疵抉るアポロンの矢

 枯木はスタジオの屋上に寝そべり、思いっきり伸びをした。

「はーあ……」

 数日前までの暑さはどこへやら、すっかり落ち着いた日差しかぽかぽかと優しく枯木の身体を温めた。これが晩夏ってやつか、といつの間にか八月が終わっていたことに気づく。

「どうされたんですか? そんなところで」

「うおっ」

 心身を弛緩させてぼんやり空を眺めていると、突然声をかけられる。慌てて飛び起きると、そこには宍上の笑顔があった。

「アンタか……。ああ、いや、サボってたわけじゃあないんだが」

「休憩ですよね。わかってます」

 後ろめたさからあたふたと弁解していると、宍上はにこりと笑って枯木の隣に座った。こうも顔が整っていると、かえって嫉妬心も湧かないものだな、と他人事のように考える。

「気持ち良いですね、ここ。下に戻りたくなくなっちゃうな」

 そよ風に煽られた前髪を直しながら宍上が言う。それを見ていた枯木は、なぜだか胸のうちにわだかまっていたものを吐き出したくなった。

「空気が変わった、と思わねえか?」

「空気、ですか?」

「なんつうのか、こう、雰囲気ノリってやつだよ、劇団内の。ピリピリしてるんだよな、どいつもこいつも」

 殺気立っているというか、切羽詰まっているというか。既に公演まで二ヶ月を切っているのだから、プレッシャーを感じるのは当然かもしれないが。

「薄川なんか、すげーギラギラした演技するようになっただろ。力入ってるっつうか、真に迫ってるっつうか」

 最近の薄川の演技は、以前とは比べ物にならないくらいハイレベルになった。一緒に演技していると気圧されそうになるくらいだ。しかし、オフのときも常にカリカリしていて、近寄り難くなってしまった。

「そうですね。何か、心境が変わったんでしょうか。なんにせよ、演技に身が入るのは良いことだと思いますけど」

「ああ、まあ、な」

 あからさまに歯切れの悪い返事したからか、宍上は不思議そうな顔になる。

「……あー、なんだ。俺ってさ、結構なクズなんだわ」

「えっ?」

「日の当たる道を歩けねえようなことやってるわけじゃあねえんだが、真っ当なツラもできねえ。わかりやすく言や不真面目だな。何やってもマジになれねえんだ、根っから」

 唐突に何語りだしてんだ、と引かれているかと思ったが、意外にも宍上は真面目な顔で耳を傾けてくれている。

「だから、今の薄川とか、あとは斎波とかな。ああいうずっとマジな連中見てるとよ、なんか一気に冷めちまう。あいつらのが正しくて偉いってのはわかるんだ。わかってるからこそ、嫌になんだよ。あんな風に頑張らなきゃなんねえのか、ぶっちゃけだりい、付き合ってらんねえよってな。クズだろ」

 今こうして屋上でサボっていたのも、枯木のそういう困った性質のためなのである。周囲が活気付いて、一丸となって頑張っている中に入れない。どころか、どんどんやる気を失くして冷めていく。もう三十路も見えてきた人間の態度ではない、と自分で自分が可笑しくなる。

「悪いのはこっちのほうなんだけどな、あいつらが鬱陶しくて、後ろめたくて、同じところにいんのがしんどくなる。だからこうしてサボってたってわけよ」

 話しているうちに馬鹿らしくなって、おどけた調子で話を打ち切る。しかし宍上は、至極真面目な表情でそれに頷いた。

「それは……つらいですね」

「お、おう?」

「みんながみんな、『頑張れる』わけじゃありませんよね。僕もなんとなくわかります」

 意外な言葉だった。何せ若手俳優のトップである宍上だ、持って生まれた容姿だけではやってこれなかっただろう。多忙なスケジュールの合間を縫っては稽古場で練習している姿は、枯木のような捻くれ者からも“努力家”に見える。

「頑張らなきゃ、って思えば思うほど、かえって何もできなくなりますよね。僕も、ちょっとあっぷあっぷでやってるんです。いったい、どこまで頑張ればいいんだろうって」

 こいつにも悩みはあるのか――宍上の疲れたような横顔を見て、枯木は考えれば当然のことに気がついた。いくら、枯木の想像を絶するほどの努力ができる人間だろうと、決して疲れないわけではないのだ。

「……あー、なんつーか、あれだ」

 なぜだか無性に読ずかしくなった枯木は宍上から目を逸らしながら言った。

「何か困ったり、面倒なことがあったら。言ってくれよ。俺、こんなんでも代表とは顔なじみだし、色々融通できっから。頼りになれるかはわかんねーが」

「ありがとうございます。僕も、ご迷惑にならないようにしますから」

 こういう“良い子”すぎるところは苦手だがそう邪険にするほど嫌味でもねえな、と枯木は宍上への見方を少し改めた。

「そういや、あんたはなんでここに? サボるため、ってわけじゃあなさそうだが」

「ああ、そうでした。ええと……」

 と、宍上は辺りを見回す。そして何か見つけたのか、タオルやトレーニングウェアが干してある一角へと向かった。

「吾風さん、起きてください。こんなところで寝てちゃ駄目ですよ」

「んー」

 洗濯物の陰に隠れるように寝ていたのは吾風ユウジだ。宍上の用事は彼を探すことだったらしい。

「姿が見えねえと思ったら、こんなところにいやがったのか。隠れて昼寝なんて猫じゃあるめえし」

 枯木が言えた台詞かはともかく、吾風の態度は問題だった。演じさせたら凄いことはもう周知のことであるし、代表に注意されてからは勝手なアトリブもしなくなった。が、とにかく練習に参加しない。しっかり見張っていないとすぐに抜け出し、こうしてこっそりサボっている。葉原あたりがアンサンブルの練習がてら見張っているが、こんな調子で本番はどうなるのか、枯木でも心配になってしまう。

「あ、宍上だ。何の用?」

 吾風はへらへら笑いながら立ち上がる。反省の色は当然ない。その様子には宍上ですらため息をついてしまうようだった。

「……ですから、練習しましょうよ、練習。葉原さんが困ってましたよ。僕だって、あなたとのシーンは全然できてないんですよ」

「だってだりいんだもん」

 子供か。呆れて枯木が口を挟む。

「俺だってだりいわ。でもよ、ろくに練習しなかったら失敗するに決まってるだろうが。舞台は一人じゃできねえぞ。他の奴らと息を合わせられるようにしとけ」

 息が合わなくてもなんとかできてしまうのはそれこそ斎波くらいだ。いつかの公開稽古の時のような無茶苦茶アドリブを自分との共演シーンでやられたらと思うと気が気でなくなる。

「えー、なんとかなるよー」

「ならねえよ」

「お願いしますよ、吾風さん。練習しましょう?」

 宍上はこんな人間が相手でも腰を低くして頼む。 吾風は寝ぼけ眼をこすり、宍上をぼんやり見つめながら言った。

「だっておまえ、相手に合わせるんじゃなくて相手をいいように動かしてんじゃん。おれもそうやって、手懐けた犬みたいにするつもりなんだろ?」

「えっ――」

「おれ、てきとーにやるからさ。合わせろっていうのなら合わせるけど。でも、おまえに首輪つけられるのはやだなあ」

 吾風の言葉に虚を突かれたのか、宍上はしばし沈黙した。心から驚いたような表情を、吾風は半目でぼうっと見つめている。

「――いい加減にしろ」

「あてっ」

 と、見かねた枯木が吾風の脳天に拳骨を振り下ろした。

「なにすんだよお」

「ごちゃごちゃわけわかんねーこと言ってんじゃねえよ。宍上だけじゃねえ、俺ら全員がおめーに迷惑してんだ。そろそろマジに代表に言うぞ? 今ならまだ、おめーを降板させてもなんとかなるからな」

「こ、こーばん……」

「クビだクビ。なんなら、劇団からも出てってもらうぜ」

 こんなにいい加減な奴なのに、不思議とこの手の脅し文句がよく効くのだ。クズといえども職を失うのは嫌なのか。単に金が惜しいだけか。案の定、吾風は困った顔になって縮こまった。

「それはー……困るなー……」

「だったらちったあ真面目にやれってんだ。おら立て、行くぞ」

 吾風の手を引き無理やり立たせる。すると、宍上は驚いた顔になった。

「枯木さん、一緒に連れて行ってくれるんですか?」

「あ? まあ、しょうがねえよ。こいつはあんたみたいな年下はナメてかかってっから、一人じゃ無理だろ。そろそろ“休憩”もやめにするつもりだったしな」

 他人のサボりを叱りつけておいてサボり続けられるほど枯木の神経は太くない。言い訳っぽく言うと、宍上は顔をほころばせた。

「……ありがとうございます。枯木さんは頼りになりますね」

「うぇー」

 吾風は宍上と枯木の顔を見て嫌そうに口を曲げた。枯木は照れ臭くてそっぽを向いていて、それに気づかなかった。




「『アタシ達はあの子とは違う。身を売って金を稼ぐよりほかに、生き方を知らないんだ』」

「……やっぱり、変わっている」

 一幕の半ば、アデルと共に店を開く約束をしたリュシアンが地元に戻り身辺整理をするシーン。“ジジ”として演じる薄川を見て、斎波は小さく呟いた。

 本番が着実に迫ってきて、団員達の練習にも熱が入るようになってきた。役の解釈を深め、お互いの演技を見合い、時に助言やディスカッションをする。そうして自分の演技を、ひいては演目そのものをより良くしようとする姿勢こそ素晴らしいものはないと思う。ただ、それを心から喜べないのは、斎波にある懸念があったからだ。

「どうしたの? 斎波くん」

 薄川を見つめながら考え込んでいると、休憩中だった葉原が声をかけてきた。

「ああ、いえ。少し気になっただけで」

「薄川ちゃんのこと?」

 視線の先を追われ、斎波は苦笑いする。

「なんだか彼女、変わったように思いませんか」

「そうねえ。演技はどんどん上達してるけれど」

 作中で“アデル”と“ジジ”が直接相対するシーンはない。自然、斎波と薄川が接する機会も少なく、彼女が普段どんな人柄なのかはっきりわかっていない。しかしそんな斎波にも、ここ最近の薄川の変化は顕著であるように見えた。

「冷たいっていうか、余裕がないっていうか……ちょっとカリカリしてるように見えるわねえ。何か別件で嫌なことでもあったのかしら」

「プライベートで何か、ということですか?」

 同じ女性同士だからだろうか、葉原はもっと敏感に感じ取っていたらしい。

「色々トラブっちゃって、どうにか仕事には持ち込まないようにしてるけど、感情の整理が追いついてない……ってところだと思うわ。本番までに落ち着くといいんだけど」

「トラブル……」

「付き合ってる彼氏とかと、何かあったとか」

「………………」

 思い当たる節は、大いにあった。

 以前見た、宍上と薄川の逢瀬――もしやというか、やはりというか、それがここ最近の薄川の変調の原因なのだろうか。人目を避けてとはいえ口づけを交わすくらいなのだ、二人が“ある一線”を越えているのは事実なのだろう。

 恋愛経験がゼロに等しい斎波には、それ以上薄川の恋についての考察をするのは困難だった。

「まあ、そういう“感情”がなかなか好きな人とくっつけないジジに役立ってるみたいだし、トラブルをこっちに持ち込んでるわけじゃないし、しばらく見守ってあげるべきじゃないかしら」

 と、葉原は苦笑混じりに言う。態度が良くないのは問題だが、今のところ目立った問題もないのだ。あまり気にしない方がいいだろうか。

 だが――この胸騒ぎはなんなのだろう。

 娼婦のジジに良かれと思って女工の仕事を紹介しようとするリュシアン。それをジジは「自分は娼婦以外の仕事はできない」と断る。善意が空回りするリュシアン――宍上を、薄川ジジは冷たく、しかしどこか諦めたような目で見つめている。それはいったい、どこまでが演技なのだろうか。

「そうだ。斎波くん、ちょっといい?」

 葉原が声を潜め、斎波に手招きして稽古場の隅へいざなった。

「初空ちゃんのこと、知ってる?」

 発せられた名前にどきりとする。

「彼女に何か?」

「何かあった、ってわけじゃないんだけど……」

 件の彼女、初空は“マルグリット”として宍上達の練習に参加している。リュシアンの妹の一人で、若いながらも娼婦となって一家の家計を支えようとする健気な少女だ。

 あの夜見たものがすべて幻だったかのように、初空は出演者達に馴染んでいた。初心者とは思えないほどいきいきと演技をし、苦手だったダンスも積極的に練習し上達している。 引っ込み思案は相変わらずだが、演技について他の団員に助言を仰いだり、報連相はきちんとできているようだ。きっとあのときのことは彼女の中で解決したのだろう、と思い込もうとしていたのだが。

「アタシが直接見たんじゃなくて、人づてに聞いたことだから、はっきりとはわからないんだけどね。彼女、よく“ヘンな人”に絡まれてるみたいなの。ストーカーみたいな人が初空ちゃんを出せってスタジオの前で騒いだり、宍上くんや生越ちゃんのファンに変な勘違いされて殴られそうになってたり。時期が時期だから、公にならないように亜理愛ちゃんが口止めさせてるんだけど」

「そんなことが……」

 あの件の他にも、彼女の身に不幸が降りかかっていたのか。いや、しかし――いくらなんでものではないか。一つ一つなら不運、災難で済むが、短期間で立て続けに起こるのは尋常ではない。葉原も同意見のようで、困ったように頬に手を当てる。

「あんまりこんなこと言ったら可哀想だけど、同じ子に何回も不幸なことが起きるなんてやっぱりヘンよ。本人に何かがあるんじゃ、って考えちゃうわ。とっても良い子なんだし、そんなことないってわかってるんだけど」

 原因――何かが彼女に不幸を引き寄せているというのか。あるいは――彼女が自ら不幸を呼び寄せているのか。

「斎波くん、何か心当たりがあるの?」

 思案する斎波の顔色に何かあると踏んだのか、葉原がら問うてくる。斎波は答えに窮し、唸り声のような返事した。

 今こそ相談するべきだろうか。あの夜のことを。彼女にいかなる“原因”があるのだとしても、彼女に害を及ぼした人間か確かに存在しているのだから。女性の心に疎い斎波とは違い、同じ女性である葉原ならきっと親身に話を聞き、解決に協力してくれるだろう。

 ……ただし、初空の尊敵は間違いなく傷つけられてしまうだろうが。

 “アデル”と向き合っていて気づいた。なぜアデルは、頑としてリュシアンに自らの弱みを明かそうとしなかったのか。プライドが高く、完璧主義者だったことも大きいかもしれない。しかし、弱みは得てして汚点として捉えられてしまうことか多い。あたかも、傷跡が醜く忌まわしいものとして嫌われるように。あってはならない、普通ではない――大きすぎるスティグマを持ってしまったら、それを認めること自体が大きな苦痛となる。

 斎波とて、心に仕舞い込んでいた黒い感情を宍上や葉原に打ち明けることなどできやしないというのに。たとえ善意でも、人の傷を不用意に触れるべきではないはずなのだ。

「……いえ、なんでもありません。勘違いでした」

 首を振ってそう答える。葉原は「そう?」とやや納得いかないような顔で斎波を見つめた。

「僕も初空君に気をつけておきます。公演前に怪我でもしたら大変だ」

「そうね。……あれ?」

 葉原が目を丸くする。

「斎波くんが『僕』っていうの久しぶりね。子供の頃みたい」

「あ……」

 無意識の言い間違い。斎波は即座に笑顔を作って答えた。

「きっと、アデルのせいですね」

 そうやって取り繕うための小手先すらも、きっと“彼”から学んだものなのだ。




 原作『或る無情への墜落』においては、アデルとマルグリットが出会うことはない。

 リュシアンがアデルの事情をクライマックスまで知ることがなかったように、アデルもまた、リュシアンがどのように暮らしていたかを知らない――知ろうともしなかった。リュシアン側の登場人物がほとんどアデルとの関わりを持たないことは、そんな歪みを表すためのものなのだろうと斎波は考えている。

 しかし、本公演『五十フランの泥』では、マルグリットとアデルの“接点”が作られることとなった。

黒の貴婦人マダム・ド・ラ・ノアールってあるでしょう。アデルの別名」

 台本の修正が入った際、演出の乾はそんな風に言った。

「お話に突っ込みを入れるのはナンセンスなんだけど、やっぱり斎波くんのアデルで“マダム”は難しいと思うんだ。最近の斎波くんはだいぶ可愛くなってきたけどね」

 老若男女を魅了し、あらゆる服を着こなす魔性の人。女物のドレスすら美しく身に纏うアデルを称える異名であるが、まあ、さすがに斎波の顔・体格では頑張ったところでドラァグクイーンになれるかも怪しい。

「でも、そこをカットしたり変に改変するとまたややこしくなるでしょう。だから、藍条くんにちょっとシーンを追加してもらったんだ」

 マルグリットは娼婦をやめ、紹介された女工の仕事をするようになったが、ある事情から工場から逃げ出す。工場で垣間見た弱者同士の醜い蹴落としあいで恐怖に陥ったマルグリットは、パニック状態で夜の街を走る。そこに運悪く、酒に酔った男と出くわしてしまうのだ。

「『おや、困っているようだね、お嬢ちゃん?』」

「『い、いや……違うの、あたし……』」

 酔った男は立ち尽くすマルグリットを“夜鷹”だと思い込み近づく。怯えきったマルグリットは足を竦ませ逃げることもできない。波止場で働いていた彼女にとって、“お客”は等しく暴力的で恐ろしいものだった。

「『ムッシュー、お相手をお探しで?』」

 そこに――男娼として夜の街を歩くアデルが現れる。

「『失礼ながら、そこのマドモアゼルは支度が整っていないようだ。貴方が問題ないのなら、この私がお付き合いしましょう。何、退屈はさせませんよ』」

 黒いレースがひらりとたなびく、男とも女ともつかぬ装いの美しい青年。歩き方や話し方はおろか、ほんの小さな手の動かし方、瞬きのタイミングにすら見惚れるほどの気品がある。それは、マルグリットが今まで見たどんな“男”よりも美しく、波止場の女達すら叶わない気高さ。彼に対しては“性”という高く頑丈な壁すら意味をなさないように思えた。

 マルグリットが呆然と目を奪われている中、アデルは優雅に酔っ払いの手を取り、路地裏へと招き入れる。幻想的な光景を目に焼き付け、マルグリットは思わず呟く。

「『素敵な人……貴婦人って、ああいう人みたいなのかしら』」

 マルグリットの話は少しずつ広まり、やがて黒い服を着た貴人――“黒の貴婦人”の噂としてリュシアンの耳にも届く、という筋書きだ。

 アデルは、リュシアンとの出会いが奇跡のようなもので、普段はほとんど他人に関心を抱かない。男娼生活で精神が追い詰められてからはその傾向は顕著となっている。きっと、ほんの気まぐれで助けた少女がよもやリュシアンの妹であろうとは夢にも思わず、一瞥した顔すらも記憶に留めることなく忘れるのだろう――斎波はアデルを演じながら、マルグリットとして立つ初空を横目で見て考える。

 マルグリットと目が合う。彼女は、すっかりのぼせあがった顔でアデルを見つめていた。

「上達したな」

 休憩の折、初空に話しかける。また怯えて逃げられるかと思ったか、初空は平然としている。

「動きが格段に良くなっている。練習したんだな」

「伊櫃君に教えてもらったんです」

 初空は朗らかに答えた。

「初めて舞台に立つから、絶対失敗したくなくて。伊櫃君はダンスが得意だから、どういうに動けばいいか聞いたんです」

 新人らしく初々しい、活気に満ちた返事だった。なるほど、最初は微妙な仲だった伊櫃とも仲良くできているのか、と安心する。

 しかし、何かが引っかかった。

「初空君……」

「斎波さんのアデル、素敵でした。斎波さんに追いつけるように、頑張りますね」

 初空はぺこりと頭を下げ、休憩スペースから出ていく。詮索は無用だ、と言外に突きつけられたような錯覚に陥る。

「――演技がかっているのか」

 そしてふいに、斎波は違和感の正体に気づいた。

 わざとらしい、とまではいかない。努力して発音に抑揚をつけたり、オーバーになりすぎないように動作を心がけていたり。それでいてまったく“本心”は伴っていない動き――まるで役者が『初空えみな』という役を演じているように見えるのだ。

 先程アデルを見つめていた“マルグリット”のほうが、余程

「――――――」

 普通ならばありえない逆転現象。しかし斎波には、どうしてそんな挙動をするのか容易に理解できた。平素、平静を装って、演技の中で秘めていた感情を解き放つ――それは、斎波自身のありようと同じだ。

 初空は何も乗り越えられてなどいない。感情をすべて脇に押しやっているだけなのだ。

 なんとかしなければ。種類の判然としない衝動が斎波を襲った。彼女をこのままにしておくわけにはいかない。自分自身に大きな破綻が現れ始めているように、初空もこのままでいられるはずがない。傷を塞がぬまま、知らぬふりで放っておけば、化膿によって生じた毒がやがては全身を腐らせることになる――!

「――初空君!」

 初空を追いかけ、うつむきがちで少し丸まった肩を叩く。触れてから、そのあまりのか細さに驚く。少し力加減を間違えただけで粉々になってしまいそうな儚さだ。振り向き、驚きに染まった彼女の表情は、怖いほどに弱々しく。

「な、なんですか……?」

「君は――」

 口を開いてから、言葉を何も用意していなかったことに気づく。何を言うべきなのか。彼女には、どんな言葉をかけるのが正しいのか。

「どうして――」


 ――どうしてそんなに我慢されてるんですか。


 そして思いついた言葉が、いつかの折に宍上から言われたことであるのを思い出した。ああ、あのときの自分はどうして彼の言葉を聞き入れられなかったのだろう。彼が優しさ、善意で言ってくれたとわかっていたのに。宍上はいったい、斎波のことをどこまで見抜いて、あの忠告をしたのだろうか。

 君の言う通りだ。私はずっと、間違い続けている。

「……あっ」

 再び言葉を失い、意図せずして作り出してしまった沈黙を破ったのは、携帯電話の着信音だった。斎波のスマートフォンの音ではない。初空がポケットからスマホを取り出し、おずおずと斎波を見る。好きにしていい、身振りで伝えると、初空は少し焦った様子でスマホを操作する。電話ではなくメールかメッセージアプリによるものだったようで、初空は普段の様子からは考えられないほどのスピードで文字を入力していた。

 覗き見をするつもりはなかった。

 初空の背後に立っている以上、斎波の視点では初空のスマホの画面が肩越しに容易に見ることができた。しかし、内容はなんであれプライバシーである。用件が済むまで目を逸らすつもりでいたのだ。

 視界の端にちらりと『宍上さん』という名前が映るまでは。

『今夜、どうですか』

『この間と同じホテルで良いですか? 終わったら連絡してください』

『わかりました。今は立てこんでいるので、またあとで』

 無意識に画面上のやりとりを目で追ってしまっていた。斎波は声が出そうになるのを必死で堪え、目を逸らす。初空は文字を打つのに手一杯のようで、斎波の視線には気づかなかったようだ。

 ……なんだ、これは。今の文面は、いったいどういうことだ。

 判断を下すにはあまりに少なすぎる情報で――しかし、見過ごすにはあからさまに決定的だ。放心し、活動を止めた理性の傍らで、斎波は冷徹に計算をし始めていた。

 宍上と薄川の関係。急に変調をきたし、自棄になったように演技に打ち込むようになった薄川。……小角からの忠告。


 ――色んな意味で女の子を変えちゃうタイプなんだね。


 そして導き出された答えは、どう好意的に解釈しても宍上の悪意の存在を否定することはできなかった。

 彼は、いったい何をしているのだ?

「えっと……終わりました」

 気づくと初空はやり取りを終了させ、スマートフォンをしまい再び斎波をおずおずと見上げていた。斎波は自分が一度たりとも声を上げていなかったことを他人事のように驚いていた。内では嵐の真っただ中のように荒れ狂い、行き場のない感情が衝動的に暴れ回っているというのに!

「いや……すまない、なんでもないんだ」

 斎波を動かしている“システム”は、それでも正常に稼動していた。無闇に初空に当たってしまいそうなのを抑えつけ、場当たり的で適当な言葉を打ち出す。予測変換に並んだ単語をそのまま並べただけの、無意味な返事だった。

「勘違いだったようだ。引き留めてしまってすまない。どうぞ、行ってくれ」

「そう、ですか? それなら……」

 初空もまた、虚ろな視線を斎波に投げかけてから去っていく。彼女はどこに向かっているのだろう。あの足で宍上の元へ行くのだろうか。あの細い肩を、折れそうな首を、彼に触らせるために。

 ありえない。あの子の、あんな姿を見ていながら? 癒えない傷を抉るような真似をするのか?

 吐き気がした。

「――宍上君」

 馬鹿な、そんなことがあるわけない。彼は誰にでも優しい、善人だ。斎波にも幾度となく助言や手助けをしてくれた。彼に限って、そんなこと。

 いや――そもそも彼は、以前から女性を傷つけることをする人間だった。斎波に見せた顔はどうあれ、それは変わらない事実ではないのか。

 打算と理性がぐるぐると渦を巻く。否定と反証が繰り返されるたび、斎波を支えていた土台がぐらぐらと揺れた。

 斎波の傷は着実に広がっていた。

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