そしてピトスは壊される
本日何十件目かのメッセージ通知に耐えかねて、斎波はスマートフォンの電源を切った。
多分、通知の音を消すだとか、画面に表示しないようにする方法はあるのだろう。だが、今の斎波にその方法を調べようとする気力はなかった。スマートフォンを無造作にサイドボードに置き、ずるずるとベッドに戻る。
あのゲネプロから一週間が経った。あれ以来、斎波はブルートループのスタジオに顔を出さず、ほとんど家に閉じこもっていた。
『開演まであと一週間もないのよ?』
スマートフォンの電源を切る前、画面に表示されていたメッセージの内容がつぶった瞼の裏に浮かぶ。本来この時期は開演に向けた最終調整をしなければならない。それを、よりにもよって主役がボイコットしているとなれば、現場は大騒ぎでは済むまい。ここ数日、斎波の元には団員達からの心配、叱責、罵詈雑言に哀願が入り混じったメッセージが山のように届いていた。
このまま公演初日まで無視と居留守を決め込んだら、どうなるだろうか。
子供じみた考えが頭に浮かぶ。当然、主演がいないまま公演など出来るわけがないのだから、舞台は中止になるだろう。スター宍上の出演という鳴り物入りの話題作がそんなスキャンダルで中止になれば、観客の落胆だけでは済まない。劇団に対して非難が殺到、キャンセルとなったチケット代の返金に、劇場や各種の協力企業への弁償もしなければなるまい。
そうなったとき、ブルートループが無事存続できる望みは低いといわざるをえないだろう。
「ブルートループの、終わりか」
一週間前までの斎波なら、そんな事を起こすまいと大慌てで動いていたはずだ。いや――そもそもこんなふうに、自室で無為に怠惰に引きこもっていること自体、本来の彼ではありえない。
「本来の、自分」
では、ここでぼんやりとブルートループの終焉をもたらそうとしている斎波は何者なのか。
あのゲネプロですっかり思い知らされた。これまで斎波を動かしていた“基準”や“理”と呼ぶべきものが、いかに幼稚で欺瞞にまみれたものであったか。馬鹿馬鹿しい空想と子供みた現実逃避にすがって生きてきて、そしてとうとう耐えきれなくなった。はたから見れば滑稽極まりなかったことだろう。
そうして、今まで生きるために使ってきた方便を失った斎波は、自分が何者なのかわからなくなってしまった。
何をするにしても、まるで何かの役を演じているような――虚構の中に存在し、台本に従ってい動いているような感覚に襲われる。今まで、“あの人”こそが斎波にとって世界のすべてで、ありとあらゆる行動がそれに基づいて組み立てられていた。そこに斎波の意思など介在する余地などなかったのだ。今更自分の意思を省みても、そこにはひどく微弱で、ぼんやりとしたものしかなかった。
自分は、本当にブルートループが好きだったのだろうか。
考えれば考えるほど、もやもやとした闇の中に入っていくような、果てのない
瞼の裏に、今度は宍上の顔が浮かぶ。彼からの連絡は今までまったく来ていない。彼は今何をしているのだろう? 彼が自らばら撒いた不和の種に囲まれて。団員達は彼がどんなことをしているのかも知らないで、彼をちやほやと慕っているのだろうか。
胸の奥がちりちりと痛むような、不快な感覚がした。
「――おーい、おーい。いねーのー?」
ゆるゆると起き上がってまた思案に耽っていると、インターフォンのチャイムが鳴らされていることに気がついた。同時に玄関扉がどんどんと叩かれ、呼びかける声も聞こえてくる。近所づき合いはほとんどしていないし、何かの業者の不在確認にしても妙な雰囲気だ。
痺れを切らした団員が、斎波宅を訪ねてきたのだろうか。
「………………」
少し迷ったが、出ることにした。わざわざ家まで訪ねてきたのが誰なのか気になったし、そろそろだんまりを続けるのも限界だと感じていた。ああ、とか、うう、とかうなり声のような返事をし、玄関に向かう。
「おー、やっと出た。いねーのかと思った」
「……君は」
「ここまで来んのにいっぱい歩いて疲れちった。中入っていい?」
などと言いながら、斎波の返事を待たずに部屋に入ってきたのは吾風ユウジだった。
「へー、こんなとこ住んでんだ。藍条んちより狭いなー」
当然のようにずかずか上がりこみ、ソファにどっかり腰を下ろす。そして「ジュースとかねえの? ビールでもいいけど」とねだってきて、元々なかった力がさらに抜けていく。
「……何をしに来たんだ、君は」
まさか他人の家で酒を飲むためだけ来たのか? そもそも彼に住所を教えた覚えはないのだが。
「あー、そーだったそーだった。えっと、お前なんだっけ、サイトウ?」
「サイナミだ」
覚えが悪いにしても、来るときに表札を見なかったのだろうか。
「うん、斎波な。おれさー、金欲しいんだ」
「金」
「前に言わなかったっけ。俺、金が欲しいからヤクシャやってんだよね。楽しく生きるためには金が必要だろ? 藍条はたまにしか貸してくんねーし、すぐ返せ返せって言うし」
明け透けにも程がある動機である。というか、金目的ならば役者ほど割りに合わない職業はないだろうに。
「だからさー、お前がこのまんまヒキコモリしてたら公演できなくなって、おれのお給料もなくなっちゃうんだろ? そういうの困るから来たんだけどさ」
ソファに我が物顔で寝転がりながら、吾風は斎波を不思議そうに見た。
「お前、まだヤクシャ続けたいの?」
「え……」
ふいに投げかけられたその問いに、斎波は答えることができなかった。
「だって、もうイヤになったんだろ。いろんなもん背負ってがんばるのがさ。だったら、さっさとシャチョーさんのところ行って『やめます』って言えばいいじゃん。お前がそう言わないから、みんなどーしよーどーしよーって困ってるんだぜ?」
じたばた足を動かしながら、吾風はまるで見透かしたように言う――ああ、そういえばそうだった。彼はいつかのときもそんなふうに斎波のことを見抜いていて、それで斎波は心を揺らされたのだ。
ぼんやりと、焦点が微妙に外れたその眼差しは、今も斎波の内側を見つめている。
「おれもさー、がんばったのに誰にも褒められなくて、それで文句言って怒られたりしたらイヤになるよ。つらいだけだもんな。おれだったらさっさと逃げちゃうよ。ガマンとか、ニンタイとか、なーんの意味もねえって知ってるもん」
――何も意味がない。同じようなことを、初空が言っていたのを思い出す。
「お前さ、昔のおれにちょっとだけ似てんの」
へらへらと、流体じみた笑みを浮かべて吾風は言う。
「昔のおれはねー、良いものになりたかったんだ。良いものになれば、なんか全部が良いようになって、幸せになれるんじゃねえかなって思ってた。でも、違ったんだ。
「良い奴は全然良い思いなんてしてなかったし、おれは悪いものに生まれたから良いものになんてなれっこなかった。だから、諦めてやめた。幸せになれなくても、楽しけりゃいーやって。よく考えたらおれ、幸せになりたいんじゃなくて、楽になりたいだけだったんだよな。
「なあ、お前はいったいどうなりてーの? ヤクシャやってたら、そのなりたいもんになれんの? それが気になっちゃってさ。教えてくれんなら、お給料のことも諦めてもいっかなって思ってる」
なりたいもの。
そんなものはない。あったとしてもそれは、志島先生が亡くなったときに終わってしまったものだ。それ以外のものに意味なんてなく、だからそれらはことごとく、箱の中に入れてしまった。
――あれはきっと、切り捨ててはいけないものだったのだろう。切り離して捨て続けていた斎波は、中身を全て失って空っぽの人間と成り果ててしまった。そして今、壊れてしまった箱の傍らで、途方に暮れて立ち尽くしている。
ああ、いや――もう我慢なんてする必要はないのか。どんなに辛く、苦しかろうと、それを無理に呑みこまなくていい。良い子を演じるのは、もうやめにしよう。
自分は、自由になりたいのだ。
「……うおっとぉ」
斎波は吾風の胸ぐらを掴み上げた。“アデル”と“ワルテール”として共演するときは威圧的に見えたが、実際に持ち上げてみれば拍子抜けするほど軽い。
たとえばこのまま壁に叩きつけたり、ベランダから投げ落としでもすれば容易く殺せる。
「えーっとぉ……おれ、痛いのはヤだなー……」
「僕は、君のことが嫌いだ」
へらへらとした笑顔を引きつらせた吾風に言う。
「普段の生活態度を見ているといらいらするし、練習中に君が勝手にアドリブをするたびうんざりしていた。できることなら一刻も早く関係を断ちたいと思っているし、こうして視界に入れていることが何より苦痛だ」
「お、おー……」
嫉妬していたのだ、と今更に気づく。何にも縛られずに自由奔放に振る舞う彼が、妬ましくて仕方なかった。今だって、追い詰められているはずの状況下でも飄々とマイペースさを失わない彼を見ていると、穏やかではいられなくなる。
「今手を離すから、さっさとここから出て行ってくれないか。さもなければ、君を痛い目に遭わせてしまうだろう」
「うぇえ」
宣言通りに手を離すと、吾風は素直に玄関へと走っていった。幸せではなく、楽になりたい、と言っていたか。自分が呈した疑問の答えを聞かぬまま逃げ去る彼の言葉の意味を少しだけ考える。深く考えず、深入りせずに身軽に動くのが“楽”さの秘訣なのだろうか。
「どうでもいいか」
口に出して呟くとおかしさが増し、斎波はくすくすとしばらく笑った。
「やっぱり暴力はいけないな……うん、あれはいけなかった」
我慢をしないと決めたばかりだが、越えてはいけない一線というものはある。これから誰かと会うたびにあんな対応をしていたのでは、遠からず警察のお世話になってしまうだろう。
「仮面がいるな」
あるいはシステムか。しがらみを断ち切り、今までの鬱憤を晴らすまでの間、ある程度は外面を取り繕わなければならない。
大丈夫だ。演じるのは慣れているし、取り繕うならちょうど適任がいる。
――すまない。頼まれてくれるか。
鏡に映った
大丈夫だ。やり方はいつも通りでいい。
「“僕”、じゃあないか……うん。君に合わせるなら“俺”のほうがいいな」
どろりと淀む感情を内に秘め、青年は役作りを始めた。
翌日。志島亜理愛は重い足取りでスタジオに出勤した。
あえて言うならば、『フラ泥』の制作が決まって以来――さらに言うのなら、亜理愛が代表としてブルートループを率いるようになって以来だが――彼女が軽やかな足取りでスタジオに赴いたことなど一度もない。次から次へと現れる問題の対処で頭を抱え、胃を痛め続けた半年間である。だが、追い討ちをかけるかのように昨日、斎波から電話がかかってきたのだ。
(斎波君、本当に来るのかしら)
ゲネプロ以降一切連絡を断っていた斎波だが、誰かの説得が功を奏したのか、電話の用件は『復帰させてほしい』とのことだった。ここ数日の欠席は体調不良のせいだとし、無断で休み続けたことを丁重に謝ってから、明日から練習に参加させてほしい、と頼んできた。
散々迷惑をかけておいて今更何を、と思わないわけではなかった。しかし斎波抜きで開演することなど不可能である。他の団員達にもきちんと謝罪することを条件に、その申し出を認めた。
とはいえ、いざ来るとなるとそれはそれで不安になる。ゲネプロの時のように、突然乱心しておかしなアドリブをしたりしないか、ちゃんと演技ができるのかどうか。団員達にしても、戻ってきた斎波を手放しで歓迎できる者は少ないだろう。亜理愛自身、斎波と対峙して適切な対応ができるか自信がなかった。
(……いいえ。弱音なんて吐いていられないのよ。キミドリプロからどう扱われようと、この舞台にブルートループの命運がかかっていることは変わりない。心を鬼にしてでも、公演を成功に導かないと)
ゲネプロ前の時点では、斎波の演技も安定し、団員達の士気も高まっていた。またあの状態に戻すことさえできれば、公演の成功は間違いないものになるだろう。
だが、団員達のやる気はあのゲネプロのせいで目に見えて低下していた。
「伊櫃君。今のところ、立ち位置が少しずれてました。一歩と半分くらい下がらないと、“アデル”にぶつかっちゃいます」
「うるっさいなあ!」
「わっ……」
「お、おいおいどうした!」
ダンスの練習の最中に喧嘩でも始まったのか、罵声とそれを止める声が聞こえてくる。
「またお前らかよ……今度はなんだ? 伊櫃が歌詞でも間違えたのか?」
枯木が仲裁に入り、注意された伊櫃がむくれる。それ自体は毎度のこと、いつも通りの光景である。
「ったくなあ……いらつくのはわかるぜ? でも、そのたんびにいちいちブチ切れてて疲れねえかよ。実際、間違ったこと言われたわけじゃねえんだしよ」
「あの……わたしが言ったことがおかしかったなら謝ります、すみません」
「あーあー初空、お前はとりあえずいいよ。ちょっと待ってろ、な?」
しかし、こんなふうに衝突を起こすのは伊櫃だけではなかった。足がもつれてぶつかった、自分の台詞をトチって流れを止めてしまった、一つ一つは些細なミスが全体的に頻発し、団員間で不満やフラストレーションが着実に蓄積していた。
そして、その原因は。
「だって、主役がいないのにどうやって演じろって言うんだよ!」
――“彼”にあることは疑いようもなかった。
「こんなのおかしいよ、肝心の主役がいないのに練習練習って! みんなどうかしちゃってるんじゃないの!?」
「そりゃあお前……それでもちゃんと話が決まるまでは勝手にやめるわけにはいかねえだろ……」
「勝手にやめてるのはあいつのほうじゃないか! なんでぼく達が振り回されなきゃいけないんだよ! 話ってなんだよ、ぼくみたいな下っ端は文句を言うのも許されないのかよ!」
代表として、彼の言い分を全面的に受け入れることはできないが、それでも伊櫃の気持ちは痛いほどわかる――亜理愛はレッスン室の外から漏れ聞こえる話を聞きながら嘆息する。話が拗れれば拗れるほど、損をするのは真面目にやっている団員のほうなのだ。
「あいつは家にいるんだろ!? だったら今すぐにでも行って、引きずり出して連れてくればいいじゃないか!」
「簡単に言うけどな……それができたら苦労はしねえって」
「じゃあ、ぼくが行ってくるよ! 鍵がかかってようがこじ開けて、ここに連れてくればいいんだろ!?」
「――その必要はない」
よく通る声が、後ろから聞こえた。
さほど大きな声ではなかったはずだが、その声と同時にレッスン室が静まり返ったのがわかった。まるで、主役の登場に伴い役割を終えたアンサンブル達がさっと舞台からはけていったかのようだった。
存在感。“演劇”の才能として数あるうちでも最もその役者の資質を左右するそれこそが、彼の最大の武器。
「……斎波君」
振り返るのがなぜだかとても恐ろしく、レッスン室のほうを向いたまま亜理愛は呟いた。
「来た、のね」
「ああ」
短く頷いたのを気配で感じる。
何か言うべきだろうか。不思議とそんな考えが頭をよぎった。
おかしな話だ。代表として彼に注意はすれども、亜理愛個人が斎波に対してかける言葉はない。なのに、何か言うべき言葉があるようなしたのだ。
「さ……」
「もっと早くに言うべきだった」
口を開きかけた亜理愛を遮るように斎波が言う。
「亜理愛。初めて会ったときから、君のことが嫌いだった」
そして、優しく語りかけるような口調で、そんなことを言った。
「もちろん、君に非はない。俺の身勝手な嫉妬、横恋慕だ。君が志島先生の子供に生まれたという、ただそれだけの理由で、俺は君のことを憎悪した」
まるで場にそぐわぬ話を、斎波は淡々と話し続ける。だが、決して語調ほど穏やかな話ではない。何か、取り返しのつかないことが起こり始めているのをで感じた。
だが――それでも振り返ることができない。
まるで、台本にそう指示書きされていたかのように。
「黙っていたのも君のためじゃなく、志島先生に知られて見放されるのが怖かったからだ。だが、やはり間違っていた。本当の気持ちを隠して、偽ったまま過ごすなんて舞台の
上だけで充分だ。
「よくある喜劇の一幕みたいだったな。お互い打算で、好きでもないのに付き合うなんて。俺は先生に近づくため、君は女子校での人間関係の防波堤といったところか。あのとき別れたのが、お互いボロを出さずに済むぎりぎりだったが……わざわざ君に気を使わせて振ってもらったのは良くなかったな。ちゃんと俺から別れを告げるべきだったのに。君のそういう、感情的なのに虚勢を張って相手を余計に傷つけるところが嫌いだと、伝えるべきだった。
「もう、ごまかす必要はない。君が俺を敬遠しているように、俺も君とは一緒にいられない。大人ぶって、無理に付き合い続けるのはよそう。もう、これっきりにしよう」
まるで今生の別れでもするかのような口ぶりで、少なくとも斎波自身はそのつもりらしかった。――駄目だ、と直感が警告を発する。一方的に言った斎波は、そのまま亜理愛を追い越してレッスン室に入ろうとしている。このまま彼を行かせたら、本当に彼とは二度と会えなくなるような気がした。
「待って――」
確かに、打算はあった。妹が先に交際相手を見つけて仲睦まじくしていたことへの焦りや、母校のクラスメイト達の“姉妹ごっこ”にうんざりしていたこと。斎波という“彼氏”がいることは、それらストレスから身を守るのにうってつけだったのは事実だ。
けれど――ただそれだけじゃあなかった。亜理愛はそんな情のない計算づくで誰かと付き合うつもりはなかった。いつも遠くを見つめながら、一心不乱に努力する彼の姿が、あの頃はとても格好良く見えて、
「斎波く、」
確かに好きだったからこそ、一度傷つけてしまった彼に近づけなくなってしまって。
「亜理愛」
がむしゃらに伸ばした手が斎波の手に触れる。彼は振り向き、亜理愛の顔を見てにこりと笑った。
「ごめん。さよなら」
そしてその手は優しく、けれどしっかりと振り払われた。
「あ――――」
亜理愛は反射的に後ずさりし、斎波はそれになんの反応も示さずにレッスン室に入る。たったそれだけの、些細なやりとり。けれどそれが、致命的な何かを――いずれかの運命の糸を不可逆的に断絶させてしまったのが、亜理愛にはよくわかった。
ちらと見えた彼の笑顔が、その眼差しが、死の直前の妹や父によく似ていて。
「あなた、まさか――」
けれど――彼女にもはや介入の余地はない。役者をやめた彼女が終幕に立ち会うことはできない。ひっそりと舞台袖で、彼の顛末を後悔とともに傍観することしか許されないのだった。
「すみません。遅くなりました」
レッスン室に入ってきた斎波を団員達は沈黙で迎えた。驚き、呆然として口が利けない者もいれば、怒りのあまり声が出ない者もいた。どのような理由にせよ、静まりかえった室内は彼の声を響かせるためにあつらえたようだった。
「既に代表から聞いているかもしれませんが、私は先日まで体調不良で欠席させていただいていました。事前に連絡もなく、無断で何日も休み続け、皆さんには多大な迷惑をかけてしまったと思います。本当に、申し訳ありません」
深々と頭を下げ、五秒ほどしてから頭を上げて続ける。
「ゲネプロのこともあり、この程度の謝罪ではとても足りないだけのことをした自覚はあります。本来ならば降板し、しっかり責任を取るべきかもしれません。 しかし……厚かましい頼みではありますが、もう一度私にチャンスをください。“アデル”として、公演に臨ませてください。お願いします」
非の打ちどころのない謝罪だった。
揚げ足を取られないようによく考えられた文言に、誠意、謝意が伝わる立ち居振る舞い。たとえ主演の代役の当てがあり、彼を容赦なく降板させられる状況であっても、彼の謝罪は素直に受け入れられていただろう。
しかし。
(何か、おかしい)
団員の内の誰かが――あるいはその場にいたほとんど全員が、そう感じた。
理屈や理性だけでは抑えきれない感情が、斎波に対して抱いていた不満が、彼にぶちまけるつもりで溜めていた怒りが、誰ひとりとして何ひとつとさえ出すことができない。それらはすべて、斎波の顔を見、声を聞いた途端に封じられてしまった。筋書きでそう定められていたかのような強制力で、団員達の自由が奪われていた。
(同じだな、あの時と)
この感覚にデジャヴュを感じた生越は冷静に思い返す。
(こないだのゲネプロであいつが暴走した時、私達があいつの動くままに振り回されたのと、まったく変わらない)
彼の存在感はそのまま“流れ”を牽引する
彼と同等の膂力か、彼とは違う方法で流れを支配する力を持っていない限りは。
「もちろんですよ。ねえ、皆さん?」
場を圧する重力から軽やかに脱し、宍上はひとり斎波の前に躍り出る。はたからは彼もまた、流れに突き動かされているようにしか見えなかったが。
「みんな、あなたを待っていました。これからも一緒に頑張りましょう、斎波さん」
「ああ、ありがとう宍上君」
宍上からの言葉に微笑み、斎波は再び周囲を見た。お膳立てをされ、動かざるをえなくなった枯木と葉原が前に出る。
「ちっ、仕方ねーな……そこまで言っただけの働きを、ちゃんとしろよ」
「この前は厳しいことばっかり言って、ごめんなさいね。これからは、みんなで力を合わせて頑張りましょう?」
誰も否を唱えない。誰にも有無を言わせない。不可解で理不尽な流れに誰もが違和感を抱きながら、それでも抗うことができない。
「ありかとうございます。皆さん、どうかよろしくお願いします」
そして茶番の主役はもう一度、深く深く頭を下げた。
それからの一週間はあっという間だった。
今までの遅れを取り戻すべく奮起した斎波と、それに触発された団員達が大急ぎで最終調整を行い、なんとか公演初日の前日には詰めきることができた。非常に慌ただしい小屋入りとなってしまったが、無事に開幕を迎えられたのだった。
この段になると、もはや斎波の異常を気にする者はいなくなり、各々が自分の役割を果たすことで頭がいっぱいになっていた。
だから――斎波が何を思って舞台に立とうとしているか、考え至れるわけはなく。
「斎波、入るぞ」
開演一時間前。楽屋で身支度を始めようとしていた斎波の元に現れたのは衣装・メイクスタッフのリーダーだった。
「
体格の良い更部の後ろに隠れるように、若い女が立っているのに気づく。おそらく大学生くらいだろうが、うつむいていて顔がはっきりとはわからない。
「こいつは新入りの
「俺が支度しているところを見学させるということですか? 構いませんが」
「すまん、助かる。そういうことだ、深海。しっかり見ていけ」
「は、はいっ!」
更部が出て行ったあと、深海はひどく緊張した面持ちで楽屋に入ってくる。
「あ、あの、な何か、お手ちゅだいは、」
「大丈夫だ。そこで見ていてくれ」
緊張のあまり呂律が回っていない彼女に軽く微笑み、斎波は鏡に向き直る。
鏡の中のアデルの笑みは、斎波の内心を完璧に覆い隠していた。
――ああ、嫌いだ。大嫌いだ。
顔の下地を作り、頬に陰影と赤みを塗り入れながら思う。
年長者でありながら責任感がなく、流されるままにしか行動しない枯木が嫌いだ。
なんでもなあなあで済ませ、重大な問題からも目を逸らし続ける葉原が嫌いだ。
恋愛感情を仕事に持ち込み、周りに迷惑をかける薄川や生越が。
自分勝手に動いては幾度となく騒ぎを起こす真鉄や伊櫃が。
ブルートループの団員達が、一人残らず。
自分はもう、ブルートループを愛し続けることができなくなってしまった。
――もう嫌だ、うんざりなんだ。
大好きだったブルートループが、こんなどうしようもない連中に好き放題されていることに、耐えられない。こんな腐った
こんな劇団、壊れてしまえばいい、 この手で跡形もなく壊してしまいたい。
目元のシャドーを塗ろうとして、アイメイク用の化粧品が鏡台にないのに気づく。振り返ると、テーブルの上に化粧品が乱雑に置かれていた。やれやれ……そそっかしい誰かが使って、戻さぬままほったらかしということか。
「すまない、君。そこから五番と十二番のパレットを取ってくれないか?」
「ひゃいっ!?」
深海に声をかけると、裏返った声で返事が返ってくる。そうか、新人だからどれがどれだかわからないかもしれない、と思い至るも、彼女はしっかり目当てのメイクパレットを選び取った。
「ここ、これとこれ、でしゅね!」
「……ああ、ありがとう。助かったよ」
受け取るとき、軽く指先が彼女の手に触れるようにしながら、照れと感謝が入り混じった笑みを浮かべる。深海の顔がますます赤くなり、口がまったく利けなくなるまでそう時間はかからなかった。
「…………! ………………」
少しやりすぎただろうか。相手の心を開き、油断させるのにアデルの処世術はもってこいなのだが。
そう――ただ壊すだけでは駄目なのだ。少しでも手抜かりがあって、また亜理愛や他の団員達が新生ブルートループを立ち上げるなんてあってはならない。徹底的に、復活の見込みもないようにしなければならない。
たとえば、スキャンダル。団員の醜聞はそのまま劇団の風評に繋がる。恋愛関係とか不倫とか、その程度では生温い。もっと致命的な――そう、誰かが本当に死んでしまったり、殺してしまったり、そんな明らかなる罪悪が起こるとか。
時期は、どうせなら公演が終了してからのほうがいいだろう。舞台が大成功、盛況が各地に伝わって、ブルートループの名が世間に知られたタイミングが最高だ。
そして、その手を汚すのは斎波ただ一人だけでいい。
――あなたが望めば、僕はいつでもこの劇団を壊すことができます。
彼の力は、だから借りられない――彼の名や手を汚させるわけにはいかない。
壊し方くらいは、自分の自由にさせてほしい。
「斎波さん、準備はできましたか?」
考えているうち、当の本人が楽屋の中に入ってきた。彼はいったい何を思って斎波に笑いかけているのだろう。
君さえいなければ。
君が、僕の目を覚まさせようとしなければ、まだ子供じみた幻想に浸っていられたのかもしれないな。
ふいに湧き出ていたどす黒い想いは、アデルの下に隠しておく。仕舞わぬままに置いておくのも疲れるものだ。千秋楽の頃には、きっとへとへとになっているだろう。
「ああ、万全だ。行こう、“リュシアン”」
頷き、宍上に手を伸ばす。宍上はその意味をすぐに悟って、斎波と手を繋いだ。
「ええ。行きましょう、“アデル”」
そして二人は、悲劇の幕開けに向けて足を踏み出した。
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