翻弄されるカサンドラ

 思うに、アデルは嵐の中に放り出された花のような人間なのだ。

 稽古の最中、アンサンブルの団員達と踊りながら、斎波はらしくもなく考え事をしていた。

 ありのままに咲く姿はもちろん、少しずつ散り、舞っていく花びらも目を奪われるほど美しい。しかし強い風に嬲られ続け、かつての美は見る影なく無残な姿となる。そんな中、雲の切れ間から垣間見える星々に嫉妬、あるいは理不尽な増悪を抱いてしまうのだ。自分はこんなに酷い目に遭っているというのに、どうして彼は風にも流されず変わらぬ姿でいるのか。どうして自分はこんなにも醜く、彼は美しいままなのか。

 なるほど、斎波にもその心理はよく理解できた。美醜とか、基準が曖昧な価値観で考えてしまうとわかりづらいが、長所・短所と図式〜単純化してしまえばこれほどありふれた話はない。誇りに抱いていたものを失い、打ちひしがれる一方で、今までとまったく変わらない姿の友人が眩しく見え、だからこそ憎らしく思ってしまう……。

 それは、今の斎波にも深々と突き刺さる寓話だった。

 アデルはリュシアンにも明かせぬ苦悩、煩悶を抱えながら夜の街で舞い踊る。今練習しているのは、そんなアデルと、彼の美に魅了され彼と夜を共にする人々が踊る場面なのだ。

 一夜の恋に溺れる愚かで冷淡な人々。無垢さを失い罪悪を重ねながら、希望を求めさらに冷酷に振る舞うアデル。実情は凄惨であるのだが、ダンスはあくまで華やかできらびやかだ。曲も振りつけも力が入っており、きっとこの舞台における見せ場の一つになるだろうと思われた。

「じゃあ、ここで一旦休想にしましょうか」

 一連の流れが終わり、CDプレーヤーを一時停止しながら葉原が言う。古株の葉原はアンサンブルでもリーダー役を務めていた。

笠佐木かささぎくん、さっきのジャンプ良かったわ。昼子ひるこちゃんもだいぶ上手になったわね。津辻つつじちゃんはさっきつまずいてたところをもう少し練習しましょうか。弓手ゆんでくんは――」

「葉原さん。少し、良いですか」

 団員達に声をかけている葉原を呼び止める。振り向いた葉原は、斎波の顔を見た途端驚いたように硬直した。

「葉原さん? どうかしましたか」

「い、いえ……斎波くん、あなた」

 葉原は斎波の姿をまじまじと見つめ、はあっとため息をついた。

「踊ってるときも思ったけれど、なんだか……すごくセクシーになったわ」

「セクシー、ですか」

「艶っぽいというか、色っぽいというか、ね。ちょっとドキドキするオーラが出てるわよ。アデルの役がだいぶ馴染んできたのかしらねえ」

 確かに、ここ最近はようやくアデルに近づいてきたような感触があった。しかし、はたから見てもはっきりそうとわかるくらいに表れていたとは。

 『セクシー』、か。自分の顔を触ってみる。あまり実感はない。

「あら、腰を折っちゃってたわね。何の話?」

「実は、この後約束していまして。掛け合いのシーンを練習しようと」

「抜けるのね。大丈夫よ。誰とするの?」

「それは――」

 なんとなく言いづらくて言い淀むが、別に隠すようなことではない。

「――真鉄君です」

「ああ、彼……」

 葉原は心配そうに顔を曇らせた。

「あの子、わたしも見るようにしてるんだけど、やっぱりちょっと周りと上手くいってないみたい。練習熱心だし、頑張ってはいるんだけど、空回りしちゃってるのね」

 真鉄の態度の悪さはすっかり劇団中で話題となり、代表の頭を痛めていた。

 以前から接していた古参団員とは何も起こさないが、新入りの団員達とは頻繁に衝突していた。少し挨拶しただけで暴言を吐かれた、あんなとは一緒にやっていけない、なんとかしてくれ――そんな訴えが何度となく上がっている。

 彼は今回が初舞台だ。確かまだ高校三年生――中学時代にデビューした斎波よりは遅い時期とはいえ、若いことには変わりない。緊張もするし、不安やストレスもあるだろう。きっとそれが他人への攻撃に繋がっているのだ。ならば、口で注意するばかりでなく、彼が練習に集中できるように指導するべきではないか、と斎波は考えた。

「斎波くんは主演なんだし、あんまり自分の時間を削らなくていいのよ?」

 困ったようにため息をつき、葉原が言う。

「ああいう子は、本当はもっとしっかり指導してから上げなきゃいけないのに、事務所の横槍で全部決められちゃって。斎波くんが気に病むことじゃないのよ」

「しかし、放っておくわけにはいかないでしょう」

 今まで見てきた真鉄の姿を思い出す。言葉遣いには著しく問題があるものの、根は真面目な彼が今の状況を良しとしているとは思えない。

「劇団や団員のために尽くすのが、私の生きがいですから」

 これは利害も打算もない、本心からの言葉だ。

 斎波がやるべきことではないかもしれないが、誰もやらないなら自分がやらなければならないだろうと思う。

 何より、劇団を支えてくれ、と志島先生に頼まれているのだから。

「そう……じゃあ、ほどほどにお願いね。わたしはもう少しここにいるから、何かあったらいつでも呼んでね」

「ありがとうございます」

 顔から憂いが晴れない葉原に少し胸がざわついたが、頭を下げながらその場を去る。

 斎波はあの日以来、自分の行動の正否を判じることができなくなっていた。


「……やっぱり凄いっすね、斎波さん」

 斎波が去った後、感嘆のため息とともに弓手が呟く。それを皮切りに、アンサンブル達は一斉に肩の力が抜いた。斎波の存在は、彼らを蛇に睨まれた蛙のようにしていたのだ。

「やっぱり“圧力”半端ねえ〜っ」

「マジで凄いけど……一緒にやるの怖すぎぃ……」

「今から怖がってどうするの。本番の彼はもっと凄くなるのよ」

 一気にだらける団員達をたしなめる葉原だったが、その声にどうも覇気がない。それを見咎めた弓手が揶揄するように指摘した。

「そう言うちー姉さんだってビビってるじゃねっすか」

「その呼び方はやめて。ビビってるわけじゃないわよ。ただ……」

「ただ、なんすか」

 上手く指摘できない違和感を、葉原は感じていた。

 役者とは多かれ少なかれ役に移入し、没入するものだ。葉原も女子高生の役を演ると心が少し若返った気持ちになるし、悪女を演じると日常生活でも言動が荒っぽくなってしまう。だが――ここ最近の斎波の変貌は、単にアデル役に集中しているからとはどうも思えない。

 良くも悪くも冷静で判断が早い彼が、ここのところは妙に口数少なく、考え込むようになった。彫り深く端正な面差しに影が差すようになり、他人の所作を見ては何か考えているように動きを止める。その分、アデルとしての演技に深みが増し、思わず目を奪われるほどの色艶を滲ませるようになったのだが。

 演技の幅が広がった――だけで済めば良いのだけれど。

「彼……戻ってこられるかしら」

「はあ。あっちの練習が終わったら来てくれるんじゃないすか?」

 思わず漏らした呟きに弓手からとんちんかんな答えを返され、葉原はくすりと微笑む。考えすぎだ、きっと。自分の杞憂を笑い、葉原は休憩中の団員達に声をかける。

「みんな、この後もばりばりやっていくわよ。斎波くんも宍上くんも凄い役者よ、アンサンブルだからって背景に埋もれるような演技をしちゃだめなんだから」

「は〜い」

 気の抜けた、まだまだ活力に溢れる返事に安堵する。

 大丈夫。この劇団は順調だ。




 例の一件、生越との口論は、斎波の心に確かに変調をもたらしていた。

 自分は打算で動き、利害で他人を切り捨てられる人間――ならば、その思考回路で導かれた結論に、果たして“正しさ”はあるのか。

 それは結局、斎波の我欲で独善で。それを他人に強いるのは、あまりに暴力的ではないのか。

 だから――視界の端に映った光景をどう評価するべきか、今の斎波にはわからなかった。

 非常階段に繋がる廊下の端はひと気が少なく、劇団に何組かいる“隠れカップル”達には絶好の場所となっている。例え行き来の途中でその姿を見かけてしまっても、見て見ぬ振りでその場を去るのが団員達の暗黙の了解だった。

 そこにいる二人が宍上と薄川でなければ、斎波もきっと立ち止まることなくその場を通り過ぎていたのだ。

「………………」

 重なり合っているシルエットは、まるで相思相愛の男女が口づけを交わしているように見えた。


 ――彼、ちょいちょい女性関係でトラブルあったんだ。

 ――付き合ってる女優の子がいたんだけど、その子がすごく荒れちゃって。


 “インタビュー”で小角から言われたことを思い出す。

 問題はない、はずだ。互いに想い合う幼なじみという役柄で、役者同士の距離が縮まることはよくあること。実際、恋人役を演じた男女が実生活でもカップルになることは珍しくない。それに、どうであれ個人のプライベートだ。共演者といえど、その交友関係に口を出す権利は斎波にはない。

 ――もし、何かの折に二人の関係が悪化したら?

 ――女性ファンの多い宍上に恋人がいることが知られたら、彼のファン達はどうするのだろうか?

 傲慢で残忍な計算は、それでも次々と頭に浮かんできた。

 立ち止まり、注視している人間がいれば、どんなに“行為”に熱中していようと気づいてしまうものだ。非常口を背にこちらを向いていた宍上と、硬直していた斎波の視線が交わる。

 ――ああ、自分は一体、何を考えている!

 宍上達から目を背け、斎波は足早に立ち去る。宍上の視線がまるで本当に刺さっているかのような痛みを、身体のどこかに感じる。

 彼に悪気はない。いつだって善意の彼を、裏切るような真似はしたくない。彼は――なんのエゴもなく心から好きになれた、彼だけは。

 杞憂を振り払いながら、ああ、確かに自分はアデルに似ていると斎波は自嘲した。




 斎波との練習場所に、真鉄は衣装や小道具などをしまう倉庫の隣の小さな空き部屋を指定した。

 真鉄とて劇団における自分の今の立ち位置を理解している。目立たず、波風を立たせぬよう、裏方の手伝いをしていた時に見つけた“穴場”でやろうと決めたのだ。

 しかし――そこには既に厄介な先客が占有していた。

「はあ? なんでお前がここにいるのさ」

 伊櫃の不機嫌そうな眼差しに、真鉄も思わず舌打ちした。

「貴様こそ、こんな埃臭い場所で何をしている。練習はどうした」

 ここは真鉄にとってお気に入りの場所だった。隣の倉庫にはもう何年も前からしまいっぱなしのガラクタばかりで、ここに来る人間は滅多にいない。一人になりたいときはいつもここに来るのだ。

 テリトリーに無断で侵入されたような感覚に、真鉄の苛立ちが増した。

「ぼくがどこで練習しようが勝手だろ。お前はなんなのさ。ここは定員一名でいっぱいいっぱいだよ。別のとこ行けよ」

「…………」

 口から出かけた悪罵をぐっと飲み込む。

 練習場所は別にどこでも良いのだ。人目につかない場所なんて他にもあるし、ここは真鉄専用の場所でも、予約をするような部屋でもない。伊櫃には腹が立つが、これ以上波風を立てるなと代表からも言われている。ここは伊櫃に譲り、斎波と合流して別の場所を探そう、と真鉄はくるりと踵を返した。

 しかし。

「なんだよ。今日はやけに素直じゃないか」

 こんなときに限って、伊櫃の方から突っかかってきた。

「いつもは難癖つけて喧嘩吹っかけてくるくせにさ? なんだよ、今日に限って」

「……無駄に時間を浪費するほど、俺は暇じゃない。共演者とのトラブルを起こすなとも言われている」

「代表サン――あのエラそうな女社長みたいな人に言われたんだろ」

 伊櫃はにやにやと、意地の悪い笑みを浮かべている。

「それがどうした」

「おかしいと思ってたんだよ」

 真鉄の言葉を遮るように伊櫃が言った。

「いくら前からいて顔なじみだからって、素人の子供がいきなり入団したいってワガママ言いだして、それを許したと思ったらトントン拍子に準主役までゲットして。ちょっと顔が可愛いからって、いくらなんでも話ができすぎてる。不自然だ」

 『フラ泥』に参加しているキャストの中で、真鉄が最年少なのは間違いない。採用の不自然さは真鉄自身疑問に思い、怒りすら覚えている。だが、もう決まってしまった以上、騒いだところでどうにもならない。真鉄もやっと腹を決めて、練習に力を入れたしたところだ。それを今更なぜ蒸し返すようなことを言ってくるのか。

「……何が言いたい」

 真鉄が不機嫌そうに顔を歪ませると、伊櫃はますます意地悪く笑う。

「みんながお前のこと噂してるぞ。代表は弱味を握られてるんだとか、キミドリプロと取引してるんだとか。今度はどんな“手”を使ったんだよ」

 見え見えの挑発だった。

 そんなくだらない流言蜚語、伊櫃に言われずとも飽きるほどに浴びている。伊櫃とてそんな噂にどれほど事実が含まれているか、わからないわけではないだろうに。

(余程俺を怒らせたいのか)

 真鉄を怒らせ、更なるトラブルを起こさせようという腹だろうか。しかし……そんなことをして伊櫃に得があるとは思えないが。

「貴様の練習時間とはくだらん雑談をするためにあるらしいな。時間が有り余っているようで羨ましい」

「否定しないの?」

 努めて話を聞き流そうとする真鉄に、伊櫃はそこで初めて苛立った表情になった。

「なんだ。根も葉もないほら話をいちいち否定して回れというのか? それこそ時間の無駄だ。根拠のない噂を信じるような輩など、事実を教えたところで情報を吟味する頭もないだろうよ」

 正直な話、少し失望していた。伊櫃という男は面倒でうるさくて鬱陶しい男だが、自分の頭でを考えることが出来る人間だと思っていた。それが、人の足を引っ張ることしかできない連中の言葉を聞いて回って信じ込むとは。

 真鉄は伊櫃を冷たく一瞥する。すると、伊櫃はますますムキになったのか早口で言った。

「お前、自分を売り込むために色々頭使ってたんじゃないのかよ。それが全部無駄になってるんだぞ。せっかく期待してもらって、良いように見てもらってたのに、今じゃみんながお前を馬鹿にして嫌ってるんだ!」

 馬鹿馬鹿しくて返事をする気にもなれなかった。ろくにに上がる気もない連中が、一丁前に他人を評価して、それになんの意味があるのか。なんだ、こいつもこの程度の人間だったのか、と伊櫃に対する興味が急速に薄れていく。

「……これ以上、俺に時間を使わせるな」

「じゃあ、じゃあお前、良いんだな!?」

 冷たくなっていく真鉄とは裏腹に、伊櫃はどんどんヒートアップしていった。

「どんなにめちゃくちゃ言われて、どれだけ嫌われたって! もっと酷いことも言われてるんだぞ! 代表サンの愛人やってるんだとか、誰かの隠し子だとか、代表の妹だかと恋人だから贔屓してるんだとか――!」

 どれもこれも聞き飽きた話で、改めて聞かされたところでどうとも思わない。

 はず、だった。




 待ち合わせ場所に向かっていた斎波は、何か物が倒れたような尋常ではない音を耳にした。

「なんだ、何があった!?」

 音はちょうど、真鉄に指定された小部屋のほうから聞こえてきた。悪い予感が脳裏に浮かぶ。

「真鉄君!?」

 息せき切って小部屋の扉を開ける斎波。最初に目に入ったのは、棚から落ちたのか床にひっくり返り、中身を散乱させたダンボールだった。

 その棚のすぐ近く、互いにつかみ合い相手を睨んでいる真鉄と伊櫃がいた。

「何を――しているんだ」

 感情を抑え、自然と低くなった事で、それだけ言うのが精一杯だった。

 喧嘩をしていたのだろう。どちらが先に手を出したのか、殴り殴られの勢いで身体を棚にぶつけ、それでダンボールが落ちたのだ。……いや、そんな現場検証はどうでもいい。

 彼らまでもが、揉め事の火種を作ろうというのか。先程宍上に抱きかけていた感情が胸元まで逆流し、明確な“怒り”へと変形していく。

「真鉄君。どういうことなんだ、これは」

 しかし、かろうじて理性は働いていた。衝動的に怒鳴りつければ、相手は萎縮、あるいは反発するだろう。いずれにせよ事態は悪化する。初空のときのような失敗を繰り返してはいけない。

 呼びかけられた真鉄は、伊櫃から手を離し仏頂面で斎波を見た。一方で伊櫃は、ばつの悪そうな顔をしてそっぽを向いている。

「どうもこうも、見ての通りだ」

 吐き捨てるように真鉄が言う。

「きちんと君の言葉で説明してほしい。君は私と練習するためにここに来ていたんじゃあなかったのか? 今の騒ぎはなんだ。どうして伊櫃君とそんなことになったんだ?」

 問い詰める斎波に、真鉄はふんと鼻を鳴らす。拗ねてむくれた子供そのものの態度に苛立ちが増す。

「先にこいつがこの部屋を使っていた。場所を変えようとしたが、こいつの方から突っかかってきて、やかましくて鬱陶しいから黙らせようとしただけだ」

「本当なのか、伊櫃君」

 伊櫃に目をやると、こちらも不満そうに口を尖らせて斎波を睨みつけた。

「そこのワガママ坊やクンがそう言うならそうなんじゃないの?」

「………………」

 ため息が出た。いくら若いといえ、こんなに幼稚なものだろうか。不用意に怒るべきではないが、ここはちゃんと言い聞かせないと同じことを何度も繰り返すだろう。

「真鉄君。この間、代表に注意されたばかりだろう。どんなにストレスを抱えていても、それを無責任に他人へぶつけるべきじゃあない。共演者やスタッフから嫌われてしまったら、どんなに良い演技が出来たとしても舞台へ上がることはできなくなる。わかっているだろう?」

「…………」

「これ以上こんなことが続くようなら、さすがに私達も黙ってはいられない。それを承知して、自分の言動を省みてくれ」

 真鉄は沈黙し、唇を噛んでいる。物分かりが悪いわけじゃないし、悪いと思ったことは素直に反省できるのだ。あとはむやみに角を立てる癖さえ直してくれれば、と内心嘆息する。

「伊櫃君、君もだぞ」

 そして伊櫃のほうに話題を向けると、伊櫃は驚いたように目を剥いた。

「な、なんだよ……」

「何を言ったか知らないが、君のほうから焚きつけたんだろう? 真鉄君も悪いが、君にも問題がある。いったい何を考えているんだ?」

 伊櫃はひどくたじろぎ、落ち着かず目や手足を動かしている。

 今でこそ真鉄の悪評が目立っているが、彼の対人能力もいずれ大きなトラブルを引き起こすだろう。他人を見下したり、はたまた嫉妬したり……向上心を持ち、自分と他人を比較することは決して悪いことではないが、彼の場合はあまりに捻くれすぎている。

「君は他人のことを気にしてばかりいるが、自分のことはしっかりできているのか? 聞けば、君は今回の配役について不満があるそうだが。それで他人に当たっているのなら、君についても苦言を呈せざるをえない」

「ちゃ、ちゃんとやってるよ、ぼくは!」

「なら、他人に喧嘩を売っている暇があるのか?」

 眉間にシワが寄り過ぎないように伊櫃を見ると、彼はぐっと言葉を詰まらせた。

「君には熱意が、そして夢もあるんだろう。だからこんなことはあまり言いたくないが」

 そう前置きして、深呼吸する。脅すように言ってはいけない。なるべく優しく、諭すように言わなくては。

「他人の足を引っ張ることにばかり気を取られて、自分の立ち位置を見定めることができないのならば、君は役者には向いていない。与えられた役を演じられない役者は、誰にも求められない」

「――――――」

 伊櫃は目を見開き、呆然とした様子で沈黙していた。

 やはり言い過ぎただろうか、と逡巡する。自分の身勝手な怒りは混入していない、常識や一般論としての忠告として言えたはずだが。

 その、はずだ。間違っては、いないはずだ。

 やがて我に返った伊櫃は、口を閉ざして静かに伊櫃を見つめている真鉄と斎波の顔を見て、憎々しげに顔を歪めた。

「……くそッ! ちくしょう、覚えてろよ!」

 そして捨て台詞を吐きながら部屋から飛び出る。斎波も、真鉄も、彼を止めようとはしなかった。奇妙な沈黙の中、斎波は床に散らばったものを拾い上げ、ダンボールに戻していく。

「真鉄君、台本は持ってきているか」

「当然だ」

 斎波の問いに真鉄は短く答える。ダンボールを棚に戻すと、斎波は改めて真鉄の顔を見た。相変わらず不機嫌そうだが、やる気は失われていないようだった。

「よし、じゃあ早速やっていこう。クライマックスの直前のところだな。乞食に落ちぶれたアデルと、学生運動に混じっているルチオ――」

 リュシアンを裏切ったあと、パヴォットと新天地で暮らし始めるも、貧窮の末パヴォットに先立たれたアデルは人々の施しで飢えをしのぐ乞食に成り果てる。そんな彼が“商売”をしている中、クーデターを企てる学生達に出くわして、その中に参加していたルチオからリュシアンのその後を聞く――という場面だ。

 ルチオは飄々としている中に理不尽への怒りを煮えたぎらせていた。兄のお人好しさに怒り、食うや食わずの生活に甘んじていなければならないことに怒り、そんな自分達を嘲笑うように贅沢三昧のブルジョワジーへ怒る――その様子は確かに、怒りのぶつけどころを見つけられずにいる真鉄によく似ているのかもしれなかった。

「そういえば、宍上君とは上手くやれているのか?」

 一連の台詞を読み合わせたあと、ふと思いついて聞いてみる。真鉄演じるルチオはリュシアンの弟で、斎波よりもリュシアン役の宍上と共演しているシーンが多い。必然、宍上との練習も何度かやっているはずなのだが……狂犬のごとく誰彼構わず噛みつく彼が、宍上との関係を悪化させていないか不安になる。

「………………」

 しかし、真鉄は答えに窮したように口を閉ざした。

「真鉄君?」

「――奴と人間なんて、この世のどこにもいないだろうよ」

 いやに重く、苦々しい口調で真鉄は言った。

「どういう意味だ……?」

「奴は誰にでも媚びる。誰とでも愛し合える。なるほど奴は最高の役者なのかもしれんな。四六時中、公私の区別なく人を騙し続けられるのだから」

 思わず硬直してしまうほど酷い言いようだった。いくら真鉄の口が悪くとも、そこまでくさすものだろうか? あの、宍上を。

「……真鉄君」

「貴様が奴をどう思っているかは知らんが、奴が貴様をどう思っているかはわかる」

 斎波を見つめる真鉄の瞳の中には、怒りの他に恐怖と、いくらかの憐憫が混じっていた。今までに見ない彼の目つきに斎波は言葉を失う。

「食い物だ。甘やかして太らせ、頃合いになったら収穫する。俺も貴様も、奴にとっては家畜でしかない」




 彼は自分のことをどう考えているのだろう。

 スマートフォンの通知欄に表示された宍上からのメッセージを見るたび、薄川は真剣に考えてしまう。

『今日は楽しかったです、また遊びましょう』

『美味しいレストランがあるんですけど、一緒に行きませんか』

 ……まるで、付き合っているみたいだ。

 そう、“まるで”。おかしな話だが、薄川は自分と宍上との関係に確信が持てないでいるのだ。

 ほとんど毎週のように一緒に遊ぶ。頻繁にメッセージのやりとりもする。そして、極めつけはこの間――彼との初めてキスを交わしたことを思い出し、薄川は顔が熱くなるのを自覚した。

 もう、“ただの友人関係”ではないと思う。こんなの恋人同士でやることだと誰が見ても思うはずだ。

 けれど。

(宍上君は私のこと、どういう意味で“好き”なんだろう)

 思えば、彼が自分達の関係について言及したことは一度もない。幾度となく薄川に好意を伝えているけれど、それが『恋人として』――『異性として』なのか、彼の言い方は常に曖昧だ。

 一言薄川のほうから、『あなたは私のことをどう思っているのか』と聞けば済む話なのだろう。『私達って恋人だよね』と確認すれば、きっと彼は頷いてくれるはずだ。しかし、そうするのが何故だか無性に怖い。万が一、『そんなことはない』と否定されてしまったら、という恐怖が常につきまとってくる。

 彼がそんな人じゃないことはよくわかっているのに。

「はああ……」

 宍上からのメッセージにやっとの思いで無難な返信を返すと、薄川は休憩所のテーブルに突っ伏した。駄目駄目だ。完全にドツボにハマってしまっている。

「練習、しなくちゃな……」

 公演本番まであと三ヶ月。むやみに現状を変えようとして、宍上との関係が微妙になってしまったら、間違いなく演技に差し障る。不安でもやもやしていても、このままの関係を維持しているほうがいいはずだ。

 もっとも、今の状態でちゃんと演技ができるかと聞かれれば、自信を持ってYESとは答えられないのだが。

 軽く身体をほぐしたものの、どうにも稽古場に入る気にならない。少し気分転換でもしようと一旦スタジオから出る。八月の日差しが薄川の肌に容赦なく照りつける。

「暑……」

 アスファルトから陽炎が立ち上り、視界がぼやける。熱気が頭を茹だらせるのと相まって、まるで悪夢の中にいるようだった。

 そう、まるで悪夢のようだった。

「――――――」

 陽炎の向こう側、黒々と影を浮かばせる木陰。重なり合っているシルエットは、まるで相思相愛の男女が口づけを交わしているように見えた。

 一人はよく見知った彼の立ち姿。そしてもう一人は長い黒髪の少女、彼女もよく知っている。彼女演じるマルグリットは、薄川ジジの妹分であるのだから。

「……初空、さん?」

 なんで。何が、いったいどうして。驚愕と熱気が薄川の思考を停止させる。しかし、見間違いはあり得なかった。あの服は、彼が着ているベストは、前に宍上君と遊んだ時に自分が見立てたものだ。

 どうして。

「………………」

 完全にパニックに陥っていたのに、なぜか『彼らに気づかれてはいけない』という判断はできた。今この状態で彼らと真正面から向き合ったら、自分がどうなってしまうかわからない。かぶりを振って後ずさりすると、さらに視界がぼやけた。

 ああ、そうか。私は、宍上君のことが好きなんだ。

 暑さでとろけた頭で、薄川はそのことをはっきり自覚した。

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