トロイの木馬の優しさ

 『レ・ミゼラブル』において、ジャヴェール警部はなぜ天の国に招かれなかったのか。

 原作小説にははっきりとした言及はないものの、数ある派生作品メディアミックスでこの“解釈”は不動のものと言えるだろう。

 ジャン・ヴァルジャンの行動によって自らの罪、過ちを自覚したジャヴェール警部は懊悩の果てにセーヌ川へ身を投げる。ヴァルジャンが昇天し、ファンティーヌを始めとしたそれまでにヴァルジャンと交流を交わした人々に迎え入れられる場面においても、彼が姿を現すことは決してない――あたかもセーヌ川の水底から真っ逆さま、煉獄あるいは地獄のどちらかに墜落してしまったかのように。

 キリスト教的価値観で見れば、神――誤解を招かぬようにあえて言い換えるならこの場合、信仰や正義、倫理道徳といった普遍にして真理の善だ――を信じず法を絶対とし、法を遵守するために弱者を虐げていた彼はまさしく罪深い咎人だ。法とは確かに正義のわかりやすい尺度の一つである。だが、ジャヴェールはパンを盗まなければ生きていけない人々に目を向けようとせず、ただ法に照らすだけでそれを裁き、あろうことかそれに悦楽すら覚えていた。だからこそ、法に背き続けながらも人々、ひいては自分すら助けるヴァルジャンの慈悲に自己を失い、自死を選ぶほどの苦悩を味わうことになったのだろう。

 だが、それは彼が救われぬ理由になるのだろうか。

 ジャヴェールは冷徹な法の化身として作中で何人もの人を傷つけてきた。いくら死の間際に回心・悔悛したとしても、彼のせいで無情な境遇へと堕ちた人々と並ぶのはいささか抵抗がある、というのはわかる。法に逆らうヴァルジャンと法を執行するジャヴェールの対立構造を考えると、彼がラストシーンで出てこないほうが物語として自然である。

 しかし――様々な試練に打ち勝ち、救世主に例えられるほどの人間となったヴァルジャンを見ているからこそ考えてしまうのだ。ジャヴェールは死ななければならない人間だったのか。過ちを犯しても償えるのが人間であり、それに手を差し伸べるのが神ではないのか。彼が罪深い人間であるからこそ、償いや救いが必要だったのではないのか――

 ミュージカル『五十フランの泥』において脚本を執筆している藍条遼基は、そんな長年の疑問を“アデル”に対しても抱かずにはいられなかった。

「相変わらず、凄い顔で見てるよねえ」

 気まぐれで稽古の見学をしていたある日のこと、演出家の乾からからかわれるように声をかけられた。

「ああ……すみません。この辺のシーンは、『レミゼ』を思い出してしまいますから」

 クライマックス、ルチオが参加している学生革命軍がバリケードを作り警官隊と応戦するシーンはまさに『レ・ミゼラブル』そのままだ。ただし、『レミゼ』においてマリウス青年とヴァルジャンが生き残ったのに対し、『フラ泥』において警官に撃たれたルチオや貧困生活で衰弱したアデルは誰にも助け出されることなく死んでいく。脚本担当として原作をリライトし、役者の演技を見るたび、ジャヴェールに対する疑問と同様のものをアデルに感じてしまうのだ。

 アデルははたして死なねばならない人間だったのか。天の国が描かれない本作において、はたしてアデルは“幸福”に辿り着けたのか。

「藍条くんってクリスチャンなんだっけ?」

「ええ、カトリックです」

「そっかあ。ぼくなんか、神も仏もヤハウェもアッラーも信じてないから、『レミゼ』の最後もちょっとよくわかんないんだけどさ」

 と前置きし、乾は(彼を知る者からしたら、驚くほど珍しく)気遣うような表情で言った。

「どうしても気に食わないなら、変えちゃっても良かったんだよ? これは小説じゃなくて、ミュージカルなんだから」

 乾の言わんとしているところはおおよそわかった。原作・原案に小説を使う演劇において、一言一句一場面、すべてが原典ママのものはほぼありえない。レミゼのように長大な話をダイジェストにするのは当たり前で、中には展開のほとんどを改変してしまう作品も少なくない。『フラ泥』においても、現代の価値観とあまりにそぐわない場面は藍条自ら改変・加筆を行っている。

 しかし。


「『何をぐずぐずしているッ! 命に代えて未来を切り開くんじゃあなかったのか!』」


 アデルを演じる斎波の声が響く。現実と芝居の境目を塗り込めてしまうような迫力に、藍条は思わず身震いした。

「いえ、やはりアデルは、あそこで死ぬべき運命ですから」

 確信に満ちた口調で言う藍条に、乾は興味深そうに目を見開いた。

「へえ、そうなの?」

「はい。アデルは神を信じず、どころか他人の誰も心から信頼していなかった。無論それは彼の生い立ちや不運な境遇に由来するものですが……他人を助けない者は誰にも助けられることはない。彼が唯一助けた、“リュシアン”を除いて」

 実に奇妙なことに、アデルの生存や幸福を願ってしまう一方で、アデルの因業を冷徹に見据えているのが藍条という人間だった。

「『美しさ』以外を得られなかった青年が、ついにその美すら失ってしまい死にゆく中に、かつて持ち得た優しさを、取りこぼしてしまった幸福の日々を想う――それだけは絶対に崩したくない。

「この物語は『美しさ』の話なんですよ。だから受け手である私達も美しさを追求するべきだ。エログロと頽廃たいはいの日々を得て、薄汚い乞食となったアデルが最後に見せる美、それがあの場面であり、死に様なんです。あれ以外の結末を用意してしまったら、アデルは救われるかもしれないが、物語の美しさは損なわれてしまう。

「『レ・ミゼラブル』を元にこの物語が生まれたのなら、すべて意味があるはずなのです。ヴァルジャンのように試練に打ち勝てぬ者、救われぬ者が主役として選ばれた意味が。僕はこの物語の一読者として、著者の意図を完全に汲み取ることはできずとも、最大限尊重したいと願っている」

 喋り終わった後で、いつのまにか拳を握りしめ熱弁を振るっていたことに気づき、藍条は赤面した。文学や物語のことになると、すぐに周りが見れなくなって延々と持論を展開してしまう癖は恋人にも嫌がられている。慌てて乾に頭を下げた。

「あはは。やっぱり藍条くんは面白いなあ」

 汗顔している藍条に対し、乾は特に気分を害したふうでもなく楽しそうに笑い、横目で稽古の様子を見た。警官隊と必死に戦っている学生達の間をすり抜けるように、ルチオを抱えたアデルが這いずっている。

「ねえ、藍条くんも来ない? 今度のゲネプロにさ」

 そして、唐突にそんなことを言った。

「ゲネプロ……十月の中旬にやるという?」

「それそれ」

 ゲネプロとは、一般的に本番と同じ衣装、舞台セットを使用して“通し”で行うリハーサルを指す。演劇、特に大劇場で行われるものは、宣伝としてマスメディアを招いて取材や撮影がされることも多く、公演の成功を左右する重要なイベントとなる。今までブルートループではそのような公開ゲネプロは行われていなかったが、前回の公開稽古と同様、キミドリプロの提案で実施されることになったのだ。

 公開ゲネプロとはいえ、通常、関係者以外の観覧はできない。脚本を担当する藍条は関係者に相違ないのだが、堂々とそう名乗るのにはまだ気後れしてしまう。所詮は“素人”が厚かましくリハーサルを見るなんて、と公開稽古同様に参加しないつもりでいたのだが。

「絶対外せない用事とかあるわけじゃないんでしょう?」

「い、いえしかし……」

「来てほしいなあ。いや、来るべきだよ。ゲネプロは、きみみたいな人が見たほうがいいんだって」

 意味不明ながら強い推しに圧倒され、気づけば藍条は首肯していた。

「わ、わかりました……検討します」

「うん、待ってるよ」

 にっこりと笑う乾に何か妙な予感を感じながら、藍条は十月の予定を確認した。




「順調ね! これならきっと、ゲネプロも成功するわ!」

 通し稽古が終わり、葉原が快哉を上げた。ゲネプロの日程が発表され、いよいよ稽古も煮詰まってきた。

 順調だ。すべてが順調だった。

 演者達がトラブルを起こしているという話は聞こえてこないし、衣装や舞台セットもほとんど完成したそうだ。演技の練度も高まっている。何一つ問題はない、と誰もが確信している。

 ここで自分の知っていることをすべて打ち明ければ、いったいどうなってしまうか。それがわからない斎波ではなかった。

 誰もが宍上に信頼を寄せている。演劇は演者とスタッフが信頼しあってこそ成立するものだ。主役で人望も厚い宍上がその人望を失ってしまったら、団員の士気に大きく影響するだろう。本番に近づいた今、連携が乱れてしまったら、公演そのものが失敗してしまうかもしれない。

 しかし、だからといってこのまま彼を看過していいのか。

「斎波さん?」

 ひとり下を向いていた斎波に、宍上が声をかけてくる。

「顔色が悪いですよ。どうかしたんですか?」

 そんなふうに言いながら、宍上は斎波の顔を覗き込む。心から浮かべられている気遣いの表情は、斎波の知る彼そのものだ。……とても、女性をもてあそぶような人間には見えない。

「少し疲れただけだ。心配はない」

 感情を抑えるつもりが、少し刺々しい口調になってしまう。実際、以前より疲れを感じるようになった。筋トレを中止しているから、体力が落ちているのか。

「そう、ですか? それなら……」

 怪訝そうな顔で頷く宍上。

「放っておいてあげなよ、宍上君。斎波君、主役だからって乾さんに無茶振りばっかりされてるんだから。いくら鋼鉄の斎波君でも気疲れするんだろ」

 皮肉っぽく言う生越に、「ひどいなあ」と乾が反応する。

「無茶振りなんかしてないよ。斎波くんならできるって思うからやってもらってるんだよ」

「世間的にはそういうのを無茶振りっつうんじゃないすかね……」

 周囲が笑う中、斎波は変わらずひとり押し黙る。

 宍上本人に事実を問いただすのが、一番手っ取り早くて確実な方法なのだろう、と思う。

 宍上は嘘やごまかしを言う人間じゃない。誠心誠意聞けば、きっと真実を話してくれるはずだ。それで斎波の誤解であれば謝ればいいし、たとえ予想が的中したとしてもきちんと促せば改めてくれるだろう。何回も斎波の間違いを指摘してくれた彼ならなんの心配もない。

 しかし、そんな簡単なことがなぜかできない。

 宍上と対面していると、自分がどれだけ馬鹿な考えを持っているか思い知らされる。彼に限ってそんなこと、あるはずないだろうと。何一つ確かな証拠などないのだ、単なる自分の早とちりに違いないと。

 そのくせ、宍上に対する疑念は捨てきれずにいる。

 たとえば城戸ならば今の斎波をこんなふうに笑うだろう。『正解か間違いか、結局どっちでもいいだろう。変に藪をつついて信頼を壊すより、今は何も知らないふりをして公演が終わるまでやり過ごせばいい。宍上が何をやっていようと、斎波に影響することなどないのだから』――利己的で残酷で侮蔑的で、しかし確かに理のある考えだ。宍上が何をしているにしろ、それが明るみに出ない限りは劇団や公演が台無しになることはない。

 だが、もし真実だった場合は? 恋心をもてあそばれているかもしれない薄川や初空はどうなるというのか。公演の成功のために彼女達を犠牲にすることなどできない。たとえ劇団の名に大きく傷がつくことになろうとも、通すべき義というものはあるだろう。

 思考は無限に堂々巡りを繰り返し、結局斎波は硬直することしかできない。

 大きなため息をつき、斎波はそっと人の輪から抜けた。

「すみません。少し外の空気を吸ってきます」

 談笑はやまず、斎波の言葉に応えたものはいなかった。




『誤解ですよ。こちらとしては、あくまで協力という形で……』

「どういう意図にせよ、これだけは譲れません。移籍はあくまで本人達が決めることです」

 このやりとりももう何度目だろうか。電話に受け答えをしながら、亜理愛は溜め息をつきたくなるのを堪えていた。

『……そうですか、わかりました。ブルートループさんに対しても、決して悪い話ではないと思うんですが……』

 通話先の小角はしつこく続けていたが、ついに諦めたのか話を打ち切った。

『それでは、今度のゲネプロではよろしくお願いします』

「ええ、よろしく」

 通話を終了してから、いささか荒い口調になっていたことに気づく。キミドリプロの小角が何度もしつこく移籍の話を持ち出すせいで、彼からの電話に出るのが憂鬱になっている。失言をしがちな自分のことだ、いつか大事な取引先である彼らに暴言を言ってしまわないか、亜理愛は不安で仕方なかった。

 ブルートループ団員のキミドリプロへの移籍の話は、『フラ泥』の企画を立ち上げた頃からずっと持ちかけられていた。

 本来は中小規模の劇団にすぎないブルートループに宍上紅蓮が移籍し、さらに彼を主役に据えた大劇場公演……これらはもちろん、キミドリプロのバックアップがあってのものである。これだけのお膳立てをしたからには、相応の見返りを求めているのは自明の理だ。今日の小角からの電話も同じ話題で、所属俳優にキミドリプロ企画のネット配信番組やドラマの出演の話を持ちかけてきた。確かに知名度を上げたいブルートループにはまたとない話である。

 だが、いくら亜理愛が『経験の浅い小娘』であろうと、そんな上手い話にほいほい乗っていればどうなるかわかっている。油断していればあっという間に主導権を握られ、傘下に入れられてしまうだろう。劇団の今後を考えれば、それも選択肢の一つなのかもしれないが……。

「守るべきものは、守らないと。受け継いだからには責任があるんだから」

 自分に言い聞かせ、溜め息をつく。上に立つ者の苦労はなかなか周りには打ち明けられない。団員達をむやみに不安にさせないよう、毅然とした態度でいなくては。顔を引き締めて書類仕事に戻る。

「亜理愛。代表。少し、いいか」

 ノックの後、扉の外から斎波の声がした。

「……入って」

 一呼吸置いて返事をする。彼の声を聞いてから、体がこわばるのを感じた。

 いつからだろう。斎波の声を聞くのが、彼の顔を見るのが怖くなったのは。

「どうしたの? 何の用?」

 入ってきた斎波は、いやに青い顔をしていて、普段より痩せ細っているように見えた。表情を見るからに、楽しい話題を持ってきたわけではなさそうだ。

「話がしたい。時間は大丈夫か」

「急用はないけれど。いったい何かしら」

 斎波はらしくもなく目を伏せて、逡巡しているようだった。やがて腹を決めたか口を開く。

「……宍上君のことを知っているか」

 曖昧すぎる問いに亜理愛は眉をひそめる。

「どういう意味で? 世間一般で知られていることならそれは知っているし、プライベートや交友関係としてはあまり知らないわ。私と彼に、仕事以外の関係性はありません」

 ああ、また強い口調になってしまった。先程のいらいらが後を引いているのだ。やたら不必要にきつい言葉遣いをしてしまうせいで損ばかりしているのに、この癖は一向に直せない。

「宍上君の女性関係については、どうだ」

 対する斎波は、寒気がするほど淡々とした話しぶりだった。

「彼の素行については? スキャンダルや、根拠に乏しい風聞でも」

「……何が言いたいの」

 何かおかしい。そう思った。

 亜理愛の知る斎波は、こんなふうに奥歯に物が挟まったような言い方などしない。単刀直入に本題に切り込み、答えに窮する亜理愛を追い詰めるのが常だった。それが、いったいどうして。

「彼が、女性に対して不誠実な言動をしている現場を見た」

 感情の読み取れない平坦な声で斎波は続ける。

「キミドリプロの小角さんにも、彼が女性関係でトラブルを起こし続けていた前歴があることを聞いた。一時は刃傷沙汰にまでなったらしい。彼の素行を看過していれば、そのうちここでも同様の事件が起きてしまうかもしれない」

 PC画面から顔を上げ、彼と目が合う。斎波の瞳は異様に薄暗く、ぞっとする。

「それが――どうしたって言うのよ」

「………………」

「なんなの、はっきり言って!」

 黙り込んでしまった斎波に、亜理愛は思わず声を荒げた。こうなるともう駄目だ。思いつくままに言葉をぶつけてしまい、相手を傷つけ、怒らせてしまう。しかも、相手はあの斎波なのだ。最悪の事態をどれほど思い浮かべても、しかし口は止まらなかった。

「宍上君がなに、交際トラブル? 知らないわけないでしょう、そんなこと。彼が下品な週刊雑誌の見出しをいくつ作ったと思ってるの。彼の名前でウェブ検索したことある? あることないことつらつら書かれたページが山程引っかかるのよ」

「……有名、なのか? 彼の行いは」

「まさかあなたこそ知らなかったの。知らないで、それで親切に教えに来てくれたわけ? 信じられない!」

 宍上の移籍が持ちかけられたとき、先方キミドリプロから散々聞かされた話だ。それでなくても、芸能関係のニュースをチェックしていれば、否応にも目にすることになる。

「今までは事務所が各メディアに圧力をかけていたから大ごとにならなかっただけ、きっとまだ表に出てない話もあるわ。この間だって、彼の恋人を名乗る女が押しかけてきたのよ」

「全部知っていて、彼をこの劇団に入れたのか?」

 斎波の声はか細く、うっかり聞き逃しそうなほどだった。しかし、何故だか耳に突き刺さるように聞こえてきた。

「彼が、この劇団でトラブルを起こすかもしれないと知っていながら、入団させたのか? 君が――」

「ええ、ええ! 彼が何かしでかさないよう私が監督をして、万が一何か起こっても責任を取る、そういう約束です! それでなに、彼がいったい何をって言いつけに来たの!?」

 まったく冷静からほど遠い、むちゃくちゃな言い草であることは自覚していた。ほとんど反射的にまくし立てていて、相手の言葉も理解できていない状態だ。駄目だ、一旦口を閉ざさなければ。だが、既に斎波の目の色は変わっていた。

「――君は何を考えているんだ!」

「っ!」

 斎波の怒声に身がすくむ。

「そんなリスクを抱えているとわかっていながら彼を入れたのか!? どうかしているぞ、劇団がどうなってもいいのか!?」

 恐ろしい剣幕だった。亜理愛の発した言葉はしっかりと斎波の逆鱗に触れてしまったらしい。冷や水を浴びせられたように、やっと亜理愛の勢いも止まる。

「ど……どういう意味。何よ、その言い方」

「君は、自分のやっていることが理解できていないのか? 危険だと知りながら懐に入れることの意味が。火がついてしまったら、危ないのは君だけじゃない。劇団や団員達にも被害が及ぶんだぞ。“代表”としての責任があるんだ、君には!」

 ――ああ、そういうことか。斎波の怒りの理由が、ふいに理解できた。

「……劇団。あなた、二言目には“劇団”ね」

「何――――」

「劇団。劇団劇団劇団。なんなのよ、その言い方。違うでしょう、あなたが本当に言いたい言葉は。お父さん、志島青児の話がしたくてたまらないんでしょう?」

 今度は斎波が怯む番だった。亜理愛に指摘された途端、斎波は雷に打たれたように固まって息を呑んだ。

「……違う。私は…………」

「違わない。あなたいつもそうだわ。私が何かしたらいつも劇団がどうとか代表としてなんだとか、お父さんと私を比べて“忠告”するのよ。あなた、いったい劇団のなんなの? まるであなたがお父さんの子供みたいじゃない」

 いつからだろうか。斎波が、亜理愛を通して“志島青児”を見るようになったのは。

 亜理愛が代表になって以降、斎波が表立って何かをすることはなかった。しかしこんなふうに二人で話していると、彼の視線が亜理愛を透かしていると嫌でも気づく。

 斎波が元志島塾生の中で――いや、ブルートループの中で誰よりも“志島青児”を敬愛しているのは周知の事実だ。そんな彼が、後継者として立つ亜理愛をどんなふうに見ているのか。そんな恐怖を隠すように亜理愛はまくし立てた。

「いいかげんにしてちょうだい。お父さんはもういないの。今は私が代表なのよ。あなたがどういうつもりで言っていても、決めるのは私。お父さんみたいな顔で、余計な口出ししないで!」

 いつのまにか声が大きくなっていたことに気づく。からからに乾いた口の中に唾液がじわりと広がる。

 彼女はいつもこうして、勢いに任せて言ってはならないことを言ってしまうのだ。

「……斎波君」

 斎波は、蒼白に染まった顔で呆然と立ち尽くしていた。

「亜理愛」

 言い過ぎどころの話ではない。こんなのただの罵倒だ。早く謝らなければ。頭ではそう思っても、口はわなわなと痙攣してうまく動かない。

「亜理愛、僕は」

「――亜理愛ッ!」

 斎波の口から発された音と、扉の外からの叫び声が重なった。制止する間もなく、声の主――藍条遼基が部屋に飛び込んできた。

「亜理愛、どうしたんだ!? 今の声は――」

 藍条は普段人前では出さない“二人だけ”の口調で言い、心配そうに辺りを見回した。眼鏡越しの瞳が狼狽する亜理愛と憔悴した斎波を捉える。

「斎波――さん、これは……」

「なんでもありません」

 亜理愛が言い訳を考えるより先に、斎波の口から機械的な言葉が飛び出した。

「ちょっとした、言い争いがあっただけです。何も問題はない。心配はいりません」

 なんの意図もなく、ただただ場面シチュエーションに応じて設定されていた文言を音読したような話し方に、亜理愛はいよいよ戦慄した。

 この期に及んで、彼という人間は。

「……本当に? 亜理愛……志島さん」

 失言を手遅れながらに訂正しながら、藍条は亜理愛の表情を窺う。亜理愛は動揺しながらもかろうじて理性を動かす。そして、ありのままの事実を話すよりも斎波の言に乗る方がのだとわかってしまった。

「ええ。少し意見が食い違って、つい私が大声を出してしまっただけ。大したことじゃありません」

 声の震えを抑えて言う。いくらであっても、みだりに身内の話はできない。藍条はしばらく訝しげに二人を見ていたが、頑なな様子に詮索を諦めたようだった。

「……そう、ですか。すみません、余計なお世話を焼いてしまったようだ」

「いいえ、ありがとう。心配させてごめんなさい」

 藍条と形式的なやりとりをしながら、横目で斎波を見る。

「斎波……君?」

「すまなかった」

 平坦な声とともに、斎波が頭を下げた。

「え……」

 額面通りに謝意が込められているとは思えない、ただのポーズであるとしか考えられなかった。しかし、だからこそ亜理愛は更に彼に恐怖した。

 いつからだろう。彼が心にもないことしか言わなくなってしまったのは。

「君の言う通り、私のでしゃばりすぎだった。本当にすまない。藍条さんも、迷惑をかけた。すみませんでした」

「ま……待って」

 頭を上げた斎波は、そのまま部屋を出て行こうとする。引き止めなければ、となぜだかその時はそう思った。引き止めたところで、ような術などなかったというのに。

「亜理愛」

 亜理愛の声とは無関係に、ふいに斎波が振り向いた。

「私は志島先生に関係なく君を評価していたつもりだったが、誤解させていたのなら、悪かった。許してほしい」

 我に返ったのは、彼の姿が見えなくなってからだった。

「亜理愛……大丈夫か?」

 耳の奥で反響していた斎波の言葉に、藍条の声が混じる。もう斎波が出て行ったことを確認した途端、亜理愛の体はがたがたと震え出した。

「あ、亜理愛!? どうした、いったい!」

「遼基さん……!」

 すがるように藍条に抱きつく。恋人の突然の異変に戸惑いながらも、藍条はそれを受け入れ、抱きしめ返した。

「ごめんなさい、私……私怖いの……!」

 言葉にすることができない恐怖が亜理愛を支配していた。自分自身の悪癖や、斎波に対する後ろめたさ。そして……長年斎波と関わっている亜理愛だからこそわかる、彼の不気味さ。明らかに異様である彼の性質。

「わからないのよ……こんなの、いったいどうしたらいいの……!? どうしよう、遼基さん、私……!」

「亜理愛……」

 顔をうずめた胸が、背中に回された両腕が温かい。

「大丈夫だ。たとえ何があろうとも、私は君のそばにいる。だから、安心してくれ。君はひとりじゃない」

 藍条の囁き声が耳の奥の反響をかき消していく。ああ、この人と一緒にいられて良かった。体の震えもこわばりも、彼の肌から伝わる温もりに溶けていった。

「ありがとう遼基さん……ごめんなさい……」

「いいんだ。落ち着くまではこうしていよう」

 藍条はいつまでも亜理愛を抱きしめ、彼女を温め続けた。ここが仕事場であることも忘れ、亜理愛はしばらくそれに甘えていた。

 そして亜理愛は、斎波に謝りそびれたことを意識の外へ追いやってしまっていた。




「斎波さん? こんなところにいたんですか。探しましたよ」

 声をかけられて振り向く。無意識のうちにどこをどう歩いていたものか、屋上に繋がる階段の踊り場に立っていた。目線を下げると、階下には何度も思い浮かべた顔。

「……宍上君」

「枯木さん達が景気付けに飲みに行こうって、団員のみんなを誘ってるんです。斎波さんも来ませんか?」

 優しい笑み。恐らくは本心から斎波を気遣って言っているだろう言葉。彼は優しい、良い人だ。そのはずだ。

 なのに、彼の顔を見ていると、憎らしさ、おぞましさを感じて仕方がない。

「……斎波さん? どうしたんですか? まだ気分が……?」

「行かない」

 宍上の声を遮って言う。

「君達だけで行ってくれ。私は……今はそんな気分じゃないんだ」

「斎波さん……」

「来ないでくれッ!」

 階段に足を掛けた宍上に、反射的に怒鳴る。驚き、ショックを受けたように固まる宍上に対し、どう対応するのが正しいのかわからない。斎波の中にあった基準は、最早ほとんどが崩壊しかかっていた。

 そこにいる彼は、本当に善人なのか。自分は今まで、信じるべきでない人間を友と思っていたのではないか。

「……すまない。一人になりたい気分なんだ。なんだか調子がおかしい。休ませてくれ。頼む」

 自分がしたい行動すらもわからない。彼と今まで通りの良好な関係を築きたいのか、すべてを台無しにしてでも真実を明らかにしたいのか。宍上紅蓮という人間を信じたいのか、憎みたいのか。めちゃくちゃになった基準を無視し、条件で相応しい言葉と表情を選んで話す。

「――そう、ですか。ごめんなさい」

 宍上は申し訳なさそうに言い、一歩足を引いた。

「お店の場所はグループメッセージで回すって枯木さんが言ってました。調子が戻ったら、是非来てくださいね。みんな待ってますよ」

「ああ、ありがとう」

 宍上は何度も名残惜しげに振り向きながら歩いていく。斎波は目的もなく屋上へ向かって階段を昇る。扉を開けると、半袖にはやや冷たい風が肌を撫でていく。

 ビル群の間に沈む時刻が早くなった夕日が、ゲネプロの日が近づいていることを知らせていた。

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