ペルセポネ殺しの虚構
なんだか大変なことになっているらしい、ということは、今日初めて舞台に立つ新人である初空えみなにも理解できた。
「あいつ、どうしちまったんだ!?」
舞台袖のあちこちでそんな声が聞こえてくる。この舞台の主役の片割れ、斎波正己が何やらとんでもない失敗をしているらしいのだ。
(でも、まだ舞台は続いてる)
おかしな話だと思う。裏ではこんなに大騒ぎになっているのに、表はごく自然に、当たり前のように物語が続いている。問題があるなら中断すればいいじゃないか、と素人考えが浮かぶ。
「みんな言い出しっぺになりたくないからね」
初空の心を読んで答えたかのように、後ろから声がした。舞台衣装を着ていると誰が誰だかなかなかわからない。ふわふわと可愛らしい衣装を着た彼女の顔がすらっとしてクールな服を着ている生越たつみと結びつくまで少しかかった。
「どういうこと……ですか?」
ヒロインのパヴォットと初空演じるマルグリット、役の上で友人だからというわけではないのだろうが、生越は初空によく話しかけてくれていた。はきはきと喋る、輪の中心になるタイプの人間を苦手とする初空には正直あまりありがたくない配慮であったが。
「ほら、あいつ、斎波。あんなにアドリブだらけで、全然台本の台詞言えてないのはわかるでしょ?」
斎波の『やらかし』とやらは、どうやら台詞や動作など本来の進行を無視して演技をしていることらしい。一見なんの問題もなく進んでいるように見えるが、確かに細かい仕草や台詞が違うし、時々突拍子もないことを言っているようだった。
「アドリブが多いと駄目なんですか?」
「駄目ってわけじゃないけどね。ただ、みんながみんな、それに対応できるわけじゃない。決められたやりとりしか頭に入ってなくて、それから外れちゃうとフリーズしちゃうような落ちこぼれもいる。なんとか対応できても、話を続けるために気を回さなきゃいけなくなって、演技に集中できなくなる。しかもよりにもよって主役があんなことしてるんだ、あいつ一人のミスが全体に響いちゃうってことさ」
なるほど。お芝居をやっている人でも、役になりきってぽんぽん台詞が言えるわけではないということか。
自分の言葉なら何も考えずに喋っていられる人達なのに。
「だったら、なんで止めないんですか?」
「あいつが止まらないからだよ」
生越は舞台上の斎波を指して言う。斎波はアデルそのもののまま演技を続けている。
「台詞が飛んじゃってるのか、緊張で頭がぶっ飛んじゃったのかわからないけど。あんなになっちゃったら、普通やめようとするだろ。いや、やめないと駄目だ。ゲネプロとか本公演とか関係なしに、これはもう立派な“失敗”だよ。こんな状態で『最後までやりきったから成功です』なんて学生のサークルじゃないんだから。自分で舞台をメチャクチャにしておいて、平気で続けるなんてプロのすることじゃない。……少なくとも斎波なら、そうするはずだと思うんだけどな」
なんだか斎波についてやけに喋る。斎波と仲が良いのだろうか?
「なのに、あいつは続けてる。続けられるはずがないのに、まるで本物のアデルがそこにいるみたいに動いて喋って、物語を動かしてしまってる。他のキャストも裏方も、あいつに引きずられて動かされてる。見てごらん」
生越は舞台上の斎波へ顎をしゃくる。斎波はアデルとして演者に近づき、ごく自然に話しかけている。
「ムシュー、どうかしたかね? 僕の意見に何か問題が?」
「…………!」
硬直している演者の手を取り、それにそっと口づけを落として“アデル”は微笑む。
「ほら、これで納得してもらえるだろうか?」
「え、あ、ああ……」
演者はされるがままに動く。彼は確か、アデルとリュシアンに店舗となる空き家を提供したリュシアンの友人だ。無愛想なアデルの態度にむっとし、色々と文句を言ってくるのが彼の役柄だったはずだが、アデルの言動に翻弄されたのかそれ以上何も言わなかった。
「とんでもない奴だとは知ってたけど、あれは“怪物”としか言えないな」
小さく嘆息する生越。
「あれをどうやって止めるんだ? あいつ、あの調子で最後までやりきるつもりなんだ。誰があいつの矢面に立ちたい? たった一人で舞台を動かせてしまう男を止められる膂力を誰が持ってる? 誰もごめんに決まってる。だからみんな、怖くてたまらないのに引きずられて成り行きに任せてるんだ」
そんなにまずい状態なのだろうか。初空にはいまいち実感が湧かない。他人に自分の意思や命運が握られるのなんて珍しくもないだろうに。
「生越さんは止めないんですか?」
「私?」
ずいぶん気にしてるみたいだけど、という後半の言葉を飲み込む。生越は意外そうな顔をして考えるそぶりを見せた。
「……いや、私はどうなっても構わないし。所詮ゲネプロだ。がっかりして悪評を撒き散らす観客はいない。キミドリだのスポンサーだのは怒るだろうし、人生が潰される奴も何人かいるかもしれないけど、私にはどうでもいいことだ」
「どうでもいい、んですか?」
あっさりと、ごく自然に冷淡なことを口にした生越に驚く。それこそ『どうでもいい』と思っていた彼女に対して、初めて興味を抱いた。
「私は正義の味方じゃないし、自分の人生をそれなりに幸せにすることにしか興味ないからさ。義務付けられたことをやり遂げたあとは、適当に様子見するだけだよ」
ああ、この人は強い人なんだな。初空はわずかな落胆とともにそう思った。
この人は、自分の意思や行動を周りに歪められたり阻まれたことがないんだろうな。
「なんの話、してるんですか?」
張りつめた声をかけてきたのは薄川だった。“ジジ”のあだっぽく、少し荒れたメイクのせいか、いつもより顔つきがきつく見えた。
「斎波君の様子がおかしいから心配してただけさ。この舞台、大丈夫かなって」
「………………」
肩をすくめて言う生越に対し、薄川は睨むように舞台を見る。いつからか薄川は四六時中ぴりぴりしているようになった。元々苦手だったのが、ここ最近は声をかけるのすら躊躇われるような雰囲気を放っている。
「……どうなるにしろ、こんなところで呑気に喋ってる場合じゃないでしょ、初空さん。あなた、確かこれがデビューなんだよね?」
初空、と自分の名前を呼ぶ中に、わずかながらはっきりとした敵意がこめられているのを感じた。直接薄川に嫌われることをした覚えはないが……心当たりなら、ある。
「は、はい……」
条件反射的に背を丸めると、薄川はますます不満そうに唇を尖らせた。
「緊張しないで落ち着いているのは良い傾向だけど、気を緩ませるのは違うよ。自分の出番じゃない時も、いつでも舞台に出られるように準備しておくの。舞台は遊び気分で上がっていいところじゃないんだから」
テンプレートから組み立てたようなお説教に、横で聞いていた生越は呆れたように肩をすくめた。こういう状況でされる『お叱りの言葉』は、大概その内容が重要なわけじゃないのだ。自分のいらつきを正論に乗せて発散しているだけなのだ、と初空はよく知っている。経験則に従って、初空は出来る限り殊勝そうに見えるように頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……」
「……まあ、わかってるんならいいんだけど」
早々に謝られてしまえば、それ以上の追及は一方的な暴力になってしまう。薄川はむっとした顔をしながらもそこで話を打ち切った。
(あの人のことが好きなんだろうな)
薄川に悟られないように、こっそり横目で舞台上の宍上を見る。
初空が宍上と関係を持つようになってから、目に見えて薄川の態度が変わった。彼女がどこまで彼と関係を持っていたのか、あるいは片想いだったのかは知らないが、大方自分と彼が一緒にいるところを見てしまったのだろう。
仕方のないことだと思う。宍上は今の日本で一二を争うくらい女性に人気がある男性だ。彼と親しくしていればそれ相応のリスクが発生することはよくわかっていた。身に覚えがないことで言いがかりをつけられたり、向こうの一方的な要求で理不尽な目にあわされるよりはずいぶんましではある。
(でも、いったい何が良いんだろう。あの人のことで、そこまでむきになるほど)
『素敵な男の人』と付き合ったり、恋愛したり、セックスをしたり、そういう『世の女性がごく当たり前に憧れ、やっていること』を、初空は未だに理解できないでいた。
その点、“マルグリット”という女の子は初空によく馴染んだ。
マルグリットは娼婦をやっていたが、もちろん好きこのんでやっていたわけではない。兄リュシアンのように体力のある仕事は女である彼女にはできず、学のない貧しい女は“波止場”か“街角”で客が来るのを待つしかない。家計を助けるためでも、ジジという姉貴分が支えてくれていても、その“仕事”には常に苦痛がつきまとっていたはずだ。
(きっと、恋をするのも怖くてたまらなくなっちゃったんだろうな)
波止場で女を買う水夫は、きっと乱暴に違いなかっただろう。兄の友人達に優しい男はいたのだろうが、彼らも女を抱くときは悪魔のように恐ろしい顔になるのかもしれない。たとえそこが波止場でなくとも、『か弱く、傷つけても後腐れがない女』を見つけると途端に本性を現す男はいるのだ。
娼婦から女工へ、そしてお針子へと職を転々とするマルグリットがその後どうなったのかはひどくあやふやだ。『建築業の青年と恋に落ち、不自由なく暮らした』……脇役らしいといえばらしいのだが、たった数行で語られる顛末はあまりに味気なくて物足りない。はたして彼女はその後、おとぎ話のように語られるにふさわしいくらいの幸せを得ることはできたのだろうか?
演者としてよりも、この物語の一読者として初空はマルグリットの幸せを祈る。これまで十分すぎるくらい無情を味わってきたのだ。多少、御都合主義になったとしても、愛する人や家族、友人に囲まれて幸せな生涯を過ごしたのだと信じたい。
理不尽な不幸にまみれて終わるなんて、現実だけで充分だ。
「……君」
話しかけられたことにしばらく気づかなかったのは、そんな風にマルグリットに想いを馳せていたからだった。演技中に余計なことを考えてはいけないと言われるだろうが、子供の頃からの空想癖はなかなか治らない。慌てて意識を十九世紀のフランスから現代に戻す。
「
いや、違う。意識がマルグリットと混ざって混乱する。マルグリットと黒の貴婦人――アデルの場面は先程終わったばかりだし、彼はアデルではなくそれを演じる斎波だ。
斎波正己。
彼のことは、本当に苦手だ。できたら、面と向かって話したくないくらい。
「なん、ですか?」
彼と意識した途端、身体がこわばる。身体が大きくて、声が低くて、賢そうに正しそうなことを言う。斎波はまさに典型的な“男の人”だ。それに問題があるわけでも、彼が悪いことをしたわけでもないけれど。
怖いものは怖いし、二人きりになるのは嫌なのだ。
舞台袖の奥、衣装を着替えるためのスペースに、どういうわけか他に人はいなかった。不安が増幅していく。冷静さを失っていく初空は、主演でもうすぐ次の出番があるはずの斎波が悠長に人に声をかける余裕があるのか、というところまで気が回らない。
(……落ち着かなきゃ。ここで大声を出したら、表まで聞こえちゃう)
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。何があっても怖くない。虫だと思えばいいんだ。死骸は自分にたかる蛆や蝿にいちいち怒ったりしない。自分は死んでいて、それが当たり前のことだから。
「……前から、君のことが知りたかった」
彼が二の句を告げるまで、ひどく時間がかかったように思う。言葉の意味がよくわからず、初空は首を傾げた。
「わたしのこと、ですか?」
「君はどうして生きていられるんだ?」
そういえば、前にも彼に声をかけられたような覚えがある。
あの時も何か尋ねられて……そのときは色々あって、うやむやになったのだ。どうして、何がそんなに気になるのだろう? ほっといてほしいな、と口には出せない想いを抱く。
「言っている意味が、よくわかりません」
「君はつらいんじゃないのか。色々な我慢を強いられて生きてきたんじゃないのか?」
なんだか様子がおかしいような気がした。
初空は斎波のことをほとんど知らない。いつでも真面目な顔をして、正しそうなことを言っているような、漠然としたイメージしかない程度の付き合いしかない。それでも何か違和感を覚えるほど、今の斎波の様子は変だった。アドリブで物語を進めているのだ、おかしいのは自明の理ではあるのだが。
「僕は……私は、もうだめなんだ。つらくて苦しくて、もう我慢できなくなってしまった。――君はどうなんだ?」
斎波はひどく追い詰められたような、助けを求めているような顔をしていた。どうしたんだろう。何かあったんだろうか。……普通の人なら、そんな風に心配するのだろうか。
(面倒臭いなあ)
死体はいちいち、蛆の事情なんて聞きはしない。先程と同じように、適当に受け流すときの顔を作る。
「頼む、教えてくれ。君は、どうして――」
「我慢なんて、してないですけれど」
斎波の言わんとするところがまったく理解できないまま、初空は答える。
「――え」
「なんの話なのかよくわからないんですが。でも、“我慢”って、何かメリットがあるからするものですよね。ご褒美がもらえるとか、努力の結果を出すだとか、そういう見返りがあってのことじゃないですか。斎波さんがどうなのか、知りませんけれど」
見返りなんてなかった。“虫”は当然のように肉を食い散らかして、数々自分の良いように使ったあとは、その場に打ち捨てて終わりだ。そんな生き物に何が期待できるというのか。
「痛いです。つらいです、苦しいです。気持ち悪いです。嫌で嫌で仕方ないです。我慢なんて、できるわけないじゃないですか。だけど――だったら、どうしたらいいんですか。誰かが痛みを取り除いてくれますか。つらいことや苦しいことを忘れさせてくれますか。耐えても、忘れても、次から次に新しい痛みがやってくるのに? 耐えたって、我慢したって、誰もわたしを助けてくれなかった。猫や鳥の死骸でも見たみたいに、目を逸らして知らないふりするだけだった!」
話している間にもう一つ思い出した。よくあることだったから、気にも留めていなかったが。
この人は前にも
「仕方ないですよね、死骸を埋めて弔っても、誰も褒めてくれないから。我慢してまでやるようなことじゃないですよね、それこそ」
「…………!」
思いついたことをなんとなく口に出してみると、斎波はなぜだか狼狽したように後ずさりをした。
「えっと、何の話でしたっけ。すみません、関係のないばかりして。 ……我慢、でしたよね。だからわたし、別に我慢なんてしてないです。ただ、なんというか……“それが当たり前のこと”なら、そういうものだって受け入れてやっていくしかないですよね。そうじゃないとやってられないじゃないですか」
世界は理不尽で、意味不明で、死んだものは絶対に生き返らなくて。
だから初空は、“嘘の世界”に逃げ込むようになったのだから。
斎波はどうしてそんなことを聞いたのだろう。彼は何をそんなに“我慢”しているのだろう。先程よりももっと苦しげな顔をする斎波に、気にならないわけではなかった。けれど――
(どうでもいいか)
初空だって、道端の死骸をいちいち気にしていられるほどの余裕はないのだ。
「あなたも、もうやめればいいんじゃないですか? 我慢も、期待も。誰も何もしてくれなくて、だから嫌になったんですよね。これからも、きっとないですよ。みんな、自分の都合の良いようにしか動いてくれませんから」
あなたと一緒で。
斎波は呻くばかりで、それから何も答えなかった。
「志島塾ってね、変わった子が多かったんだ」
すっかり混乱している舞台を眺めながら、乾が独り言のように呟いた。
「今から思えば、青児さんがわざとそういう子達を集めて回ってたんだな。城戸くんみたいに他人に攻撃的だったり、浮島くんみたいに揉め事を起こしやすい子だったり。青児さん、なんて言ってたかな……『舞台の上でしか生きられない子を助けてあげたい』って、そういうつもりだったみたいだね。だけど、その中でも斎波くんは良い子そうに見えてたな」
あからさまな逆説に藍条からのリアクションを期待していたのか、乾はそこで言葉を切ってしばらく続きを語らなかった。しかし、いつまで待っても無言の藍条に痺れを切らしたのか、再び口を開いた。
「その頃はぼくも駆け出しだったし、志島塾にしょっちゅう顔出してたわけじゃないんだけどね。たまに覗き見に来ると、決まって斎波くんが礼儀正しく対応してくれたんだ。青児さん達先生の言うことをよく聞くし、練習も真面目にやってるし、絵に描いたように出来すぎた、良い子だったな。
「それで、何かの折に青児さんに話したんだ。『あの子、あんなに良い子なら、どこへ行ってもやっていけるでしょう』って。そしたら青児さん、面白いこと言ってたんだよ。変なこと言うなあって思ってたけど、正しかったのかなあ」
――あいつはとんでもない大嘘つきで、信じられないほど正直者だ。
「……斎波くんはね。とっても真面目で、良い子なんだけど、そうあるための努力を惜しまなすぎた、やりすぎたんだ。お祖父さんが亡くなったときだとか、お母さんが急病で病院へ搬送されたときだとか、普通なら何も手につかなくなるようなときも愚痴ひとつこぼさなかった。睡眠時間を削ってでも忘れずに宿題をやってきて、ご飯を食べ損ねてでも日課のトレーニングを欠かさなかった。さすがにちょっと怖かったな、お母さんが手術を受けた翌日でも、笑顔で挨拶してる斎波くんを見たときは」
舞台上の役者も、彼らを彩る照明や音響も、前代未聞の事態に手も足も出ないまま“流れ”に身を任せているのが見てとれた。それをまったく意に介さぬまま、乾は続ける。
「ぼくはほら、この通りのロクデナシの大人だし。子供の教育のことなんかよくわからないから、口を出せる立場じゃないんだけどさ。志島塾の子達を見てると、これで良かったのかなあって思うんだ。ときどきね。みんな立派な役者になったけど、ちゃんとした“人間”にはなれたのかなって。青児さん、役者になるための教育はしてたけど、そういうことは多分、教えてあげてなかったから」
「けれど」
舞台を食い入るように見つめていた藍条が、ふいに口を開いた。
「あなたはそんな人を見殺しにして、壊れてしまうまで放っておいたんですね?」
「……うん」
緩やかな笑顔を浮かべ、乾は頷いた。
「駄目なことなんだろうねえ、本当だったら、なんとかしてあげなくっちゃあいけなかったんだろうねえ。うん。でも……『このままにしておいたら、これからどうなるかな』って思っちゃったんだ。気になって気になって仕方なくなっちゃった。もしかしたらきっと、面白いものが見られるかもしれないから」
当事者が聞けば憤慨間違いなしの、ひどく身勝手な言葉だった。しかし藍条はそれには答えず、また黙り込んだ。
「それに、めんどくさい人の相手するのはめんどくさいしね」
ぼそりと乾が呟いた言葉にすら、まるで聞こえなかったように反応を示さない。
「しかし、みんな情けないなあ。たかだか一人の暴走も止められないなんて、本気で戦っていく気があるのかな。こんなんじゃ有楽町も全国公演も夢のまた夢だね……」
「――――」
やっぱり様子を見に行ってあげたほうがいいかな、と乾は腰を浮かせかけ、藍条が何か口にしたことに気づいて彼を振り向く。
「うん、今何か言った?」
「僕は――」
藍条は舞台を注視したまま、うわ言のような口調で言う。
「僕は昔、友人を自殺に追い込んだことがあります」
実際、乾拾が他人の言葉に度肝を抜かれたのは本当に久しぶりのことだった。
「……そうなんだ?」
相槌というよりは聞き流しに近い返事である。本当に動揺するとちゃんとした
「高校生のときです。彼は、生涯二度と出会えないような、心からの親友と呼べる存在でした」
一方の藍条は普段の冷静さとはまったくかけ離れたうわ言のような口調のまま述懐する。
「学校の屋上からの飛び降りでした。幸いにも一命を取り留めましたが……彼の人生はもはや取り返しのつかないほどに破滅していました。クラスメイトはおろか、教師からも疎まれ、忌み嫌われていた彼に居場所などあるはずもなく。ほどなく自主退学し、行方不明になりました」
「……そのクラスメイトや教師がきみの友達を嫌うように仕向けたのが、きみの仕業だってことなのかな」
つまり、学校ぐるみのいじめの首謀者ということではないのか。物腰穏やかで良識人な藍条の現在の現在からは想像もつかない。
(――いや、そうでもないか)
乾は彼の執着癖を本能的に見抜いていた。常識や良心があり、隣人愛を有していながら、突発的な衝動、不道徳な欲望ですべてを投げ出してしまう――それは乾の生き方とよく似ていて、だから彼に期待したのだ。
「その子のことが、そんなに嫌いだった?」
「いえ、大好きです。今も彼を思うと胸が詰まる。彼の受けた傷、味わった絶望を考えると泣き叫びそうになる」
乾の問いに、藍条はきっぱりと答える。
「けれど――見たかった。彼が理不尽に虐げられ、苦悶し打ちひしがれるさまを。嘆き、恨み、怒りに燃える彼が僕の息の根を止めんと襲いかかってくるのを。世界の誰より愛しい彼が、世界の誰より僕を嫌ってくれるのを、どうしても願わずにいられなかった――!」
舞台を見つめる藍条の眼からはほろぽろと大粒の涙が流れ落ち――その口元は大きく開かれ、歪んだ笑みを形づくっていた。
「もう二度とするまいと思っていました。自分の性嗜好のために他者の心身を傷つけるなんてあってはならない。死に追いやるなどもってのほかだ。しかし――もしも誰にも被害を与えることなく、それができるのなら。生身の人間が演じる架空の人生を、思うさま壊すことができるのなら――」
彼の友人に対する悲嘆か、自らの浅ましさを呪っているのか、あるいは歓喜に打ち震えているのか。涙の意図を読み取ることができずとも、彼が笑みを浮かべている理由は察することができた。
(彼は、希望に出会えたんだな)
それが確信できただけでも、彼をゲネプロに誘った意味があったと思えた。
「良かったねえ、藍条くん」
座り直し、乾はしみじみと言う。
「ぼくら、正しくは生きられないけれど、正しい世界ではやっていけないけれど。
藍条は嗚咽交じりに頷いた。
にわかに騒がしい声が近づいてきた。
「もう保たないって! 早く斎波さん探してよ!」
「そんなこと言われてもな……!」
表に響きそうなほどばたばたとした足音がすぐそばまで来ている。斎波を探しているのだろうか、と初空は床にうずくまっている彼を見た。
「行ったほうがいいんじゃないですか」
「………………」
斎波は答えず、ひゅうひゅうと不安定な呼吸を繰り返すばかりである。
(――これが初めて、なのかな)
この人は誰かに殺されたことも死んだこともないんだ。だからこんなに痛がっているんだろう。死骸は痛みを訴えることもできないのに。
(なんか――いやだな)
斎波に対し、“
(だったら、今死んでしまえばいいのに)
そんなに痛いなら、痛いのが嫌なら。ここで息の根を止めてしまえば全部楽になる。少なくとも――いちいち痛がって悲鳴をあげる必要はない。初空は髪を結い上げていたリボンを解いた。おしゃれに、観客を魅了するための飾りも、こうして手にすればただの凶器と変わらない。
「――――」
斎波は下を向いているから、簡単にその首に巻いてしまえると思った。しかし初空の腕は何者かに掴まれ、反射的にリボンを床に落としてしまう。舞台のほうから歩いてきた彼は初空ににっこりと笑みを見せてから言った。
「斎波さん。みんながあなたを待ってますよ」
「ししがみくん……」
初空が何もしていなかったかのように、そこにいないかのように、宍上は斎波に声をかける。斎波は顔を上げ、虚ろな眼差しを宍上に向けた。
「主役がいないと舞台は終われませんよ。行きましょう? 何をするにも、ちゃんとこの物語をやりきらなければ。僕も精一杯力を貸します」
斎波の目が徐々に焦点を合わせていく。その視線はまっすぐ宍上に注がれていて、先程まで言葉を交わしていたはずの初空は、すっかり消えてなくなったかのように。
「……すまない。少し、混乱していたようだ。今はどうなっている?」
「
“道端の死骸”を放置して、彼らはお互いの衣装を整え合いながら舞台袖へ向かっていく。初空は茫然と二人の後ろ姿を見た。
別に、よくあることだ。……だけど。
「ああ――初空さん」
と、宍上が初空を振り向く。その顔にはやはり、にっこりと完璧な形の笑みが浮かんでいる。
宍上紅蓮。
やっぱり彼は、悪い人だ。
「ありがとうございます。斎波さんに、声をかけてくれたんですね」
さもそれが事実であるかのように言われ、初空は頷くことしかできなかった。
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