朝顔

坂本裕太

朝顔

 何かに小突かれた気がして、私は目を覚ました。

 寝ぼけまなこで時計を確認すると、アラームが鳴る十分前の時間だった。私の隣には穏やかな寝息を立てる見慣れた顔がある。目覚ましの鳴る前に起こすのは気が引けたので、私はそっとベッドから抜け出して、窓際へ歩み寄った。

 カーテンを少しだけ開けて、早朝の外の様子を眺める。まだ町全体が寝ぼけた雰囲気に覆われていて、でもどこからか聞こえてくる雀の鳴き声、走り込みをする人影やまばらに走る車を見れば、町も私と同じようにちゃんと起きようとしているのだとわかる。

 そういえば、高校二年生の夏休みの時、毎朝こうやって窓から外を見ていたっけ。


  ――――


(……あっ、来た)

 二階にある自分の部屋の窓から外を眺めていた私は、道の右手から歩いてくる人影を見つけて、思わず窓の陰に体を引っ込めそうになる。

 突然、目が合ったらどうしよう。いや、でも、ここは二階の部屋の窓なんだから、いちいち他所の家の窓を見上げたりしないだろうし。それに、彼女は犬の散歩中だ。自分の目の前を歩く犬に意識が向いていて、私のことに気づかないはず。

 大丈夫だと思いつつも、いざという時に窓の死角へ隠れられるよう身構えながら、彼女がこちらに向かってくる姿を目で追っていく。そして、私の家の前を通りかかった時、彼女の顔をしっかりと確認した。

 やっぱり、由依ちゃんだ。軽くパーマのかかった短い髪型に、何もつけてないのにキラキラしているように見える目元、そして何よりころころして可愛い小顔、間違いない。

 そのまま家の前を通り過ぎて後ろ姿が見えなくなってから、私は部屋の時計を振り返る。

 時刻は早朝の五時半。ここ三日間、同じぐらいの時間帯に家の前を通るってことは、この道が飼い犬の散歩コースなんだ。数日前、好きな作家の新刊を買ったその夜についつい読みふけってしまい、気づけば朝になっていたことが信じられず、窓の外を見ると偶然にも見かけた人影がまさか本当に彼女だったとは。

 こんな早い時間から由依ちゃんを見ることができるなんて正直嬉しい。この高校生になって二回目の夏休みが始まる時は、また一ヶ月の間も由依ちゃんに会えなくなると若干憂鬱になっていたが、この発見のおかげでだいぶ元気が出てきた。普段の学校生活では彼女と私の女子グループが違うせいでほとんど喋ったことはないけど、毎朝犬の散歩をする彼女の姿を知っているのは同じクラスでも私だけだろうな。そう考えると、より一層嬉しい気持ちでいっぱいになってくる。

 私は机の写真立てを手にとって、そこに入ったクラスの集合写真を見つめる。

 由依ちゃんは、本当に可愛い。髪はふわふわしていて、お肌は綺麗だし、爪なんかネイルをしているみたいに整っている。先生の目を誤魔化してさりげなくお化粧をするのも上手だからか、女子の中でもカーストの高いグループにいて、ちょっとギャルっぽくて怖い女子とも仲が良い。だからといって、他の子みたいに高飛車な態度はとらず、どんな子にも優しく接してくれる。

 私にとって、彼女は一つの憧れでもあった。ちょうど、オシャレに気遣い始めた子がファッション雑誌の表紙を飾る女の子に憧れを抱くのと同じように。

 そんな風に、彼女を自分とは別次元に住む女の子だと思っていたこともあって、高校へ進学してからこの二回目の夏を迎えるまでの間、彼女とまともな会話をしたことはほとんどない。なんだか近寄りがたい存在だったし、どんな話題で話しかけたら良いのかもわからなかったから。それでも高校一年の時に一度だけ、声をかけていたら仲良くなれたかもしれないきっかけがあるにはあった。

 それは当時、彼女が学校指定のカバンにつけていたぬいぐるみのキーホルダーだった。そのぬいぐるみは私の大好きなメーカーが販売している、動物をモチーフにした可愛いキャラの一つだ。女子高生の間でも人気だったそれは基本的に売り切りでしか販売されないから、ファンの間では競争率も高く、予約開始と同時にサイトへアクセスしたのに売り切れていたなんてことも珍しくない。

 キャラの中でも特に人気の集中していたぬいぐるみを彼女がつけていたから、当然彼女のグループはそうした話で盛り上がっていた。「私は買えなかったのによく買えたね」とか、「いいな、羨ましい。ねえ、なんか、上手く予約を取るコツってあるの?」といったものだ。

 実は、その時私も彼女と同じぬいぐるみのキーホルダーを運良く買うことができていて、カバンの中に入れてきていた。彼女みたいにカバンの外につけてこなかったのは、怖い子に絡まれるのが嫌だったからだ。

 今、私がこれを持って行って由依ちゃんに話しかけたら、友達になれるかな。

 そう思ってどうしようかと迷ったけど、結局は行動に移せなかった。たぶん、勇気が足りなかったんだと思う。彼女の周りにいた子が怖かったのもあるけど、何より急に話しかけて、彼女が困った顔をしたらと考えて臆病になってしまったのだ。

 あの時、私が勇気を出して話しかけていたら。もしかしたら、友達になれていたかもしれないし、もっと仲の良い関係になって、お休みの日とか一緒に出かけたりして由依ちゃんのことを独り占めできたかもしれない。

 といっても、もう過ぎたことだから、もしもの話をしてもしょうがないのだけど。

 私は写真立てを机に戻して、下の階へと降りていった。


 由依ちゃんの犬の散歩コースが家の前だと知ってから、私は毎朝、彼女の姿を見るために早起きをするよう努力した。目覚まし時計のアラームだけだと絶対に起きないことは自覚しているので、癖になっている夜更かしも少しずつなおして、朝のアラームを聞いたら、せっかくの夏休みだから何時間でも寝坊してやろうという気持ちを抑えるようにし、ひとまず体を起こすようにする。

 慣れない早起きのせいで体がだるくても、窓際に寄って、道の向こうから歩いてくる由依ちゃんの姿を見るとそんなことも気にならなくなる。そのかわりに、私の胸には朝の気だるさとは別の、もどかしいような息苦しいような感覚が生まれるのだ。

 思い返せば、高校の入学式の日、クラス全員の自己紹介で彼女を知った時からそうだ。

 生徒の一人一人がお互いにまだ初対面で、席を立って自分の名前や趣味を簡単に述べていく中、他人にあまり興味のなかった私が「へえ、こんな人もいるんだ」とやや他人事じみた態度でいたところ、私から離れた遠い席に座っていた子がすっと立ち上がった。あの時から、私はずっと、その由依ちゃんのことを目で追うようになっていたんだと思う。机に向かった時目にかかった髪を耳にかける仕草、授業で自分の意見を発表する時にほんのりと高い声を出す唇の動き、友達とお喋りをしていると時折見せる可愛い笑顔。学校から家に帰った後も、お風呂上がりの髪を乾かしてからベッドで横になって目をつぶると、彼女のことばかりが頭に浮かんでくる。

 そして、いつからか、そこに憧れ以外の感情があるということに私は気づいた。

 だって、変だもの。由依ちゃんに笑いかけられている女の子を見て、それがたまらないほど羨ましく思うなんて。私の知らない、学校では見せてくれない彼女の楽しそうな顔や悲しそうな顔がたくさんあるんだと考えたら、あまりにも彼女のことを知らなさすぎて悔しいという思いで溢れてくる。

 きっと、私は由依ちゃんに恋をしているんだ。

 クラスの女の子が格好良い男の子を好きになるように、私にとってのそれがたまたま自分と同じ女の子だったんだ。でも、それって普通なのかな。私の周りや友達からは別のクラスの男子や先輩を好きになったっていう話をよく聞くけど、女子を好きになったという話は一度も聞いたことがない。由依ちゃんに抱いている私の感情が誰にでもある普通のことなら、なんで他の子はそういう恋話をしないんだろう。

 そう不安になってネットで調べてみたこともあったが、それまでは興味がなくて目に入らなかっただけで、世の中には私と同じように同性を好きになる高校生も意外に少なくないのだと知った。だけど、そういった人たちに対する周りの反応は冷たい。前向きで応援してくれる人がいる一方で、「憧れと好きの感情を混同している、勘違いしているだけだ」とか、「そういう同性への恋は一過性のものだから、大人になればそれがわかる」という人たちがいる。

 それらは直接私に向けられた言葉でないにしろ、誰かを好きだという自分の大切な気持ちを否定されたようで悲しかった。どうして、そんな身勝手なことが言えるのだろう。相手を好きになる気持ちは人それぞれで一つとして同じものはないのに、自分の経験や知識だけでまるで「お前は私と同じ人間だからわかる」とでも言いたげだ。

 私は由依ちゃんを好きだというこの気持ちをそんな理屈で誤魔化したくない。

 夏休みが始まってから、毎日のように二階の窓から由依ちゃんの姿を見送っていた私はある朝、彼女を待っている間に、心の中で大きくなっていた一つの想いに目を向けた。

 なんとかして、この気持ちを伝えたい。

 由依ちゃんに対する私の恋愛的な感情は気の迷いなんかじゃないという反抗心もあったかもしれないし、高校一年の時に彼女へ話しかけるチャンスを逃してしまったことで後悔していたからかもしれない。ひょっとしたら、両想いになれるかもと淡い期待をしていたのもあるだろう。

 それに、伝えるならこのタイミングしかない。

 夏休みが終われば、またいつもどおりの学校生活が始まる。そうなると、同じクラスでも由依ちゃんと私の女子グループが違うから、二年生にもなっていまさら話しかけようとするのは難しい。二人きりになるなんて、なおさら無理だ。高校一年の時のチャンスを逃してから今の今まで彼女との接点はなく、このまま行動を起こさないままだと、最悪赤の他人のまま高校を卒業してしまうことになるかもしれない。それだけは嫌だ。

 私は机の引き出しを開けて、そこから一通の手紙を取り出して机の上に置いた。確か、高校二年生に進級した時、なんの奇跡か由依ちゃんとまた同じクラスになれた嬉しさの勢いで書いた手紙だ。付き合って欲しいとかそんな積極的な内容ではなくて、ただ貴女が好きですという素直な気持ちだけを書き連ねたものだった。いつか渡せる日が来たらと思って残しておいたけど、そんな機会が本当に来るなんて。

 この手紙で私の気持ちを伝えるとして、問題はその渡し方だ。

 私は一生懸命考える。なるべく自然な形で由依ちゃんに気づいてもらえる方法はないか。私も犬を飼っていれば、散歩の振りでもして偶然をよそおいすれ違うことができたのに。ペットを飼っていない私には無理だ、もっと他にないだろうか。例えば、それに近い方法で朝のランニングをしている振りはどうだろう。いや、ランニングなんて文化系っぽい自分のキャラじゃないし、走っていたら向こうが気づいてくれないかもしれない。

 色々と考えている内に、私は一つの良い案が浮かんだ。

 そうだ、郵便受けを見る感じで外に出れば良いんだ。そうすれば、実際に朝の新聞を取ることになるからごく自然な形で、由依ちゃんの視界に入ることができる。

 我ながら良い方法だと思ったところ、道の端から由依ちゃんの姿が現れた。

 私は机の上に置いていた手紙を手にとって、下の階までそっと降りていった。玄関の前で一度立ち止まり、彼女が家の前を通りかかる頃合いを見計らってドアノブに手をかけた時、一瞬ためらいが生まれた。でも、深く考える前に頭を振り、勇気を出して玄関の扉を開ける。

 外に出ると、私は郵便受けのある庭先まで進んでいく。少し歩けばあっという間に辿り着く距離なのに、私の足は自分でも恥ずかしくなるぐらいゆっくりとした歩みをしていた。

 ちょうど郵便受けの取り出し口に手が触れたところ、犬の足音とともに近寄ってくる由依ちゃんの気配がした。彼女に気づいてもらうため、私は思い切って顔を上げ、こちらに向かって歩いてくる由依ちゃんのほうへ目を向ける。

 すると、意外にも早く彼女と目が合った。

「……あれ? もしかして、篠崎さん?」

 私は彼女の目を見つめたまま情けなくも黙り込んでしまった。だって、由依ちゃんが私の名前を呼んでくれて嬉しかったから。私には一年の時から同じクラスでも名前を覚えていない子がちらほらいるのに、彼女はほとんど話したことのない私の名前を覚えてくれている。これだけのことで舞い上がっちゃうなんて、私って本当に由依ちゃんのことが好きなんだ。

「……あっ、ごめんなさい。もしかして、人間違いでした?」

 急に不安そうな表情をした彼女はしおらしくも敬語口調になった。

 私はふと我に返り、彼女の不安を取り除くよう慌てて言葉を返す。

「ううん、間違ってないよ! 私、同じクラスの篠崎」

「だよね? もう、一瞬、本当に間違えちゃったのか心配したじゃん」

 彼女がほっと胸を撫でおろす様子につられて、こちらも安心したのも束の間、私は気まずい空気を作らないよう急いで話題を振る。

「その、ゆい……、あっ、いや、立花さんって、犬飼ってたんだ?」

 思わず馴れ馴れしく名前で呼びかけた私を見てか、由依ちゃんは軽く笑い声を出す。

「そう、可愛いでしょ? 見りゃわかるかもしんないけど、ラブラドールって犬、名前はゆきっていうの。ここ、よく通るから、夏休みの間は毎日私が散歩してんだ。てかさ、私のことは由依で良いよ。その『立花』って名字、なんか武将っぽくて好きじゃないんだよね。だから、名前で呼ばれたほうが私も嬉しいし」

「あっ、うん、じゃあ、由依……ちゃん」

 私がそう呼ぶと、彼女は満足したように爽やかな笑みを作った。

 私は内心びっくりしていた。まさか、初対面の私にも彼女の友達と同じように名前呼びを許してくれるなんて。でも、立花さんって響きも格好良くて、私は好きだけどなあ。

「篠崎さんは、篠崎さんで良い? それとも名前?」

「う~ん、私はどっちでも良いかな? 由依ちゃんが呼びやすければ、なんでも」

「じゃあ、とりあえず、篠崎さんで。その内、しのっちって呼び出すかもしんないけど、気にしないでよ。私が勝手につけたあだ名でそう呼んでただけだから」

 付け加えるように言った彼女の言葉に、私は引っかかった。

 それはつまり、私の知らないところで、例えば友達との話の中で私の話題が挙がった時にそう呼んでいたということだろうか。彼女のことだからきっと意地悪な気持ちで他人のあだ名をつけたりしないとは思うけど、ひとまずあだ名呼びの経緯は置いといて、いったいどんな話題で私の名前が出てきていたのかが気になる。もしかして、学校で彼女のことを一々目で追っていたのが気づかれていたのかな。

 彼女の言葉にどう返事をすれば良いか考えていると、彼女はつと思い出したようにショートパンツのポケットからスマホを取り出し、何かの調べ物をするように独り言を漏らしながらいじり始めた。

「えっと……、あっ、これこれ! ねえ、これ知ってる?」

 そう言って、彼女がスマホの画面をこちらへ向けてくる。

 その画面を見てみると、そこには私のよく知っているサイトが表示されていた。これは高校一年の時に由依ちゃんが学校指定のカバンにつけいてた、そして私自身が今も集めているぬいぐるみのキーホルダーを扱っているメーカーの公式サイトだ。

「うん、知ってる! 私、ここのメーカーが好きで集めてて、特に……、このキャラが好きかな?」

 私はサイト上の画像でセンターを飾っているマスコットキャラの一つを指差した直後、はっとする。一年前のあの時、私が踏み出せなかった共通の話題を彼女から振ってもらえたという嬉しさのあまり、思わず声が高くなってしまった。どうしよう、急に態度が変わったから引かれていないかな。

 そんな心配をよそに、私の指差したキャラを見た由依ちゃんは表情を明るくしていた。

「やっぱりそうなんだ。私と同じやつが好きとか、マジで嬉しい」

「えっ、やっぱりって?」

 まるで私のお気に入りを前から知っていたかのような口振りだ。まあでも、別に徹底して隠しているわけでもないし、学校の中では友達とそういう話もするから、どこかで聞かれていたのかもしれない。現に、私も彼女のことをこっそり見ていて、同じキャラのぬいぐるみが好きだと知っていたわけだし。

 そう一人で納得しかけていると、彼女は焦った様子で手を振ってみせる。

「ああ、違うの。だいぶ前に友達と趣味の話してたらさ、しのっちと私の好みが似てるんじゃないって話になって。それで実は、篠崎さんとお話してみたいなって思ったんだけど、仲の良い友達とかもう固まっちゃってるし、いまさら話しかけるのも恥ずかしいなあってなってて、だから、こうしてお話できたのがちょっと嬉しいんだよね」

 それを聞いた私も胸の高鳴りが抑えられなくなった。まさか、彼女も私と同じように友達になりたいと思っていたなんて。

「そ、そうなんだ! 実は、私も、由依ちゃんが私と同じキャラのキーホルダーを集めてるって聞いて、気になってたの。でも、私とタイプの違う子が周りにいるから、なんか話しかけづらくって」

「ほんと? ヤバ、お互いに変な遠慮してたんだウチら。確か、篠崎さんって他にも可愛いぬいぐるみとかキーホルダーとか集めるのが好きなんでしょ? 私の周りには結構流行りに乗っかってるだけの子が多くて、そんなにガチで語れるわけじゃなくってさ」

 気づけば、彼女は少しずつ私に気を許してくれつつあるのか、砕けた雰囲気の言葉遣いになっていた。

 誰にでも優しいから真面目だと思っていたイメージはちょっと変わっちゃったけど、お互いにお喋りするのが初めてみたいなものなのに話しやすくて、これが普段の素に近い彼女なんだろうなと思うと、むしろ今まで以上に好感を覚えたぐらいだった。雑誌の向こう側だと思っていた憧れの女の子がヒールを脱いだら、実は自分と同じ普通の女の子だったみたいに、すごく身近な存在に感じられる。

 もっと、由依ちゃんと色んなお話がしたいな。

 そう私が思ったところで突然、彼女は何かに引っ張られるよう体を揺らす。

「おっと、そうだった、私ユキの散歩中だったんだ」

 彼女の右手に持つリード、その先に繋がれた犬を見て私も思い出した。

 彼女は今、毎朝の日課である犬の散歩をしている途中で、ずっとここに立ち止まってお喋りをしているわけにはいかない。それに私もパジャマのまま外に出てきてしまったから早く家の中に戻らないと。お母さんならともかく、お父さんにこんなところを見られたくない。そういえば、私がこうまでして彼女に話しかけたのって友達になるためだけだったっけ?

「ねえ、篠崎さん」

 私が考える前に、由依ちゃんが話しかけてくる。

「今度ちゃんとお話したいから、よかったら連絡先を交換しない?」

 願ってもない彼女の提案に、私は考えるよりも先に二つ返事をして、そこにないことが分かっていながらパジャマのポケットに手を当てる。と、自分の手から何かが地面に落ちた気がした。

 何が落ちたのか、そして今ここに自分がいる理由を思い出した時にはすでに遅く、腰丈ほどの鉄柵の門より向こう側に落ちたそれを、目に留めた由依ちゃんが拾い上げていた。

「これ、落としたよ」

 彼女は特別手紙のことに興味を示す素振りもなく、それを私へと差し出してくる。

 きっと、私の家宛の手紙だと思っているのだろう。でも、違う。この手紙は今手に持っている由依ちゃんへと宛てたものだ。由依ちゃんを好きだという私の募る想いが綴られた、それこそ女子が好きな男子に渡すような気恥ずかしくて、甘酸っぱい手紙。

 これを受け取るのは簡単だけど、もしそれをしてしまったら、私は今後高校を卒業するまで彼女への気持ちを伝えられない気がする。どうせ、面と向かって手渡しなんてできないんだから、その手紙が彼女の手にある今こそ、勇気を出して正直に言ってしまおう。

「それ、実はその、由依ちゃんに渡そうと思ってて……」

 言いながら、私は思った。

 よくよく考えれば、郵便物を取りに来たという設定で手紙を渡すのは不自然だ。こっちは由依ちゃんが私の家の前を通るということを知らない振りをしているのに、事前に渡す手紙を用意しているなんて。これじゃあ、私ってストーカーみたいじゃない。

 自分の取った行動の意味不明さに顔が熱くなるのを感じる。体の両側から壁が迫ってくるような錯覚すらあり、体が縮こまる感覚のせいで彼女の目をまともに見れない。

「そっか、これ私宛てなんだ。どんなお手紙なの?」

 やや予想外の反応に、私は恐る恐る顔を上げて由依ちゃんの表情を見る。

 彼女は露骨な不快感を示すわけでもなく、かといって大げさに感動した様子もない。至って普通の贈り物をもらったような平然とした態度だった。

 あまりにもけろっとした彼女に、かえって私のほうが返事に困ってしまう。

「どんなって、私の、由依ちゃんへの気持ちを書いた手紙というか、そういうもの?」

「ふ~ん、ありがと。今どき、手紙って珍しいね。篠崎さんって、意外と古風なとこあるんだ」

 そう言って、彼女は笑みをこぼした。

 ただ、その笑みは今の平然とした態度と違って不器用に見えた。相手に本当の感情を知られないよう隠す時に使う表情とでも言うのだろうか。もし、私が都合良く解釈しているだけでなければ、少なくともその押し殺している感情は感触の悪いものじゃなくて、ちょっとぐらい期待しても良いような動揺というか……。

「じゃあ、このお手紙の返事を書く時に、一緒に連絡先も教えるね。私って字下手だから遅くなるかもしれないけど、待っててね。じゃ、またね?」

 私の相槌を待たずに、由依ちゃんは早口気味にそう言い終えると、待ちくたびれたとばかりに走り出した飼い犬のユキと足並みを揃えるようにして、駆け足で立ち去っていく。私は鉄柵の門からやや身を乗り出して彼女を見送ったが、いくつ目かの角を曲がってその後姿が見えなくなるまで、彼女が一度もこちらを振り返ることはなかった。


 あの手紙を渡して次の日から、由依ちゃんは私の家の前を通らなくなった。

 朝早く起きて自分の部屋の窓から外を覗いても、見かけるのはランニングやペットの散歩をしている知らない人ばかり。ほとんど毎朝欠かすことのなかった犬の散歩を急にサボるとは思えず、恐らく私のことを避けているのだと思った。

 少なくとも夏休みが終わるまでは由依ちゃんと顔を合わせずに済むかもしれないということに、私は安心したようで悲しい気持ちになる。あんなラブレターみたいな手紙を渡した後でどんな顔をして会えば良いのかわからない。彼女が私を避けているのだとしたら、あの手紙は彼女の中で無視できない深刻な問題になっていて、もしかすると嫌な気持ちにさせてしまったのかもしれない。不安になってもそれを確認する方法がないので、私は結局彼女の返事を待つしかなかった。

 そんな状態のままで迎えた始業式の日。

 妙に早鐘を打つ心臓の音を聞きながら教室に入って、真っ先に由依ちゃんへ目を向けると、彼女も私のことに気づいたらしく、こちらがびっくりして足を止めてしまうほど早く目を合わせることになった。が、それも一瞬だけで、彼女はすぐに目をそらしてしまう。

 それから朝のホームルームまでの時間、ホームルームが終わって体育館へ移動する時、そして始業式を終えて教室へ帰って担任の先生が戻ってくるのを待っている間も、彼女は私のほうを見ないよう注意している様子だった。私と目が合いそうになると、まるでこっちを見ないでとばかりに背を向けるほどである。

 夏休み前と明らかに変わったのは、それまでは私から一方的に彼女を意識するだけだったのが、今や彼女自身が私の視線を意識するようになっていたことだ。だけど、それは私の望んだ形ではない。

 ここまで露骨に避けられるとは思っていなかった。きっと、私の考えが甘かったんだ。あの時、足元に落ちた手紙を拾われた時に告白の手紙だと言わなければ、あのまま連絡先を交換して普通の友達になれて、両想いにはなれなくても高校にいる間ぐらいは仲良くすることができたかもしれないのに。勇気なんて出さなきゃ良かった。後悔をしないために勇気を出して行動したはずなのに、その結果を見て後悔するなんて、私はなんて我儘なんだ。

 教室に担任の先生が戻ってくると、それまでお喋りをしていた生徒は自分の席へとつき、下校前のホームルームが始まった。

 新学期や次の行事に関すること、明日持ってくる物について話し終えた後、先生は帰りの挨拶の前にこう付け加える。

「ああ、そうだ。それと、この後少し残ってくれる人はいないか?」

 どうやら、始業式の後片付けを手伝ってくれる生徒を募っているらしい。生徒会や教員側の諸事情により人手が不足しているようで、他のクラスでも同様の声掛けをしているが、あくまで任意であって強制ではないとのことだ。

 一秒でも早く帰りたい生徒達は誰も名乗り出ようとしない。私もみんなと同じ気持ちで、こういったボランティアの募集にはいつも手を上げなかった。でも、今の私はいつもの気分と少し違った。

「先生、私暇なんで良いですよ」

 私がそう言うと、もとからあまり期待していなかった様子の先生は半ば驚くような反応を見せる。周りの生徒も「あいつが自分から進んで手伝いをするなんて珍しい」とでも言いたげな空気を出していた。

 別に学校の活動に貢献したいとか、先生の役に立ちたいとか思ったわけではない。私としては、帰り道に由依ちゃんと鉢合わせるのが嫌だったのと、なにか自分が普段しないようなことをして今の気持ちをまぎらわせたかっただけだ。

 ホームルームを終えて、みんなが我先にと下校し始めるのを尻目に、私は先生と一緒に体育館へと向かい、そこに着くと早速作業に取り掛かった。

 始業式の片付けはなんとなく新鮮だった。式で使ったパイプ椅子や垂れ幕などを所定の場所へ運ぶだけの単純な作業だが、知らない先輩や後輩と軽く話す機会があったり、ただ形式的に参加している学校行事でもこうした舞台裏を誰かがやっているのだと知れたりと、毎日の同じ日常からちょっとだけ抜け出せたような感じがする。まあ、私の日常はとっくに変わってしまっているんだけど。

 気づけば、お昼前には後片付けが終わっていた。

 担任の先生からは本当に助かったと感謝され、お礼にと校内の自販機でジュースを一本奢ってもらった。得した心持ちで先生と別れると、今日は始業式のために部活動もほとんどない静まり返った校内を出て、学校の正門へと向かった。

 そして、門を通り過ぎたところ、不意に聞き覚えのある声がした。小さな声だったのでなんて言ったのかはわからなかったけど、私に声をかけてきたのは間違いないと思ったので、立ち止まって振り返る。

 そこには、由依ちゃんがいた。

 私は自分の体がこわばるのを感じる。どうしよう、由依ちゃんだ。制服のままでカバンを持っているってことは、ホームルームが終わった後からずっとここで私を待っていたのかな。もしかして、私に手紙の返事をするために? あの手紙を読んだ彼女の答えは聞きたい。でも、彼女の気持ちを知るのは怖い。

 どうするのが最善なのかわからず、私は思わずその場から逃げ出そうとする。

「ちょっと待って!」

 彼女に呼び止められて、私は踏み出した足を戻し、また彼女と向き合った。といっても、彼女の顔をまともに見れるわけがなく、私の目は由依ちゃんの足元と地面を行ったり来たりしていた。

 それから私も由依ちゃんも黙り込んだまま少し経った頃、彼女が先に口を開く。

「ねえ、私のお返事、聞いてくれる?」

「……うん」

 彼女は一度深呼吸をするように一拍の間を置く。

「私さ、女の子から告白されたの初めてで、篠崎さんのお手紙を読んだあと、すっごく戸惑ったの。なんで、男子じゃなくて、同じ女子の私なんだろうって。でも、数日考えてみたら、篠崎さんに好きって言われたのは意外と悪い気もしなくて、その……、頭良いし、可愛いし、真面目で、そんな女の子に好かれちゃったんだ私、って思ったら、むしろ嬉しいような、変な感じがして。よくよく考えたら、私も篠崎さんのこと気になってたし。えっと、私もそういった意味で篠崎さんを好きになれるかわからないけど、自分の気持ちも確かめてみたいと思うから、篠崎さんが良ければ、その、なんていうか、恋人っぽいお付き合いをしてみたいな」

「えっ!」

 私は顔を上げて、由依ちゃんの顔を見る。首筋まで赤らめた彼女と目が合った。今度は彼女も私から目をそらそうとしない。

「本当に? 私と付き合ってくれるの?」

 自分の聞き間違いではないか確認すると、彼女は一向に白くならない首元を左手でさすりながらぎこちなく頷く。

「うん。でも、もしかしたら、最終的に篠崎さんを傷つけてしまうかもしれないけど」

「ううん、それでも良いよ。由依ちゃんに好きになってもらえるよう、私頑張るから」

「そっか、ありがと。じゃあ、とりあえず、一緒に帰ろっか?」

 彼女は首元にやっていた手をこちらへ差し出してくる。

 私はそれを彼女なりの歩み寄り方だと受け取って、その手を握り、そのまま肩を並べて歩き出す。彼女の手は頬に差した紅味のわりに冷たかった。とすると、由依ちゃんには私の体温が今どうなっているのか伝わっていることだろう。

 こんな嬉しい返事がもらえるなんて思ってもいなかった。手紙を渡した日から家の前を通らなくなって、夏休みが明けて学校に来てみれば、私と一切目を合わせようとしない。これからもずっと、そんな風に避けられていくのだとばかり思っていた。

「篠崎さん、ごめんね? 返事が遅くなって。本当はすぐに返事をしなきゃって思ってたんだけど、全然気持ちの整理ができなくって。気づいたら学校が始まってて、今朝もずっと言おうとしてて、でも、篠崎さんを見たら落ち着かなくなっちゃってさ。あ~、やっぱ変だね、私」

「ううん、全然気にしてないよ。それに私だって、由依ちゃんを初めて見た時から、ずっと変になってた」

 それを聞いてか、繋いでいる由依ちゃんの手にちょっぴり力がこもる。学校では自信に満ち溢れている彼女がここまで動揺しているのは、新鮮で可愛かった。

「てかさ、恋人っぽいことって何すれば良いんだろうね」

 照れ隠しのつもりなのか、普段どおり振る舞おうと彼女は大げさに笑ってみせた。

 言われてみれば、私も女の子同士で付き合うのは初めてだし、何から始めれば良いのかなんてまったくわからない。

「う~ん、実は、私もよくわからないんだよね。付き合ってからその先ってあんまり考えたことなかった」

 由依ちゃんは少しの間を空けて、「だったら」と話し始める。

「明日から一緒に学校行かない? 篠崎さんの家わかちゃったし、いつも家を出る時間を教えてくれたら、それに合わせて私も出るからさ。そんで、慣れてきたら朝の時間をちょっとだけ早くして、二人っきりの時間を作れるかも。他の子にもあんまり見られずに済むし」

 その由依ちゃんの提案は悪くなかった。どこかに出かけたりお互いの家に遊びに行ったりとかもしたい気はするが、それは友達同士という関係だから何気なくできることであって、恋人同士となった私達では相手のことを余計に意識してしまって、気まずくなるかもしれない。まずは、お互いのことをよく知ることから始めないと。

「うん、良いかも」

「じゃあ、ちゃんと待ち合わせできるように、連絡先交換しよっか」

 私と由依ちゃんはそれぞれのカバンから自分のスマホを取り出して、相手のアドレスにメッセージを送り合った。そうして、彼女の連絡帳には篠崎由美、私の連絡帳には立花由依の名前が追加される。

 今、この時の本音を言えば、他の友達のアドレスなんてなくなっても良いと思った。この連絡帳から由依ちゃんの名前がずっと消えなければ、それで良い。

                                      

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朝顔 坂本裕太 @SakamotoYuta

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