一部なのだ。

 嘘偽りで構成し、テクスチャーを貼り付けた状態の感情しか現実に出すことができないから。

 虚構の世界で、違う人物になったときしか“本当”の自分をさらけ出せない。

 檻の中に閉じこめられた獣が、時折広い柵の中に放されて束の間の自由を味わっているような。

 だけどそれは、結局は錯覚で。自分を慰め、騙すための欺瞞でしかないのだ。

「ほんとうに、だったら良いんですけどね」

 所詮自分達は、箱に閉じ込められたまま飼い殺される獣なのだ。

「すまない。なんだか変な空気にしてしまった」

 宍上の心境の変化を感じ取ったのか、斎波が申し訳なさそうに頭を下げる。

「そんなことないですよ。斎波さんとは気が合いそうで嬉しいです。あなたみたいな人と共演できて良かった」

「……そうだな。君とは、もっと色々話してみたい」

 顔をほころばせた斎波は、しかしすぐに真面目な顔に戻って「だが」と続けた。

「おそらく、また共演することはないと思う」

「えっ、なんでですか?」

 予想外の断言に思わずたじろぐ。

「さっきはいいかげんに答えてしまったが……私はあまり、舞台以外の仕事をするつもりはないんだ。今回は『イーグレット航空』の公演に出させてもらったときに紹介してもらったんだが」

 劇団イーグレット航空には、テレビドラマやバラエティ番組にも多く出演するタレント俳優が多数所属している。このドラマにレギュラー出演している俳優の中にもイーグレット航空所属俳優がいた。きっとその伝手なのだろう。

「君も噂を聞いているかもしれないが……私の所属しているブルートループは、決して順調とは言えない状態でな。一昨年から昨年にかけてトラブルが続き、そのせいか新公演を打ってもなかなか客足が伸びない。好感度も、知名度も、まったく足りていないんだろう」

「じゃあ……まさかそのために今回?」

 毎週のスタッフロールをいちいちチェックする視聴者は少数派だろうが、スポンサーやスタッフ、共演者に名前が知られるだけでも大きくプラスになるだろう。しかし……それで知らしめるのが自分の名前ではなく、所属劇団のほうというのは。

「ああ。君には悪いが、私にはブルートループを守るという大事な仕事があるからな。今は他に時間を割く余裕はないんだ」

「でも、斎波さんまだ若いじゃないですか。俳優として生きていくなら、今が一番重要な時期でしょう?」

「俳優としては、そうなんだろうな」

 斎波は優しげな――そしてどこか寂しそうな顔で笑って続ける。

「けれど、私ももう大人だ。自分のことより、周りや、組織のことを優先するべきだろう?」

「………………」

 叫び出しそうになったのに、不思議と声は出なかった。

(違いますよ、斎波さん。そんな台詞、そんな言葉……そんなの、大人の言うことなんかじゃあないんだ)

 それは、必死で大人ぶろうとしている子供の台詞だ。

 欲しいものを貰えなくなって、それを意地を張って我慢している愚かな子供の言い訳だ。

 本当の大人は、何も我慢なんかせずに思うままに好き放題に奪っていくだけなのに!

「……斎波さんって、“良い子”だったんでしょうね」

 苛立ちをきばで嚙み潰し、笑顔を作る。

「凄いな。僕はとても、あなたみたいになれない」

 気づいていないのだろうか。目を背けているのだろうか。

 我慢していれば、待っていれば、いつかはご褒美がもらえるなんて子供騙しのおとぎ話でしかないのに。

 何を望んでいたにしろ――何も望んでいなかったにしろ、躾けられた“待て”を延々と続けるだけの日々なんて、苦しみと渇きしかないだろうに。

 僕はそうやって壊されてきたのに、どうしてこの人はそんなふうに笑っていられるんだ?

「そんなことないさ。君だって信じられないくらいによくやっているだろう?」

「いえ……僕なんて所詮、周りの人のお陰ですから」

 嫉妬だったかもしれない。

 憎悪だったかもしれない。

 殺意だったかもしれない。

 理屈の一切つけられない獣じみた感情が、浮かべた笑顔の裏で狂おしく躍っている。


 憎々しい。

 恨めしい。

 殺してやりたい。


 今まで誰にも抱いてこなかったどす黒い感情が、目の前の男に向かって向けられていた。

(ああ――見てみたい。この人がぐちゃぐちゃになるところを。自分が積み重ねてきた感情ツケに押し潰されるところを)

 苦しいまま、つらいままに生き続けて、それが正しかったなんて言わせない。

(偽善の首輪を外されて、めちゃくちゃな顔で暴れ回るのを見てみたい)

 飼い殺しにされたことが幸せだったなんて御託は許さない。

(この人が虚構じゃなく現実の世界で生きる姿を見てみたい)


 ――生涯で初めて出会った同胞に対して宍上は、


 そのためなら、この手で殺して殺されてしまっても構わない。


 ――そんなことを、思った。


「じゃあ、僕がそっちに行きますよ」

 善意、優しさ、親しみ、その他すべての“良いもの”だけで作られたような顔で言う。

「いつかまた、斎波さんと共演できるように、僕も舞台演劇をやってみます」

「ああ、それはいいな」

 斎波はひどく無邪気に笑った。

「じゃあ、その時を楽しみに待っているよ」

「ええ、よろしくお願いします」

 そして、二人の怪物は微笑みながら握手を交わした。

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失墜するアトラース 古月むじな @riku_ten

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