エウリディケは語らない

「おーい、ここのバミりずれてるぞー。誰だこれ貼ったの」

「ころがしチェックしたいんで一旦地明かり消していいですか?」

「やべえワイヤー外れたっ! ちょっと誰か手ぇ貸して!」

 舞台の上下、表裏でスタッフ達が慌ただしく走り回っている。いつも“出来上がった”舞台しか見たことのなかった藍条にとっては新鮮な光景で、素人として客席に座っていることしかできない身には少し居心地が悪かった。

 手伝ったほうがいいだろうか。照明の当て方も大道具の位置どりも何一つわからない自分だが、力仕事くらいならできる。そう提案してみたが、スタッフ達に丁重に断られた。

「万が一手指に怪我でもしたら仕事に差し障りが出るでしょう?」

 すっかり執筆・出版業がデジタル化したこのご時世、多少の怪我で休筆することはそうそうないのだが。

 妙なところで鈍感な亜理愛とは違い、自分と彼女の仲が周知の事実であることは藍条もわかっている。藍条が怪我をしたら亜理愛が黙っていないと思われているのだろう。……亜理愛は他人に思われているほど、ヒステリックで狭量な人間ではないというのに。複雑な気持ちをため息にして吐き出す。

「藍条くんこんなとこにいたの? 退屈でしょう、パンフレットの見本でも読む?」

「乾さん?」

 にこにこと手を振りながら乾が歩いてくる。

「演出のほうはいいんですか? 色々仕事があるのでは?」

「疲れたからサボって来ちゃった。今頃次美ちゃんが頑張ってくれてるよ」

「い、いいんですか……?」

 照明や音響への指示だの、演者達の動きの確認だの、やらなければならないことはいくらでもありそうだが。門外漢である以上うかつなことは言えず、指摘する勇気はなかったが。

「藍条くん、みんなと一緒に小屋入りしたの初めてでしょう。どう? 舞台裏を見た気分」

 藍条の隣席に座りながら乾が尋ねてくる。

「ええ、そうですね……なんと言いますか、世に言う『白鳥の水かき』とはこんな感じなのか、と」

 実際の白鳥は慣用句で言われているようにじたばたと足をもがかせているわけではなく、浮力に任せて優雅に水面を泳いでいるらしいのだが。藍条の返答が気に入ったのか、乾は嬉しそうに手を叩いた。

「そうそう。裏ではこんなにばたばたしてるのに、観客には『初めから終わりまで完璧です』って顔見せてるんだよね。面白いでしょう、演技してるのは役者達だけじゃないんだよね」

 公演に参加している全員が一丸となって完璧な形の舞台を作り上げ、演じる。その素晴らしさに心打たれたのは藍条も同じだ。

「花形、裏方と役割は違えど、見ているもの、目指しているところは一緒なんですね」

「うん……あ、そこ! 角度が二十度くらいずれてるよ!」

 いつのまにか乾の視線は壇上のスタッフに向けられていた。大道具の類をせっせと配置していたスタッフが「うわ、はい!」と慌てたように返事をする。この席から舞台上まではかなりの距離があるのによく気づくものだ、と藍条は驚く。

「ええと、なんの話をしてたんだっけ。そうだ、ぼくらは白鳥の脚なんだよね」

 と、乾は藍条に意識を戻す。

「ぼくねえ、学生の頃、二十年くらい前だね。お姉さんが自殺したんだ」

「……はい?」

 あまりに唐突に放たれたその一言に、藍条はぽかんと口を開けた。

「その頃は藍条くんもまだ幼稚園かな? まあ、結構な大騒動があったんだ。色々あった末に、とうとうお姉さんったら首を吊っちゃったんだな」

 普段通りのほんわかとした語り口で語られる凄惨な過去に藍条はただ目を白黒させることしかできない。

「それは、その……」

「でさ、首吊りのホトケさんってひどいことになるでしょう。首はぐにって折れちゃうし、手足はこわばったままで固まっちゃうし、顔なんか青黒く浮腫むくんで見てられないくらいになっちゃうんだよね。藍条くんも見たことある?」

「い、いえ……」

 首吊り死体などそうそう見られるものでもない。藍条は不可解な乾の態度に困惑し、曖昧に語尾を濁した。

「でもね、お葬式でさ、お棺に入ったお姉さんは全然違った姿なんだ。ちゃんとしたドレス着せられてさ。すらっとした手足が元通りになってて、顔もお化粧で綺麗にしてもらえてたんだ。ああいうの、納棺師さんの仕事なのかな。ほら、なんだっけ、おくりびと?」

 乾は舞台に眼差しを向けている。彼が今何を思っているのか、藍条に測ることはできなかった。隣にいるよく見知った人間が、初めて見る生き物のように感じる。

「うん。まるで生きてるみたいだった。生きてる時のお姉さんそのものだった」

 そのときふと、藍条は奇妙な情景を思い浮かべた。

 棺の中に生きたまま横たわっている女。それを棺の外から眺める乾の周りには、首を吊った女がいくつもいくつもぶら下がっている。果たして誰が死人か生者か、傍目からは判別できない。

 棺の中の女が真実であるようで。

 棺の外の乾が虚構であるようで。

「それで――思ったんだよ。ぼくは延々と続く現実より、一瞬の嘘が好きなんだね。一日と保たない綺麗なお飾りが愛おしくてたまらないんだ」

「一瞬の嘘……ですか」

「うん。だから舞台が好きなんだ。たった一瞬のために一生懸命頑張る裏方が、嘘の中で生きたり死んだりする役者が愛おしくてたまらない」

 そして再び、乾は藍条を見た。

「きみもそうじゃない?」

「えっ……」

「きみも、そういう嘘のことが大好きなんでしょう」

 鼓動が早まるのを感じる。誰にも知られていないはずの自分の秘密を、乾に見透かされたような気がした。

「ど、どういうことですか?」

「藍条くんならきっとわかってくれると思うよ。ゲネプロってねえ、本番だけど本番じゃないんだな。だから、本番じゃ起こらないこと、起こってはいけないことがたくさん起きるんだ。嘘と本当のが一番曖昧になるときなんだ」

 その言葉はまるで、“そちら側の世界”の住民がいざなっているようだった。

「藍条くん、今日は楽しんでいってね。今日はきっと、面白いことが起こるから」




 開演三十分前。最終確認を終えた役者達は楽屋に集まり、士気を高めるためのミーティングを行っていた。

「あー、いいかお前ら……なんつーか、そのだな」

 なぜ自分が音頭取りのような真似をしているのか疑問に思いながら枯木が口を開く。いくら古参とはいえ、こういうお鉢が自分に回ってくることは普通ない。いつもならあいつが口火を切るんだが、と斎波を横目で見る。緊張しているのか、普段の泰然自若としている様子はなく、なんだか頼りなく見える。

 斎波が緊張しているところを見るのはこれが初めてであることに、同じく緊張している枯木が気づくことはない。

「ここにいる奴らは――ああ、宍上や生越は違うが――こんな大舞台初めてのはずだ。去年か今年入ってきたばかりの新人はもちろん、俺みたいな古株も、夢にだって出たことはねえ。一生一度、あるかないかの機会だ」

 うっかり変なことを言って士気を下げたくはないが、かといって気の利いたことはなかなか思いつけない。いかに周りにいた大人達が“ちゃんとしていた”かを今更になって痛感する。もう三十路も見えてきたというのに、自分は全然成長できていないのだ。

「……けど、けどだ。『これっきり』にはしたくねえだろ。役者になって、花道大舞台を夢見て生きてきて、それが叶ったのでハイおしまいですってわけにはいかねえだろ。『ここらで結構、満足です』って思ってるか? ……俺は違う。俺はもっともっとデカいところに行ってみてえ」

 才能や情熱がなくても、大きな夢がなくとも、ここまで来てしまったからには立ち止まるわけにはいかない。枯木には枯木なりの矜持があるのだ。

「もし……じゃねえな、きっとこの公演が成功したら、俺達もっと凄くなれるぜ。ここで浮き足立ってたのも笑い話にできるような場所で、ライトもカメラもバンバン向けられるんだ。だったらこんなところでびびってらんねえよな? キミドリの奴らが頭下げて頼んでくるような“仕事”を見せてやろうじゃねえか!」

 言い切る頃には自分でも驚くほどに声が大きく、早口になっていた。枯木は本来、“こういうノリ”に対しては冷めた目でしか見られないタイプである。遅れてやってきた気恥ずかしさに耳が熱くなる。

「……えー、だからまあ、頑張ろうな?」

「――はいっ!」

 一番最初に反応したのは初空えみなだった。拳を握りしめ元気良く返事をしたあと、きょろきょろ周りを見回し、それが自分だけであることに気づいて顔を赤らめる。

「……あ、あの、えっと……」

「うん、頑張ろう。私ももっと、色んな舞台で戦いたい」

 パニックになりかけた初空の肩を叩きながら生越が言う。それを皮切りに、他の役者達も口を開く。

「まあまあの演説だったぜ、枯木さん」

「そうだよね、私達、これからだもんね」

「気合い入れていこうねっ!」

「お、おう……」

 役者達は枯木を囲んで集まる。肩や背中を叩かれる枯木は面はゆさと嬉しさに顔を赤らめ、背中を丸めた。

「ほらみんな、あれやろう! 手ぇ出して!」

 輪になって手を合わせる、円陣の定番だ。それまで乗り気でなかった者も空気に押されて手を差し出す。

「ほら、斎波さんも」

 宍上も手を差し出しながら、輪から外れていた斎波に声をかける。

「ああ……」

 斎波がゆるゆると手を出すと、誰かが掛け声を出す。あたかも、そうすることで役者達の心が一つになると信じているように。

「せーの、えいえいおー!」

 誰一人異変に気づかぬまま、舞台が始まる。




 幕が上がり、スポットライトに照らされる舞台。そこは既に十九世紀のフランス、寂れた町の光景が再現されていた。パン屋とそれを買う客、通り過ぎる通行人、座り込んで施しを求める物乞い。ざわざわとした人々の営みが仮初めの光景に生命力を与える。

 しかし――藍条の目を引いたのは人々の後ろ、家並みや風景を表現する大道具のほうだった。

「あれは……布、ですか?」

 思わず本番中には御法度の声が出てしまう。

 本来なら街並みのセットが組まれるか、書き割りが置かれているだろう背景。それらはすべて、セットの上に布を被せるという方法で作られていた。パン屋の店構えも、戸を閉ざした家々も、大きな布に描かれた絵だった。さながらクロスが敷かれたテーブルのようにセットが作られていた。

「これねえ、最初言った時は『貧乏臭い』ってキミドリの人に怒られちゃった」

 自分の失態に気づいて慌てていると、隣に座っていた乾が声を潜めて言った。冷や汗を浮かべて振り向くと、乾が悪戯っぽく微笑む。

「大丈夫。さすがに主役達が入ってきたら駄目だけど、まだ始まったばっかりだからね」

「こんな背景美術、初めて見ました。よく出来ていると思いますが……」

 大劇場といえば、やはり本物と見まごうほどの精巧な舞台セット、という偏見があったことは否めない。もちろんそこは一流の美術、見惚れこそすれ見劣りすることはないのだが……一目見て面食らってしまったのは事実だ。

「今までよりずっと予算もあるんだから、こんなアングラっぽいことするなって亜理愛ちゃんもいうんだけどね。でも、ぼくは絶対これで行こうって脚本ホンを読んだ時から思ってたんだ。藍条くん、前言ってたでしょう。『この物語はアデルそのものだ』とか」

「ええ、そうですが……」

 そんなことを言ったような覚えはあるが、それとどうこの演出が繋がるのだろうか。困惑しながら舞台に目を戻す。

「『あの革命を、もう一度やり直しませんか』」

 踊るように出てきたのは学生らしい服装の青年達だった。街行く人や物乞いに何やらチラシを配っている。彼らは革命思想を志す学生運動だ。本来は終盤に入るシーンなのだが、“掴み”のために冒頭に持ってきたのだ。

「『去れ、無礼者ども。我々の商売の邪魔をする気か』」

「『ムッシュ、落ち着いてください』」

 物乞いのうちの一人が立ち上がり、激昂して学生に掴みかかる。困惑する学生に物乞いは喚き散らすが、やがて自らの惨めさに泣き出してしまう。迷惑そうに、あるいはまったく無関心に騒ぎを見つめる他の物乞いも、想定外の事態にうろたえる学生も、薄汚れて痩せた男の顔にかつてあった美しさの名残を見出すことはできない。

 弱々しくも透き通った声。かつては艶やかだっただろう長い黒髪。そう、彼の正体は――

「見てて。ここからすごいんだよ」

 唇に人差し指を当てるジェスチャーをしながら乾が小さな声で言う。いつのまにか帽子を被った小柄な少年が登場していた。

 帽子の少年は騒ぎを気にも留めずパン屋の前で足を止め、客と話をする店主をじっと注視する。店主がこちらに目を留めていないと確信すると、少年はそっと店先に近寄った。

「『あっ、こら、待ちな!』」

 さっとパンを数切れ懐に入れると、少年は猫のような敏捷さで店から離れる。気づいた店主が大慌てで少年を追うが、少年は器用に通行人を避けながら素早く逃げる。

「『君、待ちなさい!』」

 パン泥棒に気づいた学生が少年を止めようとする。学生に腕を掴まれ、つんのめりかけた少年は、近くの家の壁にしがみつきながら学生を振り払おうとし――

「……!」

 気をつけていなければ今度こそ大声を上げてしまうところだった。少年は掴んだ壁――世界観を構成していた布を剥ぎ取りながら駆け出した。大きな一枚布を旗のようにたなびかせながら少年は走る。何かを訴えるかのように、命を懸けているかのように――必死さ、悲壮さすら感じる横顔に惹きつけられ、周りのアンサンブルが同様に町を彩る布を剥がしながら立ち去っていくことにしばらく気づけなかった。

 布が剥がされ、様変わりしていく町の中に取り残された物乞いの男。――いや、違う。藍条は愕然とする。そこにいたのは酷く落ちぶれ、悲惨の境地に立たされた男ではない。まるで魔法――たなびく布の陰に隠されたとき、一瞬で着替えたのか。上流階級の装いの、気品あふれる佇まい。神々しいかんばせには若さと自信に満ちている。

 そして布が剥がされた後には薄暗くも広い屋敷が現れた。ブルジョワジーが住んでいるのであろう、立派な門構え。それがそこにいる“彼”の屋敷だと気づいたとき、藍条は得心する。背景も、彼に合わせて“衣装替え”をしたのだと。

 美しい青年は自らの屋敷を背に、苦しみや悲しみを一度も味わったことのないような完璧な笑みを浮かべた。

「アデル……」

 自分の呟き声すら聞こえないほど、藍条は眼前の光景に没入した。




 順調に物語は進んだ。

 アデルとリュシアンの出会い。弟との喧嘩、失業によって消沈したリュシアンに、アデルが共に店を開く提案を持ちかける――場面転換を減らすのと尺の調整のため、原作とは時系列が少し変えられている。

 家族に食べさせるために働き続けて疲労困憊になったところに不幸が重なり、頼るあてもないリュシアンはアデルの屋敷を訪ねる。アデルはリュシアンを快く受け入れ、怪我の手当てをしたり食事を分け与える。

「『あ……う、すみません、旦那さま。こんな、みっともないところばかり……』」

「『とんでもない。だれかのために苦しむことの、なにがみっともないものか』」

 斎波は今になってようやく、アデルがリュシアンに異常なほど入れ込んでいた理由がわかった気がした。

 必死になってうわべを取り繕っているが、その実孤独で愛に飢え渇いているのがアデルという人間だ。打算でも義務でもなく、心からの思いやりで誰かを助けようとするリュシアンがどれほど愛おしく思えたことか。立場、プライドという名の袋小路に閉じ込められた彼にとって、この迷い込んだ小鳥は何より変えがたい。帰るところがあるのだろう。そのさえずりを聴かせる相手が他にも大勢いるのだろう。けれど――自分から離れないでほしい。ずっと、自分のそばにいてほしい。

 僕はもう、たった独りなのだから。

(ああ、そうか)

 ふいに気づく。

(僕にはもう、君しかいないのか)

「『だめです。おれ、もう帰らないと……家に、家族が』」

 アデルに甘えていたいのを堪え、リュシアンはふらふらの身体を押して立ち上がる。待って、まだ行かないで――そう言いたいのを飲み込んで、「『そう、か』」と頷く。せめて少しでも長く彼のそばにいようと、玄関に向かうリュシアンを追いかける。

「『――その扉はだめだっ!』」

 リュシアンが誤って開けようとした扉を見て、真っ青になって引き留める――外は嵐、折り悪く落ちた稲妻が、窓の外から部屋を照らした。

 梁からぶら下がった二つの首吊り縄。

 

「あ」

 それは物語中の出来事で、公演上の演出で、斎波の人生には一切関係のないものだ。少なくとも斎波の理性はそう理解していた。だが――それを見た途端、彼のすべてが停止した。

 取り繕っていたうわべが崩壊し、舞台上のアデル自分さいなみになった。

「あ、あああ、ああ」

 身体の力がごっそりと消失し、がくりとその場に膝をつく。首吊り縄から目が離せない。首を入れるための輪が斎波を見て笑っている。

「『……旦那さま?』」

 台本通りにリュシアン――宍上が駆け寄ってくる。まだ斎波の異変には気づいていない。

「ああ、あ……」

 アデルは両親からの承認あいをずっと欲していた。

 商売に勤しむ父母の背中に憧れ、見よう見まねで商売の勉強を始めた。しかしアデルがどれほど努力しようと、両親がそれを認めることはなかった。お前はまだ幼い、大人の話に入ってくるんじゃない――自死を選ぶほど追い詰められようと、アデルの意見に耳を貸すことはなかった。

 本来背負う義務もない両親の借金を抱えてまで事業を引き継いだのも、それが発端と言えるだろう。自分は息子としてふさわしい働きができていると、この世にいない親にアピールでもするかのように。


 ――わかってねえな。てめえは別に、何も頼まれちゃあいねえだろ。


 ――これはすべて俺自身の意思だ。死人に褒められるためにやっているんじゃあない。


 そうだ――斎波ぼくは、アデルは、


「どうして――僕を置いて逝ってしまったんですか!」


 ずっとあの人に褒められたくて、それだけだったのに。




「……え?」

 現実に引き戻される。アデルの口から発された慟哭は、藍条にはまったく覚えのない台詞だった。

 確かこの場面は……リュシアンが開けた部屋の光景を見て両親の死をフラッシュバックしたアデルが、リュシアンの慈愛で立ち直るシーンだったはずだ。“あそこ”にいるアデルは、確かにショックを受け、動転している様子だ。……だが、何か違う。何か、おかしい。

「乾さん……」

 意見を求めようと横の乾に小声で話しかける。しかし乾は、らんらんと目を輝かせて舞台を注視してる。

「藍条くん。ゲネプロってね、こういうことがあるんだよ」

 そして独り言のようにそう呟いた。

「緊張したり、気合いが入りすぎちゃったり、とにかく“役”に入り込もうとして、自分と役の境目がわかんなくなる子がいるんだね。あそこにいるのは斎波くんだけど、アデルなんだな」

「自分と役の区別がつかなくなる、ということですか……?」

 そんなことがあるのか――あっていいのか。演技と本心の区別がつかなくなってしまったら、最早シナリオ通りに物語が進まなくなり、公演が成り立たなくなってしまうのではないか。藍条の不安をよそに乾は続ける。

「嘘と本当の“あわい”がなくなったんだ。だったら、あそこで起こるのは全部本当みたいなものさ。あそこにいる彼は、本当に考えて悩んで笑って泣いて、生きて死ぬんだよ。……斎波くんくらい凄い子がやってくれるとは思わなかったけど」

 本当に生きて、死ぬ……乾の言葉は理不尽で意味不明なもののはずだった。何十人もの人間が関わり、その運命が左右される舞台を預かっている者の言葉とは思えない。

 しかし、藍条は既に舞台上の斎波アデルの姿に心を奪われかけていた。

「……彼は、本当に?」

 生唾を飲み込む。喉がからからに渇く。肌が粟立ち、心臓の鼓動が早まる。ある種の性的衝動にも似た興奮が藍条を襲っていた。

 見たい。演技という境界を超えた、彼の苦痛を、煩悶を。この特等席から、ひとりの人間の人生が見るも無残に崩壊していくさまを。誰も傷つけることない、罪無き傍観者としてそんなことができるのなら。

「一緒に見ようよ、藍条くん」

 乾の声がどこか遠くに聞こえる。

「きみとはきっと、趣味が合うと思っていたんだ」

 藍条は再び我を忘れる――今度は自分自身の欲動の中へ。それまで自ら戒め、律していたそれは檻から解き放たれ、抑えきれぬ衝動となって藍条の心を支配した。




「『旦那さまっ!? 旦那さま、しっかり!』」

 宍上も異変に気付いたようだった。台本にない台詞アドリブを言い、明らかに錯乱した様子の斎波である。自分の台詞を言いながらも、内心本当に困惑しているのが見て取れた。

 ――話の筋を戻さなければ。

 自分が今何をしてしまっているか、かろうじて理解するだけの理性は残っていた。本番中に突然パニックに陥り、場面をめちゃくちゃにするなんてプロのすることではない。私情など捨て、仕事に徹しなければ。今はゲネプロとはいえ、この公演に役者人生を懸けている団員だっているのだ。

 なのに。

「僕はあなたの子供だ! あなたに認められて、褒めてもらえればそれで良かったんだ! なのに、なのにどうして――」

 口をついて出る言葉を止めることができない。

 自分は一体何をやっているんだ。自問する理性は奥へ奥へ追いやられている。今斎波を動かしているのは“アデル”という役そのものであり、それに共鳴した彼自身の“感情”だった。本来理性によって制御されているはずのものが無秩序に暴れ狂っている。

 今まで抑え込んできたものが、“アデル”という形を得て実態化したのだ。

 視界の端に舞台袖が見える。待機している他のキャストが、信じられないものを見る目で自分を見ているのがわかった。ありえない、あってはならないのだ、こんなこと。

「――どうか帰ってきてください! 僕を見て、こんなに頑張ったんだ! 辛いことも嫌なことも我慢して……!」

 眼から零れる涙が、喉から漏れる嗚咽が、アデルを通して舞台せかいに溢れ出す。止められない。抑えるべき箍は壊れ、仕舞うべき箱は見つからない。筋を乱された物語が軋む音が聞こえる。彼によって、舞台はまもなく破綻を迎えようとしていた。

 ――ああ、誰か。

「僕を……助けて……」

 酷く鈍重になった身体の重みに耐えかね、彼は床に手をついた。もう、駄目だ。終わる、壊れてしまう。舞台も、自分自身も――


「アデル!」


 暖かい腕が、彼を支えるように抱きしめた。

「っ……」

「貴方はひとりじゃない。僕が……おれがそばにいます。おれが、貴方を見ていますから……!」

 こんな台詞は台本にはなかったな。

 宍上に抱かれ、ぼんやりと思う。涙でぼやけた世界の中で、自分を抱く宍上の体温だけが確かに感じられた。

「リュシ、アン……」

「おれじゃあ、代わりにはなれないかもしれないけれど。おれに貴方の想いはわからないけれど……でも、おれは貴方のことを見ています。貴方をひとりぼっちにはさせない――!」

 自分のせいで狂ってしまった物語を元に戻そうとしているのだろう。今ならまだ、『ショックで錯乱しているアデルをリュシアンの優しさで癒す』ところまで軌道修正ができる。他の役者達のためにも、一刻も早く元の流れに戻さなければならない、と理解できた。

 だが――そのときは、宍上の言葉が“リュシアン”としての演技ではなく、明確に斎波に向けて発せられたように思えた。

「リュシアン、君は」

 宍上君、君は。

「辛いことも嫌なことも、もうひとりで我慢なんてさせない。おれがいます。一緒に、おれが支えますから。だから……もう、泣かないで」

 僕をずっと、見ていてくれたんだな。

 斎波はで身体を起こし、宍上の顔を見た。自分同様に目を潤ませた彼の顔には、“優しさ”以上のものが浮かべられているように見えた。

 ああ――やはり、彼は。

「……『もう少しだけ、こうしていても?』」

 斎波の表情が和らいだことに気づいた宍上は、リュシアンの台詞を使って斎波に問う。斎波は小さく頷き、再び宍上に身体を預ける。

 宍上を信じよう。斎波はようやく、その決心がついた。

 自分がどれだけ疑っていても、彼は変わらずに斎波を慮ってくれている。役者として、一人の友人として、常に全力で斎波に向き合ってくれている。彼が何者であろうと、その事実が変わることはないのだ。自分の愚かさを恥じ入り、詫びるように、斎波は宍上の胸に頭を押し付けた。

 宍上の手がウィッグ越しに斎波の頭を撫で――安心したように照明が進行通りに切り替わる。舞台袖の者達がほっと胸を撫で下ろしているのを感じた。

 そしてまた、順調に物語は進んだ。

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