天の巨人のミゼラブル

 早く大人になりたかった。

 舞台の上でスポットライトを浴びるは、とても格好良くて、誰よりも輝いていたから。

 あの人の隣に立ちたい。一緒の舞台に上がりたい。そうすればあの人は、もっと自分を見てくれると思った。

 どうして自分はこんなにも幼いんだろう。手も足も短いし、考えることはきっと大人よりずっと浅はかだ。どれだけ頑張っても、子供のままでは認めてもらえない。

 早く大人になりたかった。

 早く大人になりたくてたまらなかった。

 けれど――どうやったら大人になれるのだろう。

 どれだけ背が伸びたら大人に見られる?

 どれほど頭を良くしたら大人だと認めてもらえる?

 大人の言うことをちゃんと聞いたのに。

 正しいことを、良いことを一生懸命にやっていたのに。

 いったい何をしていれば、僕はあの人に認めてもらえたんだろう。




「どういうこと、なの?」

 志島亜理愛も、この惨状に対してはそれだけ言うので精一杯だった。

 ゲネプロの結果は悲惨の一言だった。主演の斎波が突如不可解なアドリブを始めたのをきっかけに、進行はどんどん崩壊していった。辛うじて終幕まで辿り着いたものの、予定時間は大幅に長過。まるで台本を覚えられないまま始まった子供の学芸会の有り様だった。

「いったいどうして、何が……」

 時刻は十八時過ぎ。楽屋にはブルートループ団員のみが集められている。本当なら公演終了後すぐにでも問い詰めたいところだったが、想定外の事態に困惑している各種関係者への対応ができるのは亜理愛だけだった。比喩ではない頭痛がしてきたのを堪えながら、団員達に向き直る。

「……お願い、きちんと説明をして。犯人を探して吊るし上げようってわけじゃないんだから。ただ、そう……わかるでしょう? この舞台は私達だけのものじゃないのよ。キミドリプロに六曜劇場、広告代理店……何百人もの人間が関わってるプロジェクトで、『よくわからないけど失敗しました』は通らないのよ。ちゃんと報告して、しかるべき対処を行わないと」

 欺瞞だ、と自分で喋りながら思う。この大失敗の原因――犯人なんてわかりきっているし、最終的には“彼”を糾弾し、責任を取らせることになるだろう。この集まりは、それが代表としての独断にならないよう、多数派の民意を得たという体裁を作るためのものに過ぎない。

 ――彼女自身はまったくの無自覚だったが、亜理愛は斎波に対して一定以上の信頼を置いていたのだ。斎波ならすぐに名乗り出て、理路整然と納得のいく説明をしてくれるのだろうと。だから、うつむいている彼がいつまでも黙り込んだまま何も言わないでいるのに面食らい、苛立ちで口調をさらに刺々しくさせた。

「どうしたの? まさか、誰も何もわからないでこんなことになったって言うの? そんなわけないでしょう。黙っていれば勝手に解決するわけじゃないのよ」

「あ……あのね、亜理愛ちゃん。代表さん」

 口を開いた葉原は、見るからに“取りなし”て、この場をやり過ごそうとしている表情だった。

「わかってると思うんだけど、わざととか、悪気があったってわけじゃないと思うのよ。色々、今日が初めてだったから……誰だって、慣れていない環境だと思いもよらないことをやっちゃったりするわ。だから、ね……?」

「悪気がなかったら、慣れてなかったら、何やってもいいってのかよ」

 ぼそりと、葉原の訴えが遮られた。伊櫃が自分の服の端を強く握り締めながら、斎波を睨みつけている。

「じゃあ、ぼくらはどうなるんだよ。しょうがないことだから許して受け入れて諦めろって? これが最初で最後のチャンスかもしれなくても?」

「伊櫃くん……」

「わかってるだろ。こいつのせいだよ」

 と、伊櫃は斎波に指を突きつけた。

「こいつがワケのわかんないことし始めて、全部をメチャクチャにしてくれたんだよ! こいつが勝手に意味わかんないことして、こっちは話を進めるので精一杯さ! 主役にやりたい放題されて、ぼくらモブはどうしろってんだよ!」

 普段から跳ねっ返り、反抗的なあまのじゃくとして扱われている伊櫃だったが、彼のこの発言を諌めようとする者はいなかった。口にこそ出さないが、彼と同じ思いを抱く者は多かったのだ。伊櫃の言葉は、そんな彼らの思いを代弁していた。

「ふざけやがって、どうしてくれるんだよ!? そりゃぼくは名前もろくにわかんないようなモブで、出たって覚えてくれる観客がいるなんて思ってないさ! でも、ここで頑張れば次はもっと良い役をやれるかもしれない、もっと良い目が見られるかもしれないって今日までやってきたんだ! それを、それなのに……どうすんだよ、これで全部ご破算になっちゃったらぁ!」

「お、おい落ち着け!」

 喋りながら興奮してしまったのか、ついには斎波につかみかかろうとする伊櫃を見かねた枯木が制止する。さすがに劇場内で暴力沙汰はまずい。しかし、そんな枯木もやはり思うところはあるらしく、伊櫃を押さえながら斎波を険しい顔で見つめている。

(どうして――何も言わないの?)

「君は何か釈明しようとは思わないんだ?」

 戸惑う亜理愛の内心をそのまま口に出したかのように生越が言う。渦中の斎波は未だ沈黙している。

「今の坊やの肩を持つわけじゃないけど、今日の君のやらかしはなかなかやばいよ。SNSに流されたら炎上間違いなし。連日大バッシングの嵐で、レギュラー番組もCMも降板させられるね。で、君はそれをだんまりでやりすごすつもり? ろくろく言い訳もしないんだったら、満場一致で君が悪者にされて断罪されるだけだよ?」

 実際、斎波がどう“責任”を取らされることになるのか、亜理愛は考えることを避けていた。主役降板――いや、公演そのものが中止となることも視野に入れなければならないだろう。芸能界でも指折りの大手事務所であるキミドリプロの面子を潰してしまった劇団と俳優に、はたして未来はあるのだろうか……?

「おい、なんとか言えよ斎波……!」

 苛立った枯木が足を踏み出し、斎波に問う。しかし次の瞬間、枯木は言葉を失っていた。

「きみたちは」

 まるで亡霊のような、生気を感じさせない顔で。

 どろどろと濁った瞳で、幽霊じみた掠れ声で――斎波は言った。

「君達は僕に、何を期待しているんだ?」

「なっ……お、お前」

 枯木は無意識のうちに後ずさりしていた。斎波と目を合わせた途端、彼は漠然とした恐怖に支配されていた。言語化するのが難しい、名前があるのかもわからない恐ろしさ――それまでよく見知った相手だったものが、突然見知らぬ何者かにすり替わったかのような。昔からの知り合いに、赤の他人のような振る舞いをされているかのような。

 ――誰なんだ、こいつは。

 目の前にいる“彼”は、それまで枯木が知る斎波とはまったくかけ離れた表情をしていた。

「何を言っているの?」

「君達は僕に何をどうしてほしいんだ、と言っているんだ」

 亜理愛からの問いに、斎波は先程と同じ語調で繰り返した。それは問いかけというよりは、呆然とした独白のようだった。

「い、いや、だってあなた……」

「ああ、わかっている。今回のことは、全部僕の責任だ。僕が悪い、僕が悪い、僕が悪い……じゃあ、どうしたらいい? 僕が悪くて、僕が許せないというなら、君達は納得する? 謝ればいいのか? この場で地に伏して頭を垂れれば満足か? 今ここで辞表を書き上げて劇団を出て行けば許してくれるのか?」

 誰もが唖然としていた。斎波の変わりように、彼の発言内容に。覇気がなく、それでいて怨念が込もったような声、態度。まるで口が達者な子供がすねて屁理屈をこねているような言葉。どこを取っても、彼の振る舞いはそれまで知られていた“斎波正己”像とは違っていた。

「わからない。わからないんだ。わからないわからないわからない。僕はいったい何をしていた? これから何をしたらいい? 今までの僕はなんだったんだ。なんのために、誰のために、何を目的として動いていた? だって、なんの意味もなかった。無価値で無駄だったんだ、僕のやってきたことは。だったら、もう、何をしたって仕方ないじゃないか。いったい僕にどうしろって言うんだ!」

 ゲネプロ中の斎波の身に何が起こったのか――斎波がそれまでどんな思いを抱え込んできたのか、無論誰も知る由はなかった。それは今に至るまで彼自身すら無自覚だったものであり、明るみに出たことは一度たりともなかった。団員達の目には斎波がなんの脈絡もなく突如豹変したようにしか映らず、失墜していく彼の人格は、団員達に恐怖と嫌悪をもたらすのみだった。

 その場にいる誰もが、斎波正己という人間を理解していなかったのだ。

 だから――いくら彼が悲鳴を上げようと、それは醜悪な戯れ言としか思われず。

「――いいかげんにしなさいっ!」

 ぱん、と高らかに鳴ったのは、葉原が斎波の頬を叩く音だった。不意の一撃を正面から受けた斎波は二、三歩よろけ、ぼんやりと葉原を見た。

「……う」

「さっきから聞いてれば、なに? ちゃんと謝りもしないで、変な言い訳ばっかり……それが大人のする態度!? ごまかすのも大概にしなさい、あなたはもう子供じゃないのよ!」

 他の団員達が眼を見張るほどの剣幕だった。アンサンブルの練習で新人を指導している時ですら、彼女がここまで大声を出すことはなかった。その事実がそのまま、葉原が心から怒り、悲しんでいることを証明していた。

「何をすればとか、許すとか許さないとか、そういうことじゃないでしょう! これをしてもあれをやったら許してもらえるとか、そんな都合の良いルールがあるわけじゃないんだから――まずは謝ってそれからどう詫びるのか自分で考えなさい! それが大人のやり方なのよ!」

 言うまでもなく、葉原は斎波のことを理解しきれないなりにも思いやっていて、こうして彼を叱りつけているのも、彼のためを思ってのことだった。

 だから――自分の放った言葉が斎波にとってどんな意味を持つかなど、予想できるはずもなく。

「あ――」

「――斎波くん?」

 再び斎波はよろめき、床に膝をついた。長身の彼も、そんな体勢をとるとその場の誰からも見下ろされる形となる。

 大人達が自分を囲んで見下ろし、呆れ果てている。

「は――ははは」

 自分に向けられた視線をぐるりと見回し、斎波は唐突に笑い出した。けらけら、けらけらと空虚な笑いが楽屋に響く。

「な、なんなんだよお……!」

 伊櫃が呻く。すべてが意味不明、まったくもって理解不能。さながら不条理劇のワンシーン。とうにゲネプロは終わっているというのに、団員達は先程と同じように、“斎波正己”が発する重力に一挙一投足を左右されていた。


「おーい亜理愛ちゃん、キミドリさんが来てるよお」


 不条理劇を中断させる、乾の能天気な声。楽屋の入口に立つ乾の隣に、キミドリプロからの交渉役、小角が笑っていた。

「いやあ、お取り込み中のところすみません」

「……小角さん? どうかされましたか?」

 声をかけてから、どうもこうもあったものではないと亜理愛は気づく。あのゲネプロの直後だ、キミドリプロから何を言い渡されてもおかしくない。

 しかし、小角の言葉はまったく予想だにしないものだった。

「今やっと上の者との話し合いが終わりましてね。無事、来月からの本公演の許可が下りました」

「え……?」

 発言の意味が飲み込めず言葉を失う亜理愛に構わず、小角は続ける。

「取材の皆さんにはトラブルのことは伏せていただいて、あくまで大成功っていう体裁で書いてもらいます。写真は問題なさそうでしたけど、何かNGがあるようなら伝えておきますよ。他にどこか“根回し”が必要そうなとこってあります?」

「い、いえ、待って……待ってください」

 すらすらと、ごく普通の世間話でもしているかのような語りに目眩がする。どういうことだ。彼は何を言っている?

「今日の出来事を揉み消して、何事もなかったように公演を執り行う、ということか?」

 真鉄に訊ねられ、「そうですね」と小角は頷く。

「いろいろあったみたいですけど、このくらいならどうとでもできますから。皆さんは気にせず、本番に向けて調整を始めてください」

「ちょ、ちょっと! どうして……!?」

 団員達がざわつく。今日の惨状をすべてなかったことにして話を進める? それだけ聞くと願ったり叶ったりのことではあるのだが……そんな都合の良すぎる話があっていいのか。

「お気遣い、ありがとうございます。ですが……どうして? 自分達でこんなことを言うべきではないけれど、私達ブルートループは現状、公演を無事に成功させられるとはいえない状況です。先程のゲネプロ、ご覧になったでしょう?」

「ええ、もちろん」

 困惑を隠しきれないまま言う亜理愛。小角はただにこにこと微笑み、答える。

「だ、だったら……!」

「何か、勘違いされてるみたいですけど」

 小角の視線が一瞬、団員達に混じる宍上に移る――小角の目に映る宍上がどんな表情をしているのか、気づいた団員はいなかった。

「公演が成功しようが失敗しようが、我々にとってはどうでもいいんですよ」

「……え」

 柔らかい笑顔で、実にあっけらかんと小角は言った。

「確かにこの企画が大ヒットすれば、更なる利益が期待できるのは事実です。でも――捕まえてもいない狸の売れ行きを見込んで動くなんてこと、リスクが大きすぎますからね。我々と致しましては、現時点で想定していた収益は、既に七割程度回収できてるんですよ。主演俳優の話題性でチケットの大半が捌けて、口コミによる波及効果で過去の出演作品のDVD、配信動画の売上増……はっきり言って、あとはもう消化試合みたいなものなんです」

 亜理愛はようやく、キミドリプロが今回の企画を持ちかけてきた理由を察することができた。キミドリプロにとって、いかにこの劇団か些末な存在であるか。

 ブルートループの未来が懸かった舞台は、所詮、少し手間がかかったコマーシャル程度でしかなかったのだ。

「..……じゃあ、公演が全日程終了するまでは、これまで通り協力していただけるんですね」

 全身の血が抜け落ちていくような感覚。亜理愛は卒倒しそうになるのを堪えて確認する。力関係は重々わかっているつもりだった。だが――彼らの思惑もスケールも、亜理愛の想像からあまりにもかけ離れていた。

「それは当然、約束させていただきます。今みたいな言い方をしてしまいましたが、やっぱり成功するに越したことはないですからね」

 飄々と、しゃあしゃあと語る小角。優しげな表情は対等なビジネスパートナーではなく、いつでも切り捨てられる格下に向けられたものだった。

「では皆さん、今後ともよろしくお願いします。我々はいつでも、皆さんのご健勝とご活躍をお祈りしています――」

 そう言って、小角は床に膝をついたままの斎波に目を向けた。ぼんやり、生気の抜け落ちた顔を見ても、小角は微笑みを崩さない。

「斎波さんも、頑張ってくださいね」

「――――」

 小角の言葉に、斎波はわずかに口を動かした。

「やあ、やっぱり“大手”は怖いねえ」

 と、乾が能天気に口を開いたのはもちろん小角が去ってからのことだった。それまで楽屋は時が止められたかのごとく沈黙に支配されていた。

「代表、乾さん……私達、これからどうしたら?」

「うん?」

 薄川が小さく震えながら発した問いに、乾は首をかしげる。

「まあ、頑張って仕上げてくしかないでしょう、本番まで。なんだかんだあったって、あちらさんからああ言われちゃったらぼくらもう逆らえないしさ。これ以上機嫌損ねないように良い子にやってくしかないよ」

 あっさりと言ってのける乾は、このことを最初から予見していたのか、あるいは慣れっこになってしまったのか。沈んでいる団員達が不思議で仕方ないような顔をしていた。

「良かったじゃない、手を切られずに済んでさ。おまけにこっちの失敗までフォローしてくれるなんて、こんな手厚いところなかなかないよ」

「で、でも……」

「心機一転、頑張ってやっていこう、ね? えい、えい、おー」

 乾の気の抜けるような激励に、残念ながら感化された者はおらず。楽屋は再びどんよりとした静寂に満ちていった。




 うずくまったままの斎波は腫れ物のように扱われ、声をかけようとする団員は誰一人としていなかった。

 斎波自身もまた、置物と化したかのようにその場から動かず――いつまでもいつまでも、時間の許す限りそこに居続けるのかと思われた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 どうして――自分はこんな風になってしまったのだろう。

 答えの出ない問いが斎波の内側でぐるぐると回る。いや――答えはとっくに出ているのだ。斎波が、それに辿り着くのを拒否しているだけで。

 結論を出せば、すべてが終わってしまう。だから、停滞し続けるしかない。

 、現実から目を背けて虚像を見続けるしかない。

「――――ッ」

 ひやりと冷たく、硬い感触が手の甲に当たる。突然のことにぎょっとして顔を上げた。

「斎波さん」

「…………し、」

 宍上は缶コーヒーを斎波の手に握らせ、自分もその場に座り込んだ。宍上のもう片方の手には、見慣れない銘柄のお茶のペットボトルが握られている。

「もう、だいぶ遅くなりましたよ。そろそろ出ないと、スタッフさんに迷惑です」

「し――ししがみくん、宍上君」

 子供のように這いずって、宍上の両腕に縋りつく。斎波の醜態を、宍上は優しい笑顔で受け入れる。

「はい。どうしました?」

「せんせいが、志島先生が……死んだ、んだ」

 不規則な息継ぎで、抑揚も強弱もぐちゃぐちゃになった声。宍上は顔色ひとつ変えず耳を傾ける。

「そうですか。それから、なんです?」

「凄くつらくて、悲しくて、泣いたり喚いたりしたかった。でも、我慢したんだ。そんなの“大人”のすることじゃないだろう? 僕はもう、子供じゃないから。大人になるなら、つらいことも我慢しなければならないから」

「でも――違ったんですね」

 宍上の相槌が心地良い。

「大人になれば、変われると思ったんだ。先生に認めてもらって、それから……もっともっと、何か良いことがあるって思ったんだ。だけど、何も変わらない。苦しいことはなくならないまま積もっていくし、何も良いことなんて起こらない。でも、先生のために頑張ろうって思って……」

 だけど、先生はもう死んでいる。

「僕はただ、先生に褒めてもらえればそれで良かったんだ。全部そのためで、それ以外のものなんて欲しくなかった。だけど、先生がいなくなったら、なんの意味もない。だから考えないようにして、死んだなんて嘘だって、ずっと思い込んで」

 なのに――気づいてしまった。

 自分は痛くてつらくて苦しいのだと、自覚してしまった。

 我慢したって、誰も助けてはくれない。

「僕は……もう、嫌なんだ……」

「……斎波さん」

 宍上が斎波の手を握る。それは、あのときアデルを抱きしめたリュシアンのようで。


「斎波さんは、アトラースってご存知ですか?」


 そして、脈絡なくそんなことを言った。

「あとら……?」

「アトラース。ギリシャ神話に出てくる、天を支える巨人です。地球を抱えている男の彫像とか、見たことありませんか?」

「し……知らない」

「僕、これでも子供の頃は本の虫だったんです。ギリシャ神話のお話は特に好きで、親から呆れられるくらい何度も何度も読み返しました」

 話の意図がわからずきょとんと惚けた顔をする斎波を可笑しそうに見ながら、宍上は続ける。

「色々あって、アトラースは神様に命令されて天を支えることになったんですね。天って、あの広い空のことです。巨人って言うからには、身体が大きくて力も強いんですけど、それでもたった一人で広い広い空を支えるのは大変だ。やめられたら良かったんでしょうけど、神様の命令には逆らえません。ずっとずっと我慢して背負い続けてきたアトラースも、ついに我慢の限界が来た」

「我慢の……限界」

 宍上は斎波の手をぎゅうと握る。鷲掴み、握り締める。

「メドゥーサっていう、見たものを石に変える恐ろしい怪物を退治して、その首を抱えた英雄がアトラースの元に訪れました。メドゥーサの力は死しても健在で、その顔を見たらどんな神や巨人でも石になってしまいます。それを知ったアトラースは英雄に頼みました。『私を石にしてくれ。石になれば、この苦痛から解放される』――英雄は頼みに応じてアトラースを石にしました。大きな大きな巨人アトラースはそうして、雄大なるアトラス山脈に姿を変えた……そんなお話です」

 宍上がなぜ今そんな話をしているのかわからない。

 ただ――自分を真っ直ぐに見つめる宍上の眼が、なぜだか恐ろしくてたまらない。

「似ている、って思ったんです。責任だとか、感情だとかを背負いこんで、人知れず押し潰されそうになっていたあなたと。このままだと、本当に潰されてしまうか、アトラースのように自ら石になってしまうんじゃないかって、ずっと心配してたんです」

 知っている。わかっているとも。君はいつだって僕を気にかけてくれた――でも、僕は。

「でも、あなたは“重荷”を下ろそうとしなかった。その辛さを、それを抱え続けている苦しさすら、認めようともしていなかった。僕は、あなたの味方です。あなたを助けるためならどんなことでもしたい。誰を敵に回したって構わない。僕はそのつもりで、この劇団に来たんですよ」

「な……に……?」

「気づいていましたか? この劇団には、誰ひとりあなたの味方はいません。あなたが強くて、才能に溢れた凄い人だから――あなたがどれだけ苦しんでいるか、まるで気づいてもいない。大きくて強い巨人だから、どれだけ重いものを持っているか見えないしわからない。知っていても、きっと平気だと思い込んでる」

 斎波に寄り添っているはずの言葉が、優しく支えているはずの手が、どうしてこんなにもおぞましく感じられるのだろう。逃れたくてもがこうとする斎波の手は、がっしりと掴まれ、押さえつけられている。罠にかかった獲物のように、しっかりと。

 手から離れ、床に転がった缶コーヒーは、どこか遠くに行ってしまった。

「だから……ちょっと、乱暴な手段を取ることにしました。あなたがいつか“気づいた”ときにここから逃げ出せるように、誰もあなたを引き留められないように。この狂った劇団ハコを内側から腐らせて、いつでも壊してしまえるように」

 やめてくれ、それ以上、何も言わないでくれ。懇願の言葉は、喉の中でひゅうひゅうと雑音に変わる。

 まさか――そんなことがあってたまるか。

 そんなことのために、君は。

「半分くらい、ですかね。パートナーのいる人も多くて、全員にはできませんでしたが……この劇団にいる女性の半分は、僕のことを愛してくれています。僕に他の恋人がいようものなら、きっといてもたってもいられなくなるくらい」


 ――彼が事務所を辞めるとき、付き合ってる女優の子がいたんだけど、その子がすごく荒れちゃって。


 口づけを交わしていた薄川。


 逢瀬の約束を取り付けていた初空。


 ――この間だって、彼の恋人を名乗る女が押しかけてきたのよ。


 すべての疑問が、氷解する。

「ええ、全部あなたのためなんです」

 花弁のような唇がほころび、真っ白いきばが覗く。

「あなたが望めば、僕はいつでもこの劇団を壊すことができます」

 劇団を守ってきた、つもりだった。

 先生が遺したこの劇団を守ることが、自分にできる唯一のことだから――力の限りを尽くして、できる手段はすべて講じて。

 なのに。

 この劇団が壊れようとしているのが、自分のせいだったというのか。

「な、んで……」

 舌が上手く動かない。喉が上手く開かない。言葉が、上手く組み立てられない。

「なんですか?」

「なんで、こんなことを……」

 なぜ、どうして斎波のために、こんなことを、ここまでのことをしたのか。一語一語のすべてに疑問符がつき、何から訊けばいいのか、自分が何を訊こうとしているのかわからない。形になっていない崩れた言葉が流れ落ちていく。

「こんなこと、僕は……!」

「あなたが、可哀想だったからです」

 宍上は、もう笑ってはいなかった。

 どこまでも真剣な眼差しで、斎波を見つめていた。

「少し変わった価値感の持ち主で、それゆえに誤った判断基準に固執してしまって、長年それに振り回されて苦しんで、なのに誰も気づいてもらえずに、外から見える姿だけで誤解され続けて、理解されることも寄り添ってもらえることもなく、その苦しみすら訴えることができずにずっと孤独だったあなたが――あまりに可哀想だったから」

 あのときの“アデル”は、こんな感情きもちだったのだろうか。

 自分の行動を、尊厳を一方的に否定されて、それに反論できない――だって、それは自分でも内心、よくわかっていて。必死で目を逸らしていたのに、目の前に突きつけられてしまったら。

 君にそんなことを言われてしまったら、僕は。

「斎波さん。あなたは、誰より可哀想な子供だ」

 この日、斎波正己を構築していたシステムは完膚なきまでに瓦解し。

 彼は、宍上紅蓮を嫌いになった。

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