第217話・お兄様の一大事と「私」の異変




 王都に来てから何だかんだで落ち着いてから幾日。

 この日、私は何故か朝から落ち着かなかった。

 虫の知らせと言えばいいのか。

 ゾワゾワと悪寒が襲ってくるような、そんなおかしな感覚に付きまとわれているのだ。

 同じ感覚に襲われたのなんてルビーン達が暗殺者だった頃、城で襲撃を受けた時ぐらいだった。

 あの時は精霊も騒いでいたから私なりに警戒していた。

 けど、今回は精霊は静かだ。

 なら、今回は私の気のせいなのだろうか?


 そういう日もあると考えてもいいんだけど。どうしても気のせいだと思ってはいけない気がするんだよね。


 工房の中に居てもおかしな感覚は付き纏ったままだった。

 こんな状態で錬成の練習なんて出来ない。

 どうしても集中出来ない状態に陥った私は身にならないと思いつつも本でも読もうかと考えため息をつく。

 一度読んだ本をただ眺めるように読んでいるのは無駄な時間なんだけど、どうしても何かをする気になれない。

 リアには体の具合が悪いのかと心配されたけど、体調自体は本当に何ともない。

 何とも言えない嫌な感覚だけがつねに付き纏っているだけ。

 いっその事、魔法で誰かに見られているとか、そういった分かりやすい理由でもあれば対処も出来るのだけれど。

 本当に私の感覚だけなので、どうしようもない。

 

 お兄様のお顔でも見れば、少しは良くなるかしら?


 相変わらず忙しない様子のお兄様は今日も学園に行ってしまった。

 勉強熱心なのは良い事なのだけれど、少し休んだ方が良いのでは? と思ってしまう。

 弛まない努力をなさっているお兄様は凄い方だけど、このままでは体調を崩してしまうのではないだろうか? という心配もしてしまう。

 とは言え、私の我が儘でお兄様に時間を割いてもらうのは気が引ける。

 けど、棍を詰めていらっしゃるなら妹の特権を存分に使って休んでもらうのも……。

 思考があっちこっち行っている自覚のある私は再度溜息を吐くと本を閉じる。

 

 うん。今日お帰りになったお兄様のお顔を見て決めよう。


 疲れているようならお休みするように勧めて、大丈夫そうなら心配している事だけ伝えよう。

 それくらいなら許されるだろう。

 私は心の中でうんうんと頷くと再び、嫌な感覚を振り払うように身の入らないまま本を開くのだった。


 ――まさか、そんな悠長な事を考えている余裕もない程の事が起こると、この時の私は知る事も出来なかったのである。






 お兄様。


 お兄様。


 お兄様、どうかご無事で――。


 ガタガタと普段ならば公爵家に相応しく殆ど揺れを感じない馬車のたてる音が嫌に耳につく。

 スカートを握りしめそうな手を何とか抑えて手を握りしめる。

 貴族として決して安物ではないけれど、決して外に出るに相応しいとは言えない服。

 けれど、私は着替えている余裕も無く、周囲の制止を振り切り馬車に飛び乗った。

 今一緒にいるのはリアとルビーン、ザフィーア、そして偶然間に合ったアズィンゲインだった。

 向かう先は学園。

 休みとは言え、先触れも無く向かえば無作法と言われるかもしれない。

 だとしても、私は一刻も早くお兄様の元に向かいたかった。


 お兄様が魔法等、何らかの干渉を受けて倒れた。


 その一方が自邸に届けられた時、私は「朝からの嫌な予感」はこれだったのだと確信した。

 聞いた瞬間は目の前が真っ白になったが、此方が倒れていてはお兄様の容体も分からない。

 貴族として品位を考えるならば私は家で待つ事が正解だという事は分かっている。

 お兄様がお倒れになったのは学園だ。

 幾ら今が休暇中だとしても、医務室は使えるはずだ。

 そうでないならば診療所かラーズシュタイン邸に連れ帰り、かかりつけの医者に診察してもらうはずなのだから。

 だから私が行っても何も変わらない。

 これ以上王都で私のおかしな噂を増やさないために私は大人しくしているのが最適解だ。

 そうだと分かっていても私はそれを選べなかった。

 お兄様が学園に居ると分かった私は、着替える暇さえ惜しみ、屋敷を飛び出し馬車に飛び乗った。

 後ろから引き留める声は聞こえいた。

 けど、それを無視して、むしろ御者に学園に向かうように強く命じた。

 御者の人は私のそんな無茶な命令に驚いていたようだけど、苦笑して馬車をだしてくれた。

 

 彼には否は無いのだと後でお父様達には言わないといけないわね。


 全く冷静ではないが、する事も無く、座っているしかない現状でふと、そんな事が頭を掠めた。

 もし御者が叱責されるならば、むしろラーズシュタイン家とは言え、まだ成人もしていない子供が我が儘を押し通した、という方が問題だろう。

 私が叱られるのは当然なのだから、御者には何の落ち度もない事を話さないといけない。

 それが私に出来るせめての事だった。

 小さくため息をつき、眼を強く瞑る。

 お兄様は無事のはずだ。

 一報を知らせに来てくれた方も深刻な様子は見受けられなかった。

 けど、倒れた理由について聞いても言い淀んでいた事がどうしても気にかかる。


 魔法等の干渉という事は、直接魔法で攻撃されたのではないのかもしれない。

 まさか【わたくし】が過去に受けたように精神に干渉するものだったのだろうか?

 だとしたら、お兄様は今苦しんでいらっしゃるのではないだろうか?

 そもそも、どうして学園でお兄様が魔法干渉を受ける事になったのだろうか?


 疑問が浮かんでは消えていく。

 心が締め付けられるように痛い。

 早くお兄様にお逢いしたい。

 寝ている御姿だとしても生きている事を自身で確認したい。

 震える手を抑えるのがそろそろ厳しくなった頃、馬車が止まる。

 リアとアズィンゲインが先に降りると事情を説明してくれているらしい。

 馬車の扉を開けてお兄様の所へ駆けだしていきたい。

 けど、そんな事をしてしまえば家族に迷惑がかかる。

 その意志が最後のストッパーとなり、私は未だ馬車の中に居る事が出来る。

 けど、それすらも長くは持たないと私自身が一番よく分かっていた。

 そろそろ限界だとそう思った時、アズィンゲインが扉を開け「アールホルン様は医務室にいらっしゃるようです」と伝えてくれた。

 我慢できたのはそこまでだった。

 私はアズィンゲインの横をすり抜けると馬車を飛び降りる。

 目の前には驚いた顔の男性が立っている。

 守衛か学園の職員か。

 そんな事どうでも良い。

 まさか私のような貴族令嬢が馬車を飛び降りるなんて言う無作法をするとは思いもしなかったのだろう。

 ぽかんと口を開いていてのが見えた。

 けど、そんな事すら今の私にはどうでも良い。

 

「ルビーン、ザフィーア。お兄様のいらっしゃる医務室が何処か分かるかしら?」

「是」

「なら、案内して頂戴。最短でお願いしますわ」

「了解」


 ザフィーアが私の意を汲んでか早いスピードで先行する。

 それを見て、私も駆け出す。

 後ろから幾人かの引き留める声の中にアズィンゲインの声も聞こえた気がするけど、気にしてはいられなかった。


 学園にはきっと生徒がいるのだろう。

 そんな人達が私の姿を見れば何事だと思うはずだ。

 はしたないと顔を顰める人だっていてもおかしくはない。

 けど、けれど思うのだ。

 家族が倒れたと聞いて取り乱すのがそんないけない事なのかと。

 今が公式の場、外交の場ならば納得しよう。

 時には家族すら切り捨てても国を取らねばならない時があるかもしれない。

 けれど、そうではない時まで繕って何になるのだ。

 今、お兄様が倒れて私が騒いだからと言って御家に害が及ぶ事は無い。

 ただ私の評判が下がるだけだ。

 ならば、私が淑女の仮面を被っている理由もない。

 心の赴くままに動く私を、私自身が肯定する。

 駆ける足はその肯定に後押しされるようにスピードを上げた。

 無茶な事言っておいて何だが、ザフィーアはいつの間にか学園の構造を熟知していたらしい。

 本当に最短で医務室までたどり着く。

 後は扉を開けるだけ。

 そんな時だというのに、私は腕をつかまれ扉に触れる事が出来なかった。

 振り払おうと振り向くと、そこには息切れしたアズィンゲインが立っていた。


「離しなさい、アズィンゲイン」

「出来ません。少し落ち着き下さい」

「それこそ出来ませんわ。もう一度言います。手を離して下さいまし」

「ラーズシュタイン家の令嬢として落ち着くまでこの手を離す訳にはまいりません」


 アズィンゲインの言っている事は正論なのだろう。

 今の私はどう考えても淑女の行動として間違っている。

 けど、その正論が聞き入れられる程、今の私には余裕がない。

 ただ目の前の扉の向こうに居るお兄様にお逢いしたい。

 強引に振り払ってしまおうかとそう思った時、アズィンゲインの肩越しに赤と青が目に入った。


「【ルビーン! ザフィーア! アズィンゲインを引き剥がしなさい!!】」


 気づいた時には私は二人に対して【命】を下していた。

 恍惚の笑みすら浮かべてアズィンゲインを引き剥がした二人を他所に私は「(そういえば初めて、しっかりと【命】を下したかもしれない)」と頭の片隅で考えた。

 けど、それすらどうでも良い事で。

 私は腕が自由になった事を確認すると、後ろで何かを言っているアズィンゲインの言葉を無視して医務室の扉を開けるのだった。


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