オルフェウス盲目

 志島先生が亡くなったのは二年前のことだった。

 その日は春らしからぬ大雨で、喪服に着たワイシャツが湿気で首筋に張り付くのが不快だった。どうどうと降る雨音が大人達の話し声を塗り潰す。

 はたして今は本当に現実なのだろうか。

 容態が急変したと聞いても到底信じられなかった。つい数日前見舞いに行って、元気そうな顔を見たばかりなのだ。

「大学も今年で卒業か? 早いもんだなあ」

 やつれて、点滴が打たれてはいたけれど、そんなふうに笑っていて。

「私も早く戻らなくちゃな。あんなことがあったんだし、妻と亜理愛が心配だ」

 きっと来月には現場に戻ってきてくれると思っていたのに。

 棺に収まった志島先生は異様に小さく、黒いジャケットも握り込んだ数珠もまるで似合っていなかった。

「城戸君……来なかったですね」

「彼も今は大変だもの。仕方ないわ」

 周りの声に雨音が混じり、ラジオの砂嵐のようにぼやかしていく。せっかくの食事の席も、まるでフィルターがかかったかのようにくすんで薄汚れていて、何を見ても食欲を抱くことができない。

「まさかこんな立て続けに……亜理愛ちゃん、大丈夫かなあ」

「つうか、自分らの心配した方がいいんじゃねえの? 座長がいなくなっちまったら、俺らはどうなるんだ?」

「馬鹿、今そんなこと言うなよ。葬式だぞ」

「突然すぎてなんも決めてなかっただろうし……やっぱり、亜理愛ちゃんが?」

「身の振り方、決めとかないとな……」

 腹立たしいほど耳障りな音に耐えられず、斎波は席を立つ。

「斎波君? どうしたの?」

「お手洗いを借りてきます」

 本当のところは、別の場所に行けるならどこでもよかった。現実から目を背けていられる場所なら、どこへでも。

 ホールを抜け出し、廊下を歩く。雨音はより鮮明になって耳を打つ。窓の外はいやに彩度が低く、灰色の世界に濁った雫が降り注いでいる。

「グスコーブドリだ」

 そんな景色を見ていると、唐突に昔のことを思い出した。

 ざあざあと降る雨が、グスコーブドリが作中で降らせた人工雨を連想させたのか。斎波の脳裏にはまざまざと、初めて志島先生と出会った日のことが浮かび上がっていた。

 あの日のように、大声で叫んでみようか。

 この胸の中に渦巻いている感情きもちも、声として出してしまえば少しは晴れるかもしれない。ここは舞台の上じゃなく、今は何者も演じていないけれど。“斎波正己”として、感情を思うままに使うのも、たまには悪くないかもしれない。

 そもそもどうして自分が感情を表に出すのをやめたのか、その理由も忘れたまま斎波は茫然と歩く。

 ふらふらとあてもなく歩くうちに、灰色の視界に二人の人影が映った。

「……あれは」

 志島亜理愛と藍条遼基が交際関係にあるのは周知の事実だった。

 同じ大学に在籍していたことから出会い、在学中から現在に至るまで、たびたび二人で外出する姿が目撃されている。マスコミを避けてか公言こそしていなかったが、風の噂では既に両者の家族公認の付き合いになっているようだ。

 志島先生の告別式の後に、二人が一緒にいるのを見かけても、だからそれほど不思議ではなかった。

「遼基さん……!」

 亜理愛は藍条に抱かれ、すすり泣いていた。

「どうしたらいいの、わたし……! あの子だけじゃなくてお父さんまで……どうすればいいのかわからないのよ……!」

「亜理愛……」

 泣きじゃくる亜理愛に藍条は何も語らず、ただ抱きしめ続ける。

「お父さん……星礼奈ぁ……」

 亜理愛が今、どれほどつらい状況にあるか、考えるまでもないはずだった。

 まだ二十代前半の若さで肉親を立て続けに失い、さらに相続や劇団運営の今後まで担わなければならなくなったのだ。悲嘆する暇もないまま責任が押し寄せ、それこそ誰かの胸を借りなければ崩壊寸前になっているのだろう。彼女は何も悪くない、同情に値する境遇だ、と思う。

 しかし――藍条に抱かれる亜理愛の姿を見たとき、斎波の胸に燃え上がったのは憎悪の感情だった。

「遼基さん……」

「大丈夫だ、亜理愛。私がいる」

 ――どうして。

 ――どうして君は、んだ。

 同じ人を亡くしたのに。同じくらい大切な人を喪ったのに。もう僕には誰もいやしないのに――どうして、君は。

 僕が持っていないものばかりを、当然のように持っているんだ。

 憎くてたまらなかった。あの男から無理やりにでも引き剥がして、胸倉を掴んで。細い首を力の限りに握り、絞め殺してやりたかった。殴って、殴って、目から血以外のものが流れないようにしてやりたい。今ここにある感情を暴力として、すべて彼女にぶつけてやりたかった。

 そんなことをしたところで、何の意味もありはしないというのに。

「……………………」

 落ち着こう。正しい判断をしなければ。今、これから、自分がするべきことはなんだ?

 、自分はいったい何ができる?

「……ブルートループを、支えなければ」

 おそらく、亜理愛はブルートループを存続させるはずだ。役者として活動することはなくなったが、マネジメントなど裏方の勉強をしていた彼女だ。そっくりそのままとはいかずとも、出来る限り続けていきたいと考えているだろう。だが、彼女ひとりではあまりに非力だ。彼女の難儀な性格を疎んじる団員も多い、きっと脱退者は大勢現れる。

 斎波には経営やマネジメントの知識はなく、その方面で亜理愛の力になることはできない。だが、役者として、団員としてなら、できることはたくさんあるはずだ。ブルートループが劇団としての形を取り戻すまで、わずかでも残った団員を率いて。


 ――これからはお前達がブルートループを引っ張っていってほしい。


 きっと、志島先生もそれを望んでいるはずだ。

 目標の再設定を済ませた斎波に迷いは生まれなかった。できること、考えつくことはすべてやってきた。か弱い亜理愛や病身の城戸、失意にある団員達には頼れない。今に至るまで、斎波は一人で歩いてきた。

 だからこそ、思い至らなかったのだ。設定した目標が不適切である可能性に。故人となった志島青児を追い続ける彼を、周囲はどう思っているのかに。

 目標を達成したとき、彼を認め褒めてくれる人はもういないということに。




 城戸礼衛にとっての斎波正己は、常に『いけすかないライバル』以外の何者でもなかった。

 残虐で陰険、あらゆる人間を嘲笑侮蔑嫌悪する城戸にとって、正しさやら善やら鬱陶しいお題目を振りかざす斎波ほど嫌な人間はいなかった。それは斎波も同感だったようで、出会った頃からいがみ合い、顔を合わせるたびにお互いを貶し合うような関係性だった。

 私生活はもちろん、舞台の上であっても彼を助けるなんて我慢ならない。もしも彼が窮地に陥ったとして、その時は手を差し伸べることなどせず、げらげら嘲笑った後に奈落に突き落としてやろうと思っていたのだ。

 なのに。

「僕を笑ってくれるか」

 このうんざりする腐れ縁は、平然と城戸の手を取ろうとしてくるのだ。

「……単刀直入って言葉を履き違えてない? いくら半分ニートで暇だからって、いきなりそう言われて付き合ってあげるほどのんびり屋じゃないんだよ、僕は」

 自宅療養中の城戸に電話を掛けるのは斎波くらいのものである。どうせ前回と同じようにくだらない話だろうと無視を決め込んでいたのだが、斎波はこういう場面に限って無用な忍耐力を発揮するのだ。コールが鳴り続けて十五分を経過した辺りで城戸が根負けし、渋々電話に出たのだが。

「ていうか、『僕』って。もう志島先生の物真似はやめたんだ? 君の図体で僕っ子なんて気味が悪いからよしなよ」

「………………」

 軽いジャブに、しかしパンチは返ってこない。前回以上の反応の悪さだ。ああ面倒臭いな、と城戸はため息をつく。

「早く話さないと切るぜ。だんまりなら壁に向かってやったら?」

「……僕は」

 終了ボタンに指を伸ばしかけたとき、やっと斎波が口を開く。

「僕のありようは、そんなにおかしいだろうか」

「はあ?」

 斎波の口から出たとは到底思えない言葉だった。

「君からすれば、今更、遅すぎると思うだろうが。自分の考えは、やり方は間違っているかもしれない――自覚してしまったんだ。君の意見を聞きたい。君には、僕がどんな風に見えている?」

「……あのねえ」

 ため息をついてみせる。電話越しの声は憔悴していて、彼の身に何かあったのかは明白だった。だが、それがどうした。斎波に何が起ころうと心配してやる義理はない。むしろ城戸という男は、弱っている者ほど虐めて痛めつけて愉しむ人間なのだ。

「君の期待してるような言葉なんか言わないよ。知ってるだろ? 僕は志島塾一の問題児、先生の言いつけをことごとく無視した筋金入りのクズさ。君が慰めてほしいなら笑ってやるし、笑ってほしいなら怒鳴り散らしてやるさ。……いったいどうしたんだよ、お前」

 しかし、どんな理由にしろ、あの超合金製ブルドーザーのような男がこんな甘ったれたことを口にするようになったのは許し難かった。

「間違ってるかだあ? 今更他人に尺度スケールを決めてもらおうとしてんじゃねえよ。今も昔も、僕にとってお前はうざったい戯れ言を振りかざす目の上のたんこぶだ。お前がいくら後悔しようが改心しようが、僕はお前が大嫌いだよ。やってきたことの筋も通さずにみっともなく許しを請うな」

「……筋?」

 返ってきた言葉はあまりにぼんやりとしていて、意に反して笑いそうになる。

「ヤクザものくらい見たことあるだろ。別に指詰めろって話じゃない。やり方を変える前に、やり途中のことは済ませろ。君の仕事はもう終わったのかい?」

 彼が志島先生に執着しているのはよく知っている。自分や亜理愛にあれこれ指図をするのはむかついていたが、それに表立ってやり返していなかったのは、何も“病気”のせいだけではないのだ。

「舞台に上がれよ。評価は観客から聞けばいい」

 ありようが正しかろうが間違っていようが、観客はより魅力的な役者を選ぶ。斎波がブルートループの団員として尽力しようとしていたのなら、彼は役者としているべきだ。

「……ああ」

 相槌の声は、それまでの声より明瞭に聞こえた。

「そうだな。僕は……役者だった」

「うん。役者でもない君になんか興味ないよ。用件はこれで済んだかい?」

 これ以上泣き言を聞くつもりはない。まだうだうだと続けるようなら通話を切るつもりでいたが、斎波は一呼吸のあとに違う話題を持ち出した。

「ゲネプロの話は聞いているか」

「ああ、三日後だったっけ? 亜理愛の奴に聞かされたよ。『あなたもまだ“関係者”だから、見学する権利はある』ってさ」

 亜理愛が電話をかけてくることはない。業務連絡のように送られてくるそっけないメールに、城戸が返信したことはほとんどない。

「その口ぶりでは行く気はないようだな」

「『来てくださいお願いします』って頭下げられるならまだしもね。大体、僕に見せてどうしたいのさ? 参加もしてない劇なんか見たって胸糞悪いだけさ」

 未だ復帰ができない現状がより一層惨めに感じられるだけだ。“ライバル”が主役を張っているというのに、自分は大量の薬を飲まなければ外出もままならない身なのだから。

「ご丁寧に本公演のチケットまで送ってくれたから、そっちは見に行ってあげるけどね。せいぜい頑張りなよ、“お披露目会”。ドジ踏んで泥塗るなよ」

「……当然、わかっているさ」

 通話が切れる間際の斎波の声はやはり沈んでいるように聞こえた。あいつもナーバスになることがあるのか、と思う。どうせ肉でも山盛りに食べてトレーニングをしていたら勝手に忘れるのだろうが。

「あのファザコン野郎」

 斎波が志島先生に異常に執着しているのは、長年の付き合いでよく知っている。だが、昔ならまだしも今現在それを責められるものか。

 死人に執心しているのは、城戸も同じなのだから。

「……星礼奈?」

 カーテンの陰に女の姿が垣間見えた気がして、何度も目を瞬かせる。もちろん、一人暮らしの城戸の家にそんなものが現れるはずがない。幻覚だ。「それを見たい」という城戸の脳が勝手に見せているだけのものだ。

 一向に消えない幻覚から目を逸らし、城戸はベッドに身を投げた。




「ワーオ! これが六曜劇場! ベリーベリーごっついビッグですね!」

「まさかうちがこんなに大きな劇場使えるなんてねえ。大丈夫かな? 小角くん、タヌキだったりしないよね?」

 ゲネプロ当日――小屋入りは数日前に済ませ、道具類や衣装は既に搬入済みだ。上演場所であるこの六曜劇場に足を運ぶのも何度目かだが、団員達は未だ劇場の大きさに感嘆していた。

「先代の時代だってこんなにでっけえ劇場ハコは使ってなかったよな。はーっ、信じらんねえ……」

「あわわわわわ……本当にここで合ってるのよね? 向こうのミニシアターの間違いじゃないのよね?」

「もう衣装全部運んじゃいましたよお!? 間違いだったらゴミに捨てられちゃうんですか!?」

「あはは……みんな浮き足立っちゃってますね」

 動揺が隠せない団員達の中、宍上は一人落ち着いていた。

「あーそっか、宍上くんはこういうところに慣れてるんだ? 大きな映画館で舞台挨拶とかしてたんだもんね」

「劇場は初めてですけど……」

「この野郎、デカいハコは来慣れてるってか? 羨ましいなあちくしょう」

 からかわれたり小突かれたりしながらも、宍上は穏やかに微笑んでいる。それこそ慣れっこというわけか。

 入団から五ヶ月。思えば彼も、随分打ち解けたものだ。最初は“スター”に気後れしていた団員達も、今ではすっかり昔からの友人のように接している。誰にでも優しく親切な宍上の人徳によるものなのだろう。

「ホワッザファ!? どうしたんですか斎波さん! 大舞台に対して険しい顔!」

 と、いつも以上にテンションがおかしい音無が話しかけてくる。

「スマイルですよスマイル! ハッピーカムズスマイルゲート! 慣れない環境に緊張するのはわかりますが、リラックスしなければポテンシャルを引き出すことはできません!」

「……は、はあ」

「スマイル! ね!」

 自分の口の端を指で引っ張り、笑顔を促そうとする音無。どう反応すべきかわからず、愛想笑いで返す。しかし、音無の視線は既に別の方向に向いていた。

「落ち着け落ち着け……せっかくの大チャンスなんだ。たとえチョイ役だって目立てば名前が売れるんだ……ここがぼくの俳優人生の第一歩なんだぞ……」

「はっ! あそこにも迷えるジンギスカンさんを発見! スマイルタックル! とーう!!」

「うわ! なんだよあんた、いきなり何するうわああああ!?」

 音無に振り回される伊櫃の姿を見て再び表情に困りながら、斎波も六曜劇場を見上げる。

 いよいよ始まるのだ。ブルートループ、飛躍への第一歩が。




 大舞台に立つのは当面の目標だった。

 役者を目指すようになってから何度も舞台の上にいる自分を夢想してきたし、そうなるにふさわしい実力が持てるよう、出来る努力はすべてしてきたつもりだ。

 けれど、やはり。自分はまだ早すぎる。寸法ぴったりに仕立てられた舞台衣装を見るたび、真鉄は罪悪感とも気後れともつかぬ感情に襲われる。

「着方は頭に入ってるな?」

 衣装係のスタッフが真鉄に声をかける。

「インナーは共通、ジャケットと帽子はクライマックスで変えるんだ。こっちは他の奴らの着替えで手が取られる、君は出番に余裕があるから自分で着替えてくれ」

「……わかっている」

 無愛想極まる真鉄の返事を、既に慣れっこのスタッフは苦笑いで流して去っていく。今の言の通り、彼も忙しい。特に衣装の多い斎波や宍上の分のセッティングをしなければならないのだろう。所詮脇役の真鉄に気を取られている暇はないのだ。

 上演まであと二時間。他の団員達は支度を整え始めている。先程までは浮かれきっていた連中も顔つきが変わり、黙々と準備に集中している。侮っていたが、彼らもプロなのだ。

 では、真鉄はどうなのか。

 今まで馬鹿にしてきた人間達が、自分よりずっと場数を踏んでいるのだと改めて思い知らされる。努力や気概など関係がない。ここでの真鉄は、ただの子供がきだ。

「………………」

 できるのか。自分に。舞台に立つに値するだけの演技が。

「ああ――いたいた。真鉄君だよね?」

 肩を叩かれ、初めて背後に誰かいることに気づく。声の主は真鉄が振り向く前に、ハンガーに吊られた“ルチオ”の衣装に手を伸ばした。

「うわあ、本当に昔の人の衣装みたいだね。生地も縫製もしっかりしてるし、凝ってるなあ」

「……貴様のところの衣装部が作ったんだろう、キミドリ」

 敵意剥き出しの視線に、キミドリプロダクションの男――小角緑は苦笑いをした。

「『貴様』って。口が悪いのは本当みたいだね、真鉄君」

「何の用だ。気安く俺に近寄るな」

 小角と直接対面したことはほとんどない。彼が稽古を見に来ているときはなるべく距離を置き、話しかけられるような隙を作らないようにしていた。

 自分の性格上、こうした差し向かいの会話で穏便に済ませられないと自覚していたからだ。

「……嫌われちゃってるなあ。心当たりはないんだけど」

 よくぬけぬけと言えたものだと思う。真鉄の抜擢がキミドリプロの差し金であるという噂が流れていることを知らないわけではないだろうに。

「まあ、そんなに睨まないで。ちょっと話をさせてくれないかな? 大丈夫、十五分くらいで終わるから」

 小角は手近なパイプ椅子を引き寄せて腰掛ける。ここは楽屋の一室だが、他の面々は各々の別件で席を外している。少なくとも十五分程度なら、正真正銘二人きりになってしまう。

「………………」

 ここから出て行くことも考えたが、小角の様子を見るにおそらく“話”とやらをしない限り延々付きまとわれるだろう。にこにこと笑う顔からは真意は窺えない。ならば――ここは一度、こいつの言い分を聞いておくべきか。

「五分で終わらせろ。それ以上は聞かん」

「さわりだけでも聞いてくれる気になった? じゃあ、できるだけ短く済むように頑張るよ」

 壁に寄りかかった真鉄に微笑む小角。ますます癇に障る。

「まず言っておくとね。君をルチオ役に推薦したのは確かにキミドリプロだけど、オレじゃないんだ。前任のサカグチさん。何から何までオレがやってるってわけじゃない」

「それがどうした」

「少なくともオレは、きみをスカウトするのは反対だってこと。上からのお達しには逆らえないけどね」

 と、ウインクしてみせる。余計に腹が立つだけなのだが。

「上の人はさあ、『顔がまあまあいけてて歌も上手いならいくらでも使いようがある』って言ってるんだけどさ。きみってほら、ちょっと性格がトゲトゲしてるじゃない? めんどくさい子のお守りは宍上君で懲り懲りなんだよ。失言の後始末やら、生活態度の指導やら、そんなことにリソースをかけたくない。きみだって、自分が芸能界で立派にやっていけるとは思ってないでしょ?」

 確かにその通りだ。その通り、なのだが。あからさまに挑発的に、まるで反論を待っているかのように言われると警戒してしまう。まもなくゲネプロが始まるというのに騒動を起こしたいと思うほど真鉄も愚かではない。

「貴様らの思惑など知ったことか。さっさと用件を言え」

「ああ、ごめん。脱線しちゃったね。だから、スカウトする前にまず性格の方をなんとかしてもらおうと思ってさ。きみのこと色々調べさせてもらったよ。どうしてその若さで劇団に入ろうとしたのか。どうして俳優を目指しているのか」

 小角は懐から手帳を取り出してぱらぱらとめくる。目当てのページにはブロマイド写真が挟んであった。

「――志島星礼奈、だよね? 三年前に亡くなった」

「………………」

 落ち着け。こいつの目的がなんであれ、今冷静さを失うわけにはいかない。

「うん。軽々しく語ってほしくない名前だってのはわかるよ。何せ故人だ。しかも、あんなに才能のあった女の子の夭折じゃあ、誰も語りたがらない。おかげで調べるのに手こずっちゃった」

「……貴様のような下品なハイエナには、たとえ明日の天気の話だって語りたい奴はいないだろうよ」

「手厳しい。不謹慎なことはわかってるよ。でも、調べないといけなかった。きみのためにね」

 へらへらとした笑顔を消し、真顔になった小角は手帳を懐に戻す。

「結論から言うと、きみは志島星礼奈のために俳優になろうとしてる。そうだよね?」

 貴様に何がわかる。部外者が詮索するな。そう言いたくなるのを必死で耐えた。

「実を言うとね。オレが本当にスカウトしたい人は別にいるんだ。だけど――きみもその人も、すっかり呪いがかかっちゃってるんだ。どうにかしたいんだけど、解き方がわからなくてね」

「呪い?」

 なぜだか無性に腹の立つ響きだった。

「未来じゃなくて過去のために行動してるってことさ。きみ達は死人に呪われて、自分自身のことが蔑ろになっちゃってる。未来を見ない人間が成功するわけないだろ?」

 この男の言う通り、確かに志島星礼奈は死んでいるし、自分が役者を目指す理由は彼女にある。彼女がいなければ、きっと真鉄が役者になることはなかっただろう。

 だが――この男は大きな勘違いをしている。

「貴様は、俺が死人の弔いのために役者をやっていると思っているのか? 俺が役者になればあの女が蘇ると思っているとでも?」

 真鉄の反論に、小角は少し驚いたように目を丸くした。

「い、いや……そういう意味じゃないけど」

「舐めるなよ。誰があの女のために命を捧げてやるものか」

 なんのつもりかは知らないが、いきなり現れて他人の人生にああだこうだと口を出した挙句、知ったような決めつけまでする。今はっきりと確信した。自分は、この男が嫌いだ。

「俺は俺のために役者を目指している。あの女が死のうが生きようが、それが変わることはない。“もう一人”はどうだか知らんが、これはすべて俺自身の意思だ。死人に褒められるためにやっているんじゃあない」

 何よりも許せないのは、で志島星礼奈の名前を持ち出されたことだった。

「さっさと失せろ、クズが。つまらん戯れ言ならお目当ての人間に言っていればいい」

「……本当、手厳しいなあ」

 帽子を被るような仕草で頭をかき、小角はため息をついた。

「厄介なのは知ってたけどここまでとはね。うん、わかったよ。とりあえず今回はきみから手を引こう。これ以上きみ達との関係を悪化させたくはないからね」

 しゃあしゃあとそんな台詞を吐きながら、小角は立ち上がって後ろを振り返った。

「それに――もう二人きりじゃなくなっちゃったしね」

 小角の視線の先には斎波が立っていた。

「……貴様」

「衣装の打ち合わせ、終わったんだね。ごめん、邪魔するつもりはなかったんだけど」

 にこにこと笑う小角に対し、斎波は無表情に口を開いた。

「小角君。本番前ににちょっかいを出さないでくれるか。集中が切れて演技に支障が出る」

「ごめんって。ちょっとだけ話したかっただけなんだよ」

「小角君」

 斎波は静かに小角に近づく。

「ここは劇場なんだ。役者の邪魔をする人間がここにいる資格はない。頼むから、出ていってもらえるか?」

 斎波は冷え冷えとした声で言い、小角をねめつけた。小角は軽く肩をすくめた。

「……はあい」

(……なんだ?)

 何か、違和感を覚えた。

 斎波の言い分は確かに正しい。だが――斎波の様子からは、何かそれ以外のものを感じるのだ。『団員に手出しをされた』こととはまた違う――個人的な怒りのような。

「じゃあ、二人とも頑張ってね。きみ達には嫌われちゃったけど、オレはきみ達のこと応援してるから。この公演が大成功するように、オレも影ながら力を貸すからね」

 小角の後ろ姿を剣呑な目でじっと見たあと、斎波は真鉄の方を向く。その形相に思わずぎょっとする。

「真鉄君。葉原さんが呼んでいたぞ。アンサンブルのシーンの最終確認、君も参加するべきだ」

「……貴様、どうした」

「何?」

 斎波の様子の異様さに思わず声をかけてしまった。一見いつもと変わらない。大舞台に緊張している様子も見られない、普段通りの鉄仮面がそこにあるというのに。

「貴様……何をそんなに悲しんでいる?」

 そのときはまるで、滂沱の涙を流しているように見えたのだ。

 真鉄の問いに斎波は驚いたように目を見開き、何か言いたげに口を開いた。そこから言葉が発されるまで、しばらくのタイムラグがあった。

「……すまない。君達の話を、少し聞いてしまった。途中からで、詳しいことはわからなかったが」

「立ち聞きか? 見た目によらず陰険なことをする」

 いや、それだけではあるまいと思う。いくら劇団にこだわる斎波とはいえ、赤の他人の将来にまで興味を示さないはずだ。第一、この男に限って動揺など早々するはずないのだ。彼は斎波正己なのだから。

「……死人は蘇らない。君は確か、そう言っていたな」

「は?」

 思いもよらぬ言葉に真鉄は虚を突かれて呆けた。

「僕は、いつか死人が蘇ってくれると思っていたんだ。良い子にしていれば、言いつけを守っていたら、いつか必ず戻ってくると。今までずっと、そう信じていた」

「貴様、何を……」

 斎波の視線は真鉄を通り過ぎ、どこか違う場所を見つめている。真鉄の後ろには何もない。ただ鏡があるだけだ。

「君の言う通りだな。死んだ人が帰ってくるはずがなかったんだ。みんなはちゃんとそれを知っていた。だから――僕は間違っていたんだ」

 まったくもって意味不明な言葉で、何を言いたいのかさっぱりわからない。

 ただ、自分は何か致命的な一言を言ってしまったのではないか、という推測だけはできた。

「……どうしたんだ、真鉄君」

 沈黙している真鉄に、斎波は不思議そうに言う。

「葉原さんが待っている。早く行った方がいい」

「……ああ」

 なんにせよ、自分には関係ないことだ。真鉄はそう割り切り、葉原がいるであろう別の楽屋へ向かう。つまらないことを気にして演技に支障が出たら元も子もない。そもそも、本番二時間前に主役がこんなところで立ち話をしていること自体おかしなことだというのに。

「さすがプロは余裕がある。凡人とは時間の流れ方が違うらしい」

 捨て台詞を吐きながら斎波の隣を通り過ぎる。斎波は立ち尽くしたまま、虚空を見つめ続けていた。

「そうか。もうあの人が戻ってくることはないんだな」

 斎波の言う『蘇ってほしい死人』が誰なのか、真鉄が考え及ぶことはなかった。

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