第9話 沙夜のSOS
その子の名前を聞かされた瞬間、わたしは一目散にその場から駆け出した。
ここに居たくない。
あの子の側に居るのが怖い。
早く、早くここから離れないと。
わたしを旧校舎に連れ込んだのは、怪しい誘拐犯なんかじゃない。
あの子が……あの女の子の幽霊が──『赤い手帳』が、わたしとあの子を繋げてしまったんだ。
「はぁっ、はぁっ……!」
どこに逃げれば良いかなんて、分からない。
ただ今は、一刻も早く昇降口から離れなくちゃ。
それだけがわたしの思考を支配して、両脚をがむしゃらに動かせていた。
暗い廊下を、暗闇に少し慣れてきた目で駆け抜けて。
足音なんてもう気にしていられない。
階段を駆け上がる音だって、しんと静まり返った校舎に響き渡っている事だろう。
それでも構わない。
あの場に留まれば、わたしは彼女に文字通り
「どうして……どうしてわたしっ、あんな物拾っちゃったんだろ……!」
駆け込んだ先は、最初に目が覚めた三階の教室。
わたしはすぐに扉を閉めて、近くにあった机や箒でバリケードのような物を作った。
そのまま窓側へと背中を預けて、その場で小さくうずくまる。
抱えた自分の膝も、手も肩も震えが止まらない。
わたしは膝に顔を埋めながら、過去の自分の行いを呪う事しか出来なかった。
どうしてあの時、道端に落ちていた『赤い手帳』を拾い上げてしまったのか。
一瞬、自分のメモ帳かと思ってビックリしたけど……よく見れば古ぼけた赤い表紙の、全く知らない手帳だった。
家族旅行から帰って来たばかりだったわたしは、登校日の後にでもこの落し物を交番に届けようと、一旦手帳を家に持ち帰っていた。
今思えば、それがこの悪夢のような出来事の始まりだったんだろう。
あの『赤い手帳』は、もうわたしの手元には無い。
きっと、あの女の子の手に戻ったんだと思う。
昇降口での彼女の言葉が事実だとするなら、わたしはこの旧校舎に閉じ込められてしまった、憐れな生贄のようなものだ。
「出られる……のかな、わたし。もしかしたらこのまま、あの子に呪い殺されるんじゃ……」
彼女は……
いくら考えても、答えは出て来ない。
けれども、考えずにはいられない。
だってあの子は、こんな事を言っていた。
『ワタシはね、アナタがワタシの宝物を拾ってくれた時に決めたのよ。今度はこそは、この子と一緒になろう……ってね』
宝物は、あの手帳の事。
それを拾ったわたしは、きっと彼女の獲物なんだと思う。
幽霊の女の子は、わたしの命を奪って蘇ろうとしている……のかもしれない。
制服姿で幽霊として現れたのなら、何らかの無念を抱えて死んだはず。
だから同じ年頃のわたしを彼女の代わりに見立てて、わざわざ制服を着せてまで、ここに連れて来た。
そう考えれば、この先に待ち受けているであろうわたしの末路が……心底ゾッとするけれど、想像出来てしまうから。
******
【雛森沙夜 二日目】
あれから、どれだけの時間が経ったか分からない。
精神的にかなり参っていたんだと思う。
自分でも気付かない間に、気を失うように眠ってしまっていたらしい。
でも……再び目を覚ましても、そこは変わらず闇に包まれた夜の教室だった。
「なん、で……?」
眠気が残る身体の怠さからして、体感的にはもう陽が昇っていても良い頃合のはずなのに。
少なくとも窓から見えるのは、脱出への希望に満ちた夜明けの空じゃなく、相変わらず暗い空に散らばる星達の光だけで。
わたしはふらふらと立ち上がり、呆然と窓の外を眺める事しか出来なかった。
「まさかとは、思うけど……」
あり得ない話のはずだけど、自分の中に浮かび上がった一つの可能性に、背筋が凍る。
まだ八月の真っ只中のはずなのに、妙に肌寒くて……。
それが余計に不安を確信へと近付けさせる材料になり、わたしは震える唇で自らの予想を口にした。
「ここは……あの子のせいで、時間が止まったままになっている……?」
時計が無いから確かめようが無いものの、かなり眠ってしまった自覚はある。
それなら、夜が明けていても不思議ではない。
なのに目の前に広がるのは、何も変化の無い山の景色だった。
するとその時、わたしの頭の中で、あのセーラー服の少女の声が響いて来た。
『ふふっ……それは間違っているわ、サヤ。もうとっくに一日が経ってしまったのよ。アナタがそこで寝息を立てている間にね』
その声に反射的に振り返るも、少女の姿はどこにも無い。
「ど、どこに居るの!?
『あら、ワタシの名前を呼んでくれるのね? 嬉しい……嬉しいわ、サヤ!』
「そんなのどうだっていい! それより、またあなたはどこかからわたしを眺めているの!?」
歓喜に声を弾ませる彼女は、わたしの質問なんて些細なものだとでも言うように、あっさりと答えてみせた。
『ええ、そうよ? ここはワタシに支配された、ワタシの領域。例えアナタがどこに身を隠そうと、ワタシには全て手に取るように分かるのよ?』
それはつまり、千里眼のようなものだろうか。
わたしがどこに居ても、あの子の目には常にわたしの行動や居場所が見えている。
一種の監視カメラのようなものだろう。
だからあの子は、わたしが昇降口に来たのを知っていて、そこで姿を現した……。
『このままアナタが
彼女の声でしか判断が出来ないけど、それでもあの子がわたしという存在を重要視している事だけはよく分かる。
そして、このまま旧校舎に囚われ続けると、最悪の事態を迎えるであろう事も……ね。
それきり、彼女の声はピタリと止んだ。
教室の様子は眠る前と変わりなく、扉の前に積まれた机や椅子に異変は無いようだった。
彼女の言葉を信用するなら、その間にここに閉じ込められて一日が経過してしまったらしい。
となると、
朝が来れば、先生や他の生徒達が大掃除の為にここにやって来る。
それまでの辛抱だ。朝になれば、きっと誰かが助けに来てくれるはずだもの……!
……そう信じていたけど、どれだけ待っても朝が来る気配が無い。
それに、止んだはずのあの子の声……と言うより、クスクスと笑みを零す笑い声が、どこからか漏れ聴こえて来るんだ。
あの笑い声を聞き続けていると、何だか頭がおかしくなりそうで……とても怖いの。
彼女の声が耳にこびり付いて、それが空耳なのかどうかも分からなくなっていく。
……もう、頭がどうにかなってしまいそうだった。
両手で耳を塞ごうとしたその次の瞬間、何かがぽとりと落ちた。
それは、わたしと共にここに持ち込まれた、赤い表紙のメモ帳とポールペンだった。
「あ、そうだ……わたしのメモ帳……」
わたしは床に落ちてしまったそれを拾い上げ、カチリとポールペンの頭を親指で押した。
黒と赤の二色が一緒になったポールペンを手に、机に向かってメモ帳に言葉を書き込んでいく。
このままここで何もせずに居たら、気が狂ってしまいそうだったから。
だからせめて、ここで起きた事を少しずつ書き込んでおこうと思う。
旧校舎では、どうやら時間の流れがおかしくなっている。それはほぼ確定しているはずだ。
そんな状況下に放り込まれた今、このメモ帳に何かを書き残して、心に抱えた不安やストレスを発散させないとどうにかなってしまいそうだった。
けれども、またどこからか聴こえて来るあの笑い声に反応して、自然とペンを握る手に余計な力が入ってしまう。
字が少し崩れてしまったけれど、全く読めない事は無い。
『もう丸一日、旧校舎から出られない。
昇降口も、窓からも出られなくなってる。
真っ暗な中で、さっきからずっと女の子の笑い声がする。
誰でも良い。お願いだから、誰かわたしを助けて……ここから出して……!』
ありったけの本音をぶつけたページを、そっと端を内側に織り込んで
わたしはその後、メモ帳を机の上に閉じて置いた。
何故ならわたしは、これから校舎内を探索するつもりだからだ。
つまりここに書き残したのは、後でここを訪れるかもしれない誰かに宛てた、書き置きだ。
あのセーラー服の子の発言が全て真実だとも限らないし、どこかに外へ出られる抜け道のようなものがあるかもしれない。
だからわたしは、それを探しに行こうと思う。
そしてこの書き置きは、わたしの不在に気付いた誰かの為の、わたしからのSOS。
わたしは。
雛森沙夜は、ここに居る。
わたしは必ず、旧校舎から逃げ出してみせる。
その為に出来る事があるのなら、絶対に手を抜かない……!
例え逃げ道が見付からなくても、朝になったら希望が見えて来る。
永遠の夜なんてどこにもない。
わたしはいつまでも膝を抱えて泣き崩れるような、あの頃のままの弱虫じゃない。
誰かが助けに来てくれるまで何もしないで待っているだなんて、そんな情け無い女の子にはなりたくないから。
「それでも……もし須藤くんが助けに来てくれるなら、とっても嬉しいんだけどね」
だから今は、このちっぽけな勇気を振り絞って、朝まで頑張ってみようと思うんだ。
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