義憤に燃えるスキュレー
スマートフォンの通話履歴から見慣れた電話番号を探し、電話をかける。コール音が三回ほどくり返されたあと、相手が電話に出た。平日の午前中だが、相手も余裕があったらしい。斎波は安堵しながら電話口に名前を告げた。
「もしもし。斎波だ、城戸君」
「……もしもし」
通話相手、
城戸とは志島塾で出会って以来、腐れ縁となってしまった知人である。彼も劇団ブルートループ所属の俳優であるのだが、三年程前のとある事件によって精神を病ませて以来、俳優業をすることが難しい状況になっていた。
「どうしたの? 朝っぱらから君の声なんか聞かされて、こっちは気分最悪だよ。鼓膜からプロテインが伝染して脳が筋肉になりそうで頭が痛くなる」
ぎょっとするような毒舌だが、これは病のせいではなく彼の“素”だ。開口一番にここまで言えるなら、今日は調子が良いのだろう。
「そうか。電話をかけられただけでそこまで傷ついてしまうとは、君の性根も相変わらずだな。直せる薬を処方してもらったらどうだろうか」
「これはアレルギーみたいなものだから、原因物質を取り除くのが一番の治療なんだよね。だから消えてくれない? できるだけ早くさ」
「消える前に、君に汚されたトレーニングウェアの弁償代をいいかげん払ってもらわなくてはな。八年分の利子が溜まっている」
「へえ、あれって服だったんだ? 雑巾なんか着ててよっぽど着るものに困ってたんだなあって同情してたよ」
嫌味の応酬も慣れたものである。 出会った頃からうまが合わず、顔を合わせると喧嘩ばかりしていた。同期生の浮島を巻き込んで取っ組み合いになり、志島先生から叱られたのも良い思い出だ。
「で、何の用かな」
ひとしきりやりあったあと、城戸が言う。
「かけてきたからにはそれなりに用があるんだろ? 『声が聞きたかっただけ』とか抜かすなら切るけど」
「君の声を聞きたくなったことなど一秒たりともないが……」
とはいえ、何から話したものだろうか。城戸の知恵を借りたい、と思って電話したわけだが、人に話して解決するようなものはほとんどない。今現在、劇団からは距離を置いている城戸に内部でのトラブルを相談しても仕方がない。達者な話しぶりに忘れそうになってしまうが、城戸はまだ寛解したとは言えない状態だ。些細な言葉が重い負担になり、病状を悪化させてしまうかもしれない。
「今度、
思案の末、無難な話題を切り出す。
「ああ、宍上紅蓮と君が主演のやつだろ? レミゼ風のお耽美。取材記事見たぜ。次世代の実力派だとか、かなり持ち上げられてたじゃないか」
「そう、それなんだが」
取材に対する苦い気持ちを脇に追いやり、頷く。
「役作りというか、演じ方について悩んでいるんだ」
「へえ?」
声音で続きを促される。
「記事を読んだなら知っていると思うが、私の演じる役が、なんというのか……“美少年”なんだ。利発で愛らしく、女装なんかも似合ってしまうし、男から性欲すら向けられるような……おい、こら、笑うんじゃあない」
「だって完全にギャグでしょ、そんなの」
耳が痛くなるくらいの大爆笑ののち、城戸が笑いを堪えながら言う。
「君が、何? 女の子みたいな美少年? 朝から晩まで筋トレと食べ物のことしか考えてない全身ゴリラ人間の斎波君が?」
電話口じゃなかったら掴みかかっているレベルの暴言だった。
「君の私に対するイメージはさておき、まあ、問題はそういうことなんだ。今まで美少年の役なんてやったことないし、こんなことを言ったら役者失格かもしれないが、私には合わない役だと思ってしまう」
「でも、演れって言われたんでしょ」
「……ああ」
付き合いの長さゆえか、この悪党は斎波のことをよく知っているのだ。
「馬っ鹿だなあ。どうせいつもの安請け合いで無茶ぶりを引き受けちゃったんだろ? それで結局できなくて僕に泣きつくのかよ」
「まったくその通りで返す言葉もない。悪知恵がはたらく君とは違い、私は頭が良くないからな。そういうわけで、小賢しい君の力を借りたい」
「へりくだるか喧嘩売るかどっちかにしろよ」
はあ、とスピーカーから溜め息の音ごする。笑われるだけ笑われて切られることを覚悟していたが、どうやら真面目に聞いてもらえるようだ。
「……ええっと、なんて言うんだっけ? 君の役」
「アデルだ」
「どんな名前だって構いやしないけどさ。そいつ、君が思ってるほど君と正反対ってわけじゃないんじゃない?」
城戸の言葉の意味が飲み込めず、一瞬面食らう。
「どういう意味だ?」
「その美少年のアデルちゃんは、そりゃあ君みたいにサラダチキン食べながらスクワットしたりはしないんだろうけどさ。けれど、何から何まで違うわけじゃないでしょ。アデルちゃんは目が六つあったり鼻から生えた触手を使って歩いたりするわけ?」
「どんな化け物だそれは」
「そう。少なくとも同じ人間ってことに変わりはないわけだ」
城戸はお得意の詭弁を弄し始めた。
「しかし、そんなもの共通項にもならない前提条件だろう。同じ哺乳類なのだから人食いグリズリーとも友達になれる、と言っているのと変わらない。単なる思考停止だ」
「人肉の味はわからなくたって、腹を空かせてるときに美味しそうな肉を見つけた気持ちは想像できるだろ? 大企業の社長だろうがホームレスのおっさんだろうが、足に水虫ができたら同じように痒がるだろうさ。君は“共感”ってものがわからない?」
共感か。それかできないから悩んでいるのだが。
「もっと俗っぽく考えなよ。美少年だってトイレに行くし鼻水も垢も出るんだから。表面だけ見て敬遠しないで、相手の毛穴が見えるところまで近づいてみたら?」
そこまで言って、城戸はくくっと喉を鳴らした。
「いくら歩み寄ったって、君が美少年なんてのはお笑いだけどさ」
「笑うな、しつこいぞ」
自分とアデルの共通点を探して、それを足がかりにしていけ、ということだろうか。なんだか論点をずらされただけのようにも思えるが……。
「ありがとう、参考にさせてもらおう。ところで城戸君、最近調子はどうだ?」
「そういうのって普通最初に言うものじゃない? 悪かったら君なんかの電話に出てるわけないだろ」
少しでも心配したことを後悔するくらい憎たらしい声である。
「そうか、このところはろくに顔も合わせていないだろう。君の具合が良いとき、浮島君も誘って飲みに行かないか。同窓会のようなものだ」
「ははっ、良いねえ。 浮島君にスピリタスの一気飲みでもやってもらおうか」
「警察も呼んだほうが良さそうだな」
この調子なら、彼が劇団に復帰するのもそう遠い日ではないだろう、と斎波は希望的観測を胸に抱いた。
城戸のことを好きになることはできないが、彼か去ってからの劇団には少なからず寂しさを感じていた。 今は無理でも、いずれまた彼と共演できる日が来れば良いのだが。
「じゃあね。頑張りなよ、美少年」
「ああ。君も養生するといい」
通話が切れる。斎波ははあ、と溜め息を吐き出した。
彼が戻って来やすいように、ブルートループをこれからも守っていかなければ。たとえ、どんなことがあろうとも。
まずは、“フラ泥”の公演を成功させよう。
「はあ……」
通話を切ったあと、城戸は大きな溜め息をつきながらスマートフォンをベッドに投げ、目の前のテーブルを据わった目で見つめた。
ぐちゃぐちゃに混ぜられ、積み上げられた錠剤の山は、電話がかかってくる直前に城戸が飲もうとしていたものだった。薬袋に書かれた『用法用量を守って正しくお使いください』という文言が白々しく思える。
「本当、タイミング良くかけてきてくれるよ、アイツ」
錠剤を選り分け、元通り朝昼晩と決められた回数分に整理する。すっかり気持ちが冷めてしまい、今から“チャンポン”をする気にはなれない。
斎技という男は何につけてもそうだ。こちらのことなどまるでわかっていないくせに、図ったようなタイミングで現れてちょっかいを出してくる。そして大概、その行動は正しい。斎波のそういった性質こそ、城戸が彼を嫌っている一番の原因だった。
「あーあ、ムカつく」
床に身を横たえ、天井を見上げる。消されたままのシーリングライトが月のように見下ろしている。
「……宍上紅蓮、ねえ」
斎波の共演者。誰もが知る若手スター。城戸にとってはどうでもいいはずのその名前が、なぜだか変に気にかかった。
確か……何年か前、友人から話を聞いたのだ。どこぞの男アイドルが、自身の主演映画が封切られる直前に逮捕されるという大スキャンダルが起きた。ドラッグに手を出したとか、ファンに暴行しただとか……そいつの名前はもう忘れたが。
映画でそいつと共演していたのかまだブレイクする前の宍上で、事件以降にそれまでそのアイドルが受けていたような仕事を宍上がやるようになった、という話だった。
「………………」
別に、だからどうということはない。宍上とも男アイドルとも面識がない城戸には、それらの事実か何を意味しているのか、因果関係があるのかなど判断できない。ただ、城戸にしては珍しく、胸がざわざわするような予感に襲われたのだ。
「まあ、斎波君なら心配はいらないだろうけど」
真面目という形容詞をつけられるために生まれてきたようなあの男が、何か事件を起こすなどありえない。そういうのは自分の役割だ。
「十一月か。それまで、ちょっとはこっちもマシになってればいいけどな」
小さく呟く。同期の彼がテレビドラマだ舞台だと活躍している話を聞くたび焦燥感に駆られる。こんなことをしている場合ではないのに、身体――いや心が言うことをきかない。せめて、奴の主演舞台くらいは見に行けるようになれることを祈りながら、城戸はカーテンの隙間から洩れる日差しを避けるように目をつぶった。
順風満帆だ、と薄川は感じていた。
ここ最近、演技の調子が良い。今までより良然ジジの気持ちに入りこめるし、歌もダンスもどんどん上達していっているのを感じる。
きっと、宍上のおかげなのだ。
先日、宍上と急接近したことがきっかけだと思う。あの日以来、二人で練習をしたり、一緒に遊びに行くようになった。我ながら現金だが、宍上といる時間が長くなるほど演技に対するモチベーションが高まっているのだ。
(本当に恋しちゃうかも、このままだと)
さすがにそれはまずいと、理性でなんとか押し留めている。古今東西、共演者同士のロマンスがトラブルを引き起こした話は多い。まして、相手はあの宍上だ。万が一世間に知られたら、思い詰めたファンに包丁で刺されてしまうかもしれない。それでなくとも、純粋に共演者として気遣ってくれているだろう宍上を裏切りたくない。
(もどかしい。ジジも、こんな気持ちで恋してたのかな)
そんなことを考えながら、今日も事務所の廊下を通り稽古場へ向かう――その途中で、何やら目を引く二人組がいることに気がついた。
一人は、ブルートループ代表こと志島亜理愛だ。元は美人の顔つきだろうに、常に厳しい顔をしていて近寄りがたく、薄川は内心敬遠していた。そして、もう片方は……。
(え、生越さん?)
宍上とともにやってきたもう一人のスター、生越たつみだ。彼女もまた、亜理愛とは違った意味で近寄りがたい人だった。愛想が良く、話しかけられれば誰にでも笑顔で応えるのだが、それ以上近づくことができない。ある一線から先に立ち入られるのを拒んでいるようなのだ。
めったに人とつるまない二人が一緒にいることに違和感を覚える。いや、代表と団員、話をすることは多々あるはずなのだが。
「何度も言わせないで」
と、亜理愛が声を荒げさせたのが聞こえてきた。
「もう役者をやるつもりはないわ。この劇団を続けていくのが、今の私の人生なのよ」
何やら込み入った話のようだ。野次馬根性でついつい足が止まって聞き入ってしまう。
「役者と団長は兼任できるよ。理由になってない」
「勝手なことを言わないで。今はそんな余裕ないのよ」
「……そう」
生越の落胆した声。少し聞いただけで、二人が単なる知人同士ではないことが明らかな会話内容だった。
(気になる、けど……駄目駄目、こういうのは深入りしたらまずいよね)
余計なことを知りすぎて厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。薄川は足早にその場を去った。
「アデルと私の共通点、か」
稽古場で呟く。今朝城戸から言われた言葉を、斎波は思い返していた。
十四時。平日としてはまだ早い時間であるが稽古場には団員達が集まりだしている。そういえばもう八月か、と学生達の姿を見て気づいた。
「だからさあ、絶対おかしいんだって! そりゃあさ、実力は、ほんのちょーっと、あるかもしれないよ? でもさあ、それ以外は全然駄目! 読み合わせ中に居眠りするような奴だよ!?」
「はあ……」
「あんなのに任せてたら絶対ロクなことにならないよ。早く降ろしてやったほうがいいんだって!」
と、いつもの調子で伊櫃が熱弁を振るっている相手は初空だった。
「あはは……」
初空はいつもと変わらず困ったように笑いながら伊櫃の話を聞いている。斎波は彼女の横顔に以前の事件と同じような“痕跡”がないか観察せずにはいられなかった。
アデルのことを考えるたび、彼女のことを思い出してしまう。斎波には絶対に経験することのない、精一杯想像することしかできない屈辱。一方的に搾取される者の気持ち。その点では初空は確実に斎波よりアデルに似ているはずなのだ。
――こんなことを考えること自体、冒涜的で、恥知らずなことなのかもしれないが。
初空の心に触れることは、アデルに近づくための手がかりになるのではないか――自分には持ち得ないものを持ち、奪われてしまっただろう彼女ならば。
酷く危険な考えに取り憑かれていることを自覚しながらも、斎波は初空に向けて足を進めた。
「やあ、寂しそうだね? プレイボーイクン」
しかし、途中で背後から彼を抱き締める手によってそれは阻まれた。
「ん、生越さん?」
周囲、特に女子達がざわつくのを感じた。何せあの麗人、生越たつみが男に抱きついているのだ。どよめきは困惑とショックの色で染まっている。
斎波には縁遠く、理解の及ばない世界ではあるが、たとえばあの宝塚歌劇団の男役のように男性的な振る舞いをする女性を好きになる女性は殊の外多いらしいのだ。同じ女性として応援したり、さながらアイドルのようにのめり込んで追っかけをしたりと“推し”方は様々だが、過激なファンになると文字通り人生まで捧げ、うっかり贔屓女優に彼氏の存在が発覚しようものなら大変な惨事を招いてしまうとか。
生越も、普段は男装こそしていないが、そういうファンに好かれるタイプのようだ。入団してから三ヶ月、劇団に生越宛てにファンレターやプレゼントが頻繁に届いたり、熱心すぎるファンが面会を求めてきたりと様々なことがあった。団員にも隠れファンがいるようで、生越と共演することが決まって以来斎波によそよそしい態度をとる女性団員が増えた。
「話なら向き合ってしないか? このままでは周囲の視線が痛い」
やんわりと腕を振り払う。斎波一人が嫌われるくらいで済めばいいのだが、それが原因で団内でトラブルが起きてしまっては困る。ちょっとしたいたずらのつもりなのだろうが、厄介なファンに絡まれることは日常茶飯事だろうに、何を考えてこんなことをするのか。振り向いた先で生越はにやにやと笑っていた。
「何か問題ある? キミはアデルで、私はパヴォットなんだから、このくらい役作りの一環でしょ。むしろ、私をエスコートしてくれるくらいはできるって期待してたけどな」
生越のにこやかな仮面の下から、侮蔑の眼差しが覗いているのが見えた。
生越との共演シーン――アデルとパヴォットの場面は、順調に練習できているとはとても言い難い状況だった。
斎波と生越の気が合わないのも一因だったが、何よりもそれらの場面におけるアデルの心境を斎波が理解できていないのだ。台本の動きをなぞるだけで手一杯で、説得力のある演技ができない――意地の悪い生越の態度も、思うように稽古が進まない苛立ちから来ているのだろうと斎波は考えていた。
「やろうよ、練習。宍上クンばっかりじゃなくてさ、たまには私も構ってちょうだい?」
「ああ、そうだな」
今日は宍上も別の仕事で来ないし、斎波も取り立てて用事はない。早く“アデル”を完成させて、演技のクオリティを上げていかなければ。
「よし。じゃあみんな、そういうわけだからんと斎波クンは別室で練習させてもらうよ。一応確認するけど、別に良いよね?」
生越が周囲に投げかける。身じろぎような気配はあったものの、はっきりとした返事はなかった。生越本人から言われれば、文句も言えないか。
「行こうか、斎波クン。向こうの小さいレッスン室、あそこでどう?」
「それでいい」
ちらりと横目で初空を見る。他の団員達とは違いこちらを見ず、まだ喋り続けている伊櫃の相手をしている。生越に興味がないのだろう。
未練がましい気持ちを仕舞い込み、生越に意識を切り替えながら斎波は稽古場を出た。
アデルとパヴォットの恋模様は、ミュージカルの主役のそれとしてはかなり歪な関係性である。
パヴォットはリュシアンの妹の友人でお針子の少女だ。
町工場を辞めたリュシアンの妹に仕事を教えた縁でアデルとリュシアンの店を訪れる。しかし、最初に出会ったのはアデルではなくリュシアンのほうだ。そのとき店番をしていたリュシアンは、都会的で華やかで、今まで出会ったことのないタイプの女性であるパヴォットに一目惚れをしてしまうのだ。
初めての恋にすっかりのぼせ上がるリュシアン。しかしそのすぐ後、アデルとリュシアンは経営を巡っての大喧嘩をする。故郷に帰り、友人達に慰められるリュシアンの一方で、店に取り残されたアデルは孤独と絶望に気が狂わんばかりになっている。そんな中、店にパヴォットが訪れる。リュシアンが自分から離れていってしまうことへの焦り、あるいは嫉妬や怒りからか、アデルはパヴォットがリュシアンの片恋想手と知りながら誘惑し、惚れさせ、リュシアンから奪ってしまう。
「残酷が過ぎると思う」
台本を読み返しながら、生越に言うでもなく呟く。
「つまり、パヴォットに対しては気持ちがないのに、リュシアンへの当てつけのためだけに関係を持ってしまったわけだろう? リュシアンに対してはもちろん、パウォットにあまりに失礼だ。どれだけつらい境遇だろうと、やってはいけないことはあるだろう」
パヴォットを演じる生越はどう思っているのだろう、と視線を向ける。にこやかなポーカーフェイスからは感情を窺えない。
「ふうん、キミから見てもそんなふうに思うんだ。ま、サイテーな男だよね」
「最低なのはそうなんだが、何よりも理由――動機が理解できない。リュシアンに痛い目を見せたいとか、恋によってリュシアンの心が自分から離れていくのが嫌だとか、そこまではわかる。けれど、そのために好きでもない女性を虜にして、何回も抱いたりとか、そういうことをするだろうか? なんと言えばいいのか……考えていることと、実際の行動が噛み合っていないように思う」
アデルの心の動きが複雑すぎるのか、斎波の考えか単純すぎるのか、何にせよそこが一番の悩みどころだった。リュシアンへの感情を胸に燻らせながら、他の女性に愛を囁き、恋人を演じる……そんな人間がいるのだろうか?
「本当に全然わかんないの?」
生越は面白がっているように言う。
「君にはわかるのか?」
「全部じゃないけど。アデルの、パヴォットに対する態度は正直気持ち悪いと思ってるし。でも、別にパヴォットに対してまったく何も思ってないわけじゃないわけでしょう。子供ができちゃったら責任取って結婚しようとしたわけだし。『憎らしい恋敵』くらいには考えてもよさそうなのに、ずいぶんと手厚い扱い方じゃない?」
「それはまあ、そうなんだが」
だからこそ、一層不可解に感じるのだ。
「アデルにとって、パヴォットはいったいどういう存在だったんだろうな。……すまない。ずっと考えているんだか、どうしてもわからない」
台本を穴が空くほど見つめてみても、結局答えは見つからない。はあ、と深いため息をついてから顔を上げる。
目を見開いた生越が、ひどく冷たい顔で斎波を見ていた。
「――生越さん?」
「私も訊いておきたいことがあるんだけど、いい?」
有無を言わさぬ口調だった。斎波が答える前に、生越は続ける。
「キミはいったいどんな気持ちで、志島亜理愛と付き合っていたのかな?」
「――――」
驚きで声も出ない、とはこのことか。何を聞かれているのか理解できず、生越の問いに答えることができなかった。
「そんなに大口開けて驚くようなこと?」
生越は肩をすくめてみせる。笑っているようで、眼差しはやはり冷たい。
「別に隠してたわけじゃないでしょ。キミが高校時代、亜理愛と付き合っていたことなんて、少し調べればわかることなんだから」
「……そんなことを聞いて、どうするんだ?」
やっと思考が戻ってきて、口を開く。
「確かに私は亜理愛と交際していた。だが、ほんの短い期間で関係は終わっている。今現在の私達は、座長と団員、それだけの関係だ。他人に話すようなことはない」
「どっこい、話してもらわなくちゃ。キミが話したくなくても、私は聞きたくて仕方なんだから」
「どういうつもりなんだ――」
出会った頃から感じていた漠然とした敵意が、急に形と質量を伴って向かってきているのがわかった。どうして、何が理由で、彼女は自分を嫌っている!?
「君がどう思っていうと、話せるわけがないだろう。私だけじゃない、亜理愛のプライバシーに関わるからだ。同意もなしに過去の恋愛について話すのは、彼女の尊厳を傷つけることになりかねない」
「亜理愛のことは聞いてないよ。キミのことを聞いてるんだ」
「私?」
「キミはどんなつもりで、好きでもない女と付き合って、彼女の心を傷つけるだけ傷つけて別れてくれたのかな」
いよいよ言葉が出なかった。生越の問いは、斎波が今まで自覚したことがなかった急所に深々と突き刺さったようだった。
好きでもない女と付き合っていた? 弄んで傷つけた? それでは、まるで。
――私が、アデルのようじゃないか。
「私さ、高校の同級生なんだよ、亜理愛と」
沈黙した斎波にお構いなしに生越は話し続ける。
「あの頃の亜理愛はモテモテだったよ。女子校だったから、『お姉様』なんて呼ばれちゃっててさ。お姉様が出演するなら是非見なくちゃ、なんて、無理してブルートループのチケット買いまくってる子が沢山いたくらいね」
亜理愛は今でこそ座長職に専念しているが、先代座長が健在だった十代の頃は女優としてブルートループの公演に多く出演していたのだ。確かにあの頃、観客に制服の女子がいやに多いことがあったな、と斎波はぼんやり回想する。
「私もね、亜理愛のことが好きだったんだ。いや、今でも好きだな。亜理愛のためだけにこんなちんけな劇団に来るくらいにはね」
「なっ」
「ここ、はっきり言ってレベル低いよ。役者として活動するならパピヨンにいたほうがよっぽど良かったね」
劇団のことを悪く言われ、反射的に身構える。しかし、生越の瞳は斎波よりも強い怒りに染まっていた。
「けど、ここに来て正解だった。はっきりとわかったよ。亜理愛はここにいたら駄目になる。亜理愛はこの劇団に縛られてるんだ」
「乱暴に決めつけてくれるんだな。誰かが亜理愛に座長であることを強いているとでも?」
「自分の意思ではあるよね。意固地になってる。だからこそ、誰かが止めてあげないといけないんじゃないか」
「……わからないな。君が亜理愛を想ってるのはいい。だが、どうして矛先を私に向けるんだ。たった数ヶ月、過去に交際していたことが、彼女の人生を左右するほどの理由になるのか?」
結局難癖じゃないのかと思う。昔付き合っていただけでそこまで言われることはないはずだ。まして、そんなことで劇団まで悪く言われるならいよいよ許せない。
「いいかげんにしてくれ。結局君の私情じゃないか。プライベートならともかく、ここに来てまでエゴを持ち込むのは役者失格だぞ。不満を感じるのなら、無理にこの劇団にいてもらうこともない」
「キミのほうこそわかってないよ。私はキミの話を聞きたいのに、劇団がどうのとか、そんなことは聞いてないんだよ。いいかげん、誤魔化すのはやめてくれないかな」
「なんだって……」
「キミは亜理愛をなんだと思ってるの? 何も思っていないなら、まあいいさ。だけど――『劇団のため』だけに亜理愛を縛りつけているんだったら、私はキミを許せないな」
亜理愛は――亜理愛だろう。それ以上でも、それ以下でもない。
劇団と亜理愛は別だ。志島先生の後を継いで代表に就任したのは亜理愛の意思だし、それを強要した者は誰一人としていない。もしも亜理愛が別の選択を取っていれば、ブルートループは解散を余儀無くされていただろうが……。
……そのとき、はたして斎波はどんな行動を取っていただろうか?
違う。生越がしたいのは、どうやらそういう話じゃないらしい。自分が、亜理愛をどう思っているか? そんなこといちいち言うまでもない。亜理愛は……私にとっての、亜理愛とは。
「………………」
足元が急にぐらついたように錯覚する。そんなはずはない。亜理愛とは、もう十年以上の付き合いだ。幼なじみと言ってもいいほどの関係だ。それが――それなのに。
亜理愛に対して抱いていたはずの感情が、ぽっかりと穴が空いたように見つからない。いや――そもそもそんなものなかったのか? そんな馬鹿な。
志島亜理愛はブルートループの座長で、志島先生の長女で、元女優で、私にとって幼なじみで…………駄目だ、そんなもの単なる肩書きの羅列でしかない。そこに志島亜理愛という人間はいない!
「やっぱり……そうなんだね」
呆然と立ち尽くす斎波を生越が冷えきった眼差しで見つめる。
「だから、キミはアデルと同じなんだよ。……いや、“リュシアン”がいないぶん、もっとタチが悪いかな。キミは人間なんか見ちゃいない。劇団がどうとか、常識としてどうだとか、そういう
それが異常であることは、わざわざ指摘されるまでもなくわかりきっていた。
だが――それが自分の行動であることが、斎波にとっては耐えがたい苦痛だった。明らかに異常で、間違っていて、おかしなものの見方をそうと気づかずにいたというのか。
そんなおぞましいことがあってたまるか。
「ねえ、何度でも聞くよ。キミはいったいどういうつもりで亜理愛と付き合っていたの? 座長の娘だからとか、付き合いが長いからとか、そんな理由だけで付き合っていたんだったら、それがどれだけ残酷な話か全然気づかずにいたっていうんだね?」
わけわかんないね。キミって本当、サイテーな男だよ。
生越たつみは執拗に、斎波を問いただし続けた。
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