エレクトラに妬くオレステス

「あなたが、塾にスカウトされたっていう子?」

 志島亜理愛と初めて出会ったのは、志島塾に入会した初日、ブルートループのスタジオに案内されたときだ。

「そうだけど、君は? 君も入会者なの?」

「私は違うわ。私は、ここの正式な団員だもの」

 当時小学生の亜理愛は得意げな顔で胸を張った。その頃は亜理愛のほうが背が高く、年長者としての態度が偉そうに見えて、少しむっとした覚えがある。

「団員? 君だって、僕と変わらないくらいの歳じゃないか」

「私はあなたよりずっと早くから稽古しているの。自己紹介がまだだったわね。私は志島亜理愛。ここの座長、志島青児の娘よ」

 なんだか――むかつく。嫌な感じの女の子だと、そのときは思ったのだ。

「で、こっちが妹の、」

星礼奈せれなでーす!」

 亜理愛の後ろからひょっこりと少女が顔を出す。きらきらとした瞳で興味津々といった様子で斎波を見つめる。

「きみは正己くんだよね! まーくんだ!」

「星礼奈、勝手にあだ名をつけないの。斎波君、こっちに来て」

 妹をたしなめながら、亜理愛は斎波を手招きする。そうか、彼女達は自分を案内するためにここに待機していたのか、と察すると同時に、少し胸がちくんとした。

 あの人、子供がいたんだ。

 考えてみれば当然の、ごく当たり前の話になぜかいらいらして、志島姉妹の顔を見るのが嫌になった。

 『ずっと早くから稽古をしている』という本人の談通り、斎波が塾で役者について学んでいる最中、志島姉妹はたびたび劇団の公演に出演していた。

 もちろん年齢が幼いため、大半はチョイ役で少し出てくるだけのものだったが、それでも焦りを感じる――自分とほとんど変わらないくらいの年齢で、もう活躍しているのか。

「じゃあ何? 君は亜理愛に嫉妬してるんだ」

 城戸からはからかいまじりにそう言われた。

「ジェラシーだジェラシー。君の石ころみたいな脳みそにもそんなこと感じる機能あるんだね」

「違う。そういうのじゃない。そして僕の脳は石じゃない」

「じゃあなんなんだよ。自分より優秀な奴にむかついて、自分のふがいなさにいらいらしてるんだろ。君みたいな人面岩の世界じゃどうなのか知らないけど、人間はそういうのを嫉妬っていうんだよ」

 そう――なのだろうか。

 実感はなかったが、感情にわかりやすい名前をつけられたことで少し安心できた。理由も性質もはっきりしている感情ならば、いくらでも対処ができる。

 努力しよう。早く実力をつけて、彼女と並び立てるようになれば、こんな感情を抱かずに済むはずだ。嫉妬とはつまり無いものねだり、しかるべき手段で不足を満たせば、おのずと消えるもののはずだから。

 自覚した感情を仕舞い込み、斎波は一層の努力を続けた。塾で学ぶだけでなく、指南書を読んだり、自主練で可能な限り筋トレやボイストレーニングをしたり、小遣いをはたいて演劇を観に行き、プロの動きを学んだり……ありとあらゆる方法で貪欲に技術と知識を手に入れた。

 しかしそれでも、志島姉妹に追いつくことも、志島先生と共演する夢も叶わなかった。

 『遊園街のサンドリヨン』。それは志島姉妹の初主演舞台であり、志島青児の最後の出演作となった。

「――先生?」

 当時、斎波達志島塾生は、正式な団員ではないものの臨時の裏方として参加することを許された。口の悪い城戸は「人手不足で体良くタダ働きさせてるだけだ」と揶揄していたが、思えばあれも嬉しさによる照れ隠しだったのだろう。

 千秋楽の夜公演ソワレ、カーテンコールの直後、キャスト達が一旦楽屋に戻りスタッフが細々と片付けをしていたそのときだった。

 志島座長は物陰で一人うずくまっている。どうしたのだろう? コンタクトレンズでも落としたのだろうか。いや――息が苦しそうだし顔色が真っ青、おまけにひどい脂汗だ。異常を感じた斎波は抱えていた荷物を放り出し、慌てて先生に駆け寄って助けを呼んだ。

「先生! どうしたんですか!? すみません、誰か! 先生が――!」

 舞台の上以外であんなに大きな声を出したのは初めてだった。

 すぐに大人達が駆けつけてきた。着替えの途中だっただろう志島姉妹も、服の乱れを直さぬままに志島先生に飛びついた。

「お父さん! お父さんっ! いや、しっかりして!」

「やだ、いやだよ、お父さん……!」

 何もできなかった。

 救急車を呼んだり、呼吸や脈を確かめたり、心臓マッサージやAEDを試みたり……やるべきことはたくさんあることは頭ではわかっていた。しかし、身体がそれこそ石のように固まって、まったく動けないのだ。

 斎波が呆然としているうちに大人達がそれらの手配をして、気がつけば救急車へ志島先生が搬送されていく。ああ、ついていかなければ。ふらふらと歩き出す斎波を亜理愛の手が止めた。

「大丈夫。斎波君は残っていていいわ。お父さんには、私と星礼奈が付き添うから」

 平坦だが、棘のある口調だった。言葉では斎波を気遣っているものの、『余計なことをするな』と言外に制されているような、きつい視線が刺さる。

 ――そばにいることすら許されないのか、僕は。

 緊張や恐怖で体温が上がっていたはずなのに、急に肚の底が冷えたような気がした。同時に胸の中のものの質量が何倍にも膨れ上がる。

 先生が一刻も争うときでも、僕は何もできないのか。

 どうして。

「……斎波君?」

「まーくんも、顔が真っ青だよ。ちょっと休んだほうがいいよ」

 口々に言われ、我に返る。自分は今、何を考えていただろう。こんな緊急時に自分勝手なことを。そんなことをしている場合か。姉妹だって不安でたまらないだろうに、無関係な自分を気遣ってくれている。

 無関係。

 ――そうか。この場において、実の娘である姉妹とは違い、僕はあの人とは一切関係のない、赤の他人でしかないのか。

「……うん。すまない」

 斎波は頭を下げる。顔の筋肉ががちがちに固まって、上手く表情を変えることができなかった。

「頼んだぞ」

 担架で運ばれていく先生を見ながら、胸の中のものを小さく押し潰して“箱”の中に放り込んだ。


 心臓の病気、とのことだった。

 早急な処置が功を奏し、一週間ほどの入院で済んだ。ただ、再発のリスクは大きく、激しい運動は医師から禁止されたそうだ。

「そんなわけで、私はもう舞台には上がらない」

 と、先生はごくあっさりと言った。

「酒もタバコも駄目、塩を摂るな、油モノも控えろときた。これで生きがいまで取り上げられるんだからたまらん話だ」

「今まで身体を大切にしなかったツケが来たんでしょう」

 退院前日の病室、亜理愛はロッカーに入った志島先生の私物を整理しながら言う。

「健診にも行かないのに、お酒もタバコもやってたんだから遅かれ早かれこうなってたわよ。だらしないんだから」

 慣れた口調で小言をこぼす亜理愛。志島先生は家庭でもこんな調子なのだろうか。自分の知らない一面を知っているかと思うと、少し羨ましくなった。

「お前はどんどん母さんに似てくるなあ。中学生がそんな真面目でどうする」

 娘に苦笑する志島先生は、入院着を着てベッドに座っている以外は以前と変わらず元気そうに見えた。良かった、と内心で安堵する。

「正己も、わざわざ見舞いに来させて悪かったな。礼衛と和見はどうしてる?」

「いつも通り、城戸君が浮島君を虐めて追いかけ回しています」

「懲りない奴らだなあ」

 はは、とひと笑いしてから真面目な顔になり、志島先生は斎波を見た。

「正己。私はもう、役者としては駄目だ。座長としても、いつまで続けられるかはわかったものじゃない」

「先生……」

「あのときの約束は守れそうにない。ごめんな」

 申し訳なさそうに言う先生に喉の奥が苦しくなる。当然だ、当たり前のことだ。どうしようもない、ことなのだが。

「あまり先の話はしたくないが……世代交代のことを、そろそろ考えておかないといけないな。正己、お前はどうする? まだ役者を続けていくか?」

「はい。もちろんです」

 確認されるまでもない。斎波は頷く。

「そうか。和見……はわからないが、礼衛もきっと続けてくれるだろうな。これからはお前達がブルートループを引っ張っていってほしい」

「僕達が……ですか?」

「ああ」

 願ってもない言葉に浮き足立ちそうになる。

「――はい! 精一杯、ブルートループに尽くしていきます……!」

 そうだ。いずれ正式に団員になって、舞台俳優として活動して、自分がこの劇団を支えていくのだ。志島先生が活動できなくなってしまったぶん、僕が頑張らなくては。

「ありがとう。亜理愛も、頼んだぞ。星礼奈や正己達と一緒に劇団を支えてくれ」

 亜理愛も誇らしげな顔で、至極当然といったふうに言った。

「安心して。たとえ何があろうとも、私は劇団のために尽力するわ」

 彼女も自分と同じ気持ちなのか、と思う。

 彼女も志島先生のため、劇団のためを思って行動しているのだ。考え方の相違でぶつかってしまうこともあるが、亜理愛が真面目で心優しいことはよくわかっている。高圧的に見えるのは見た目だけ、本当は周囲に気を配り続けている。

 ならば――先生が病身の今、亜理愛に対して反発しているべきではない。多少のことは飲み込んで、彼女と協力していかなければ。きっと、それが正しい行動のはずだ。

「斎波君。よろしくお願いね」

「……うん。こちらこそ、よろしく頼む」

 手を差し出してきた亜理愛の手を握り返す。

 自分も、早く大人にならなければ。


 初公演『貴人、英雄、首切り男』を経て、斎波達が本格的に活動し始めたのは高校に入ってからだった。

 斎波達のデビューを契機に、志島塾は閉鎖となった。塾生の減少もあったが、何より志島先生の体調を考えてのことだろう。思えば、塾での講義のあと先生によく屋台や食堂に連れて行ってもらったものだが、ああいう外食も先生の身体を蝕んだ一因だったのだろうか。

 高校生活と役者業の並立は以前とは比べ物にならないくらいに忙しかったが、それでも楽しくてたまらなかった。自分がどんどん成長し、それを十全に発揮できていく感覚――これが、役者になるということか。

 いつか、志島先生が言ってくれたように、“立派な役者”になれるようもっと努力しなければ。

 志島姉妹のほうはというと、妹の星礼奈は『サンドリヨン』の頃から常に高い評価を受け、今ではテレビドラマや映画にも出演するようになっていた。若者向けファッション誌に取材してもらった、と表紙に自分の名前がでかでかと書かれた雑誌を掲げて喜んでいたのが記憶に新しい。

 一方姉の亜理愛は、高校入学以降はほとんど役者業をやらなくなっていた。

「今は勉強したいのよ。マネジメントとか経営のことを学ぶために、大学にも行かなきゃいけないし」

 本人はそう語っていたが、多分根本の理由は別のところにあるのだろうと斎波にも察せられた。才能とか、実力に関することなのか……稽古現場に顔を出すこともなくなり、斎波と顔を合わせる機会も自然と減っていた。

 そんな折、亜理愛から交際の申し込みを受けた。

「付き合ってほしいの」

 スタジオの屋上に呼び出され、向かった先で待っていた亜理愛に開口一番そう告げられた。恥ずかしそうに顔を背け、斎波の目を見ようとしない。

「付き合う、というと」

「男女交際よ。異性交遊。私とあなたでカップルになりましょうということ」

 そんなことは教えられなくてもわかっている。ただ、それが自分に向けられた言葉だと信じられないのだ。

「僕と恋人になりたいと言っているのか? どうして? 理由がわからない」

「理由って……いちいち言わないといけない? 他人と付き合おうとするなんて、相手が好き以外にあるかしら」

 それはそうなのだろうが、そういうことではなく……ああ、いや、つまり。

「君は僕のことが好きなのか?」

 そう問いかけると、途端に亜理愛の顔が真っ赤になった。

「――く、口に出して言えっていうの!? ここまで言えばわかるものでしょう、どれだけ察しが悪いのあなた!」

「いや、だって……」

 じゃあ、亜理愛は自分のことが好きだというのか。普通に考えればそうなるのだが、どうもそれが納得できない。

 たとえば、星礼奈と城戸は中学時代からずっと交際を続けている。快活で天真爛漫な星礼奈と陰険で性格が悪いいじめっ子の城戸がどうして好き合っているのかは全然理解できないが、本人達の姿を見ると見栄とか義理とかでなく、本気で互いを好いているのだろうとわかる。好意の有無ははたから見ててそうだと理解できるものだ。だが、亜理愛はどうだろう? 斎波は自分に対する好意を今まで自覚したことがなかった。

「……何を黙り込んでいるのよ」

 考えていると、顔を赤く染めたままの亜理愛が不機嫌そうに言ってくる。

「私はあなたに交際の申し込みをしたのだけど。YESなのか、NOなのか、あるいは答えの先延ばしをさせてほしいだとか、なんにしろ早く答えてくれないかしら。勇気を出して告白したのに、意味もわからず待たされるなんてひどくプライドが傷つけられるわよ」

「……ああ、うん」

 そうか。まずは問いに答えなければならないか。YESかNOか……いや、待て。男女が付き合うということは、お互い好き合っていなければならないんじゃないか。

 自分は、亜理愛のことが好きだろうか?

「亜理愛――」

 “NO”の言葉を口にしようとして、また違う考えに及ぶ。断った場合、斎波と亜理愛の関係はどうなるだろうか。以前と同じように先輩後輩、あるいは姉弟子弟弟子の関係でいられるのならいい。だが、恋愛が絡むと“関係”は容易に変化してしまうものだという。それまで仲の良い友人が、恋愛や交際の破局を経て疎遠になったり険悪な仲になったりすることはよくあることだと聞く。志島先生との約束を考えると、今亜理愛との仲を悪くするべきではない。

 “YES”と言った場合は――晴れて斎波と亜理愛は恋人関係になるわけだ。これでも関係は変化するが、破局さえしなければこれはむしろ良い変化だろう。長く続けば当然結婚の話も出るだろうし、志島家との関係も親密になっていくはずだ。

 今以上に志島先生の近くに居られる。ひょっとすると、志島先生とになれるかもしれない。

 正しい答えは目に見えていた。

「僕も君のことが好きだ」

 そう口にすると、亜理愛は目を丸くした。

「僕で良いのなら、ぜひ付き合おう。僕を恋人にしてほしい」

 それが明らかな“打算”であることに、そのときの斎波は気づいていなかった。


 関係は一年半ほど続いた。

 デートの誘いは、亜理愛のほうから積極的にしてきた。亜理愛が通っていた女子高を中心に、喫茶店だとかショッピングモールだとかに連れていかれたのを覚えている。

「……今、楽しい? 斎波君」

 デート中、よく亜理愛からそんなことを聞かれた。

「楽しくないように見えるか?」

「あなた、あんまり表情を変えないから……こういうところ、あんまり好きじゃないの?」

 好きでも嫌いでもない、というのが本音だ。好みの話で言ってしまえば、家でダンベル上げやスクワットをしたり、定食屋でご飯をお代わりする方がずっと楽しいが、それらでは亜理愛は楽しんでくれないだろう、と斎波にもわかっている。

「君が楽しんでいるのが一番だと思う」

 そう答えると、亜理愛は恥ずかしそうに赤面した。

「あなたが良いなら、良いんだけど……」

 思えば、亜理愛自身が楽しめているかどうかを確かめたことはなかったが。

 そんなふうに連れ回されていたある日のこと。喫茶店で話題のミュージカルの感想やら取り留めのない話をしていると、店内に制服姿の女子高生達が入店してきた。

「あれは……」

「どうしたの?」

 思わず反応した斎波につられたか、亜理愛も入り口を見た。クラシックなデザインのブレザー、亜理愛の高校の制服だった。亜理愛の同級生だろうか?

 女子高生達は楽しそうに喋りながら入ってきたが、亜理愛の姿を認めるとまっすぐこちらへ歩いてきた。

「やあ、亜理愛」

 女子高生達のリーダー格らしい少女が話しかけてくる。髪を長く伸ばしているが、どことなく男っぽい雰囲気の少女だった。

「生越さん……」

 亜理愛がやや焦ったように言う。そうだ、思い出した。あのとき会った少女が、生越たつみだったのだ。

「デート中かい? そっちの子はカレシ? ふうん」

 女子高生――当時の生越は斎波の顔を値踏みするように見る。見るからに気に食わない、といった表情だった。

「そうだが」

「あなたには関係ないでしょう。話なら明日聞くわ。今は放っておいてちょうだい」

 早口で言う亜理愛は、斎波に余計なことを言わせないようにしているようだった。妙な雰囲気に斎波も困惑する。生越の取り巻きらしい少女達が生越、亜理愛、斎波の顔を交互に見つめ、困ったようにしている。

「亜理愛お姉様……」

「今日が初めてってわけじゃなさそうだ。ずっと付き合ってたの? ひどいな、紹介してくれたって良いじゃないか」

 敵意はない、むしろ親しげな口調だが……生越の言葉にはどこか苦みが滲んでいた。

「別にいいでしょう。私がいつどこで恋人を作ったって、あなた達に紹介する義理はないわ」

 対する亜理愛の口調はどんどん鋭く、攻撃的になっていく。

「この際だから言わせてちょうだい。私は、あなた達みたいな“趣味”はないのよ。『お姉様』だとか、そんなふうに呼ばれても迷惑よ。そういう遊びがやりたいのなら仲間内でやって。私を巻き込まないで」

「遊びって……違うよ亜理愛、私達は」

「本気ならますます冗談じゃないわ。はっきり言わないとわからないの? 気持ち悪いのよ、あなた達。私はあなた達とは違うのよ。迷惑なのよ、本当に……!」

 早口でそこまで言って、亜理愛ははっと気がついたように斎波の顔を見た。斎波には事情はわからないが、明らかに言いすぎたような物言いだった。立ちっぱなしの女子高生達と、口論の内容が気になるのか、他の客達がこちらに注目している。これはまずいな、と思った斎波は財布から代金分のお金を出し、テーブルに置いて席を立った。

「亜理愛、行こう」

「えっ、斎波君……」

「すみません、代金はテーブルに置きました! お釣りはいりません!」

 店員に向かって叫びながら、亜理愛の手を引き出口へ向かう。生越達に邪魔をされるかと思ったがそんなことはなく、あっさりと横を通り抜けることができた。ただ、すれ違いざまにひどく睨みつけられたように思う。

「……ごめんなさい」

 店を出てしばらく歩いたあと、亜理愛がぽつりと言った。申し訳なさそうな顔でうつむいている。

「学校のクラスメイトで……色々トラブルがあって、つい怒鳴っちゃったの。ごめんなさい、デート中だったのに」

「気にしないでいい。僕も気にしていないから」

 詮索はすべきでないだろう。関係がない人間が触れるにはあまりにデリケートな話のように思えた。斎波の答えに、亜理愛はほっとしたような、しかしさらに不安になったような複雑な表情で斎波を見た。

「ごめんなさい、本当に」

 それから数週間後、亜理愛から別れを告げられた。

 斎波に原因があったのか、亜理愛自身の心境の変化か、彼女は理由を語ろうとはしなかった。斎波も深く聞こうとはせず、ただ別れを受け入れた。

 結局、それ以降亜理愛との距離は少し遠くなったが、危惧していたほどには悪くなることはなかった。なんとなく、お互い顔を合わせるのを避け、たまたま会ってもそれほど言葉を交わさない――薄い壁を一枚隔てたような関係になった。

 不思議なことに、斎波はその距離感にひどく安心していた。




「………………」

 どのくらい考え込んでいただろうか。時計を横目で見ると、精々数分も経っていないようだった。

 目の前には相変わらず、値踏みするような眼差しの生越が立っている。今しがた思い出したことがさらに一層、口の中で苦くなったような気がした。

「……私の亜理愛に対する感情を聞いていたんだったか?」

「ずいぶん黙ってるから、忘れて寝ちゃってるのかと思ってたよ」

 生越は肩をすくめる。先程まで威圧的に見えたその仕草も、今はもう怖くない。

「嫌いだったよ。ずっと」

 そう答えると、生越は目を丸くした。

「……は?」

「嫌いで嫌いで仕方がなかった。なんで我慢ができていたのかわからないくらいだ。嫌いで、憎くて、ずっと苛々していたのをずっと我慢していた。彼女と付き合っていたときもそうだったよ。本当は嫌だったが、付き合うほうが得だと思ったから付き合っていたにすぎない。彼女と別れられたときは肩の荷が降りたような気分だった」

「な、君……!」

「でも、今はもう、どうでもいいと思っているな」

 もう、あの人はいなくなってしまったから。

 斎波の答えに、生越は戸惑ったように目を白黒させていた。しかしすぐに我に返り、怒気を顔の表面に浮かべる。

「……何考えてるんだよ、君って奴は……!」

「怒るなり嫌うなり好きにしてくれていい。君は亜理愛とは関係がないが、そうされるだけのことをしてしまった。のしたことは、一個人の尊厳を傷つける最低最悪の行為だ」

 自分でも驚くほどに感情のこもらない声で斎波は言う。どうしてこんなにも冷静でいられるのか、我ながら信じられない。

「だが、この話はこれでだ」

「なっ」

「正直に言うと、君にも何の感情も持てない。君が私を嫌おうが、舞台上でそれを持ち出さないのなら別に構わない。君だってプロなんだ、最低限の分別はついているだろう?」

 対して、生越は先程までの余裕を失ってきたのか、口調を少し早めながら反論してきた。

「この期に及んで開き直りかい? 最低なことをしたって自覚があるのなら、落とし前をつけるのが筋ってものじゃないの?」

「どうして、償いをしなければならないんだ?」

 問いを投げかけると、生越は虚を突かれたように沈黙した。

「――――――」

「ああだこうだと因縁をつけてくるが、本質は君がすっきりしたいだけだろう? 亜理愛亜理愛とこだわっているが、君は亜理愛の“何”なんだ? 家族じゃないな。恋人でもなさそうだ。精々が友人止まりだろう。それほど親密ではないが、君が一方的に亜理愛を想っている、といったところか?」

「……なんだっていいだろう! 君には関係ない!」

「そうだな、関係ない。君も亜理愛とは関係がない」

 反論を叩き潰す。生越は顔を紅潮させ、再び口を閉ざす。

「亜理愛から頼まれたわけでもないだろうに、どうして外野の立場からあれこれと口を出そうとするんだ? それでかえって亜理愛が迷惑するかもしれないと考えないのか? 身勝手に他人の周囲をかき乱して、あたかも代弁するようなことを言おうとして、おこがましいとは思わないのか?」

 “言い過ぎ”どころかはっきりと“攻撃”になってしまっていることは自覚していた。最早当初の論点からも大幅にずれてしまっている。

 だが――別に構わない。最早彼女と友好的な関係を築くことは不可能だ。ならば、何度も同じやりとりをするよりは、ここできっちりと終わらせてしまったほうがいい。

 大丈夫だ。まだ自分は、感情をコントロールできている。

「……稽古をしよう」

 生越が何も返して来ないのを確認して、斎波は静かに言った。

「君が役者であるのなら、引き受けた役が、上がる舞台が終わるまでは、私情を振りかざすべきではないことはわかっているはずだ。どうしても続きをしたいと言うのなら、君が“パヴォット”でなくなってからにしてくれ」

「……うん」

 大きな深呼吸のあと、生越が言った。

「亜理愛の顔に泥は塗りたくないよ、私だってね。覚悟しておいて。千秋楽の翌日、自分の命があると思わないことだ」

 怒りを押し殺しているのが声音から伝わってくる。斎波は頷き、いつのまにか取り落としていた台本を拾い上げる。

 アデルのことはまだ理解しきれないが、確かに自分とアデルは近いところにいる人間なのかもしれない。

 そう思うと、何故だか気分が悪くなった。




 稽古が終わったあとも、腑が揺れ動いているような気持ちの悪さは一向になくならなかった。

 いや――これは内臓じゃない、“箱”だ。自分の中のどこかにある箱がぐらぐらと動いている。

 昔に仕舞いこんでいたものを覗き見てしまったからだろうか? 容易には開かないよう厳重に蓋をしているはずなのに、まるで中身が沸騰しているかのようにぐらぐら煮え立っている。

 いつのまにかどす黒く澱みきっていた箱の中身が。

 気分が悪い――気持ちが悪くて仕方がない。自分自身が、“自分”から切り離してきたもののことが。

 自分はこんなにも他人に対して残酷な人間だったのか。

「……う」

 ロッカールームの壁に身体を預ける。気づけばもうすぐ午後九時だ。時間が遅すぎるためか、他の団員の姿は見えない。こんな醜態を見られずに済んだのは幸いだったか。

 団員ならまだいい。もし亜理愛に出くわしてしまったら、どんな顔をして相手をするべきか、今の斎波には判断ができなかった。

 壁に背をもたれかけながら、ずるずると床に座り込む。早く着替えなければ。帰って、明日に備えなければ。すべきことは頭に浮かんでいるが、行動に移すことができない。如何ともしがたく、長いため息をついた。

「あれ……斎波さん?」

 ふいに、頭上から声が降ってきた。緩やかに顔を上げると、見慣れた顔がそこにあった。

「宍上君……」

 汗だくで息を荒げ、急いでここまでやってきた、という風貌だった。どうしたのだろう。今日は別の仕事で来れないという話だったはずだが。

「あ……すみません。意外に早く終わったから、もしかしたら間に合うかなって思って来たんです。やっぱり遅かったみたいですけど……少しでも多く、皆さんと練習したくて」

 恥ずかしげに笑ったあと、「それより、」と心配そうな顔に戻る。

「斎波さんこそどうしたんですか? 顔色がひどいです、具合が悪いんじゃ……?」

 差し伸べられた宍上の手を、斎波は震える手ですがりつくように掴んだ。

「宍上君……!」

「わっ!?」

 驚く宍上にも構わず、斎波は宍上の手を強く握り続けた。

「怖いんだ。自分のことが」

「……斎波さん?」

「今日、思い知ってしまった。私という人間が、おぞましいほど利己的で、他人に対して冷酷で残忍だということを。そんな自分を今までまったく自覚してこなかった。恐ろしくてたまらないんだ」

 亜理愛だけではないのかもしれない。周囲にいる友人知人に対しても同様のことをしてしまっているのかも。そんなことをしておきながら、素知らぬ顔で過ごしてきた自分が気持ち悪い。まるで怪物だ。

 宍上は斎波を心配そうな顔で見ている。彼に対しては、どうだろう? 自分は確かに、この好青年のことを裏表なく好んでいるはずだ。そこに利害や損得が入る余地はない。ない、はずだ。

 いや――そんなことはないじゃないか。この間の“インタビュー”を思い出せ。彼のプライベートの行動のせいで劇団に累が及ぶと考えただろう。好きだ、良い人だと思っていても、“利”にならないと判断したら切り捨ててしまえるのが、斎波正己という人間ではないのか。

 どの面を下げて宍上を値踏みしているというのか。

「宍上君、私は――」

 それ以上の言葉が出なくなり、宍上の手を握ったまま黙り込む。ぐらぐら、ぐらぐらと揺れている。箱が。斎波の身体が。自分の立っていた地面が。

「……斎波さん」

 と――宍上はもう片方の手で斎波の手を包み込んだ。

「誰にでも、そういうことはあります。知らなかった自分の嫌な面を見てしまったり、親しい人に悪いことを考えてしまって、自己嫌悪する。僕だって同じです」

「宍上君……」

「でも、そんなの普通のことですから。誰だって多かれ少なかれそうで、そうなるたびにちょっとへこんで、悪いところを直そうと努力するんじゃないですか」

 宍上の顔はとても純粋で、この世の邪悪を一切知らないように見えた。斎波にはそれが眩しすぎて直視することができなかった。

「直せばいいじゃないですか。斎波さん、努力するのが得意な人なんですから。今日自覚したのなら明日から修正していくチャンスができたって、普段の斎波さんなら言うと思いますよ」

「………………」

「僕は何があっても斎波さんの味方ですから、そんなに落ち込まないでください」

 にっこりと笑う宍上に、斎波は涙を堪えなければならなかった。

「……ありがとう、宍上君」

 宍上の腕を支えにしながら立ち上がる。「いいんです、これくらい」と宍上。

「君と友人になれて、本当に良かった」

 その言葉は間違いなく本心からのものだと、斎波は確信を持って言った。

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