最終章 童話の国のリリィ

第245話 発売日

『あひるの王子と片翼のドラゴン』が発売されるという、私史上、そして、童話の国史上最もエキサイティングな吉報は、瞬く間に国中に広まった。

 とあるち辺境の村から漏れ出た情報は、たまたま童話を売買しに来た行商のお婆さんに伝わり、村から村へ、街から街へと感染してゆく。人の口には戸を立てられないということわざが示す通り、国民の「ここだけの話なんだけど」という前振りは、好奇心を刺激する香辛料にしかならず、国家機密は公然の秘密となり果て、期待だけが独り歩きして膨らんでいった。

 そして先日、とうとうその日がやって来た。


「本日発売! 童話の国の大ヒットシリーズ! その最新刊! その名も『あひるの王子と片翼のドラゴン』! 数に限りがあるからね! 早いもん勝ちだよ!」

「おひとり様、一冊とさせてください。いいですか! おひとり様一つ限りです! ――ちょっとそこ、もう一回並ぼうとしないで!」

「偽物が出回っています! いいですか! みなさん! あのポスターが貼ってあるお店から、お買い求めください。繰り返します。偽物が出回って……」

「ちょっと、押さないでよ! 童話は逃げたりしないわ!」

「ひったくりだぁ! あの男、俺の童話を盗んだぞぉ!」

「なーんとなんと! うちの店では既に中古を販売してるよ! 童話市広しと言えど、この早さで中古を仕入れたのはウチだけ! ちょっとでも安く買いたいそこのあなた! 寄ってらっしゃい!」


 もはや狂喜乱舞の大騒動である。

 童話市の露店は人で埋め尽くされ空気が薄い。冬の寒波を追い返さん勢いの熱気が辺りを満たし、耳を塞いでも『あひるの王子』の話題が聞こえて来た。


「うっひゃあ。すげぇ人だ。これがみんな嬢ちゃんの同類かと思うとぞっとしねぇな。ガッハッハ」

「私はあんなに下品に童話を愛でたりはしないよ! っていうか、ガロン! 人ごみだから!」

「いいじゃんぇか。これだけ人が集まってんだ。誰の声かなんてわかりゃしねぇよ」

「確かにな。この国の童話に対する熱量を再認識させられた。人の波で酔いそうだ……」

「だらしないなぁ、ヴェルトも。ま、それだけお父様の童話が凄いってことだからね!」


 私はもみくちゃにされないように少し離れたところから、市場の喧騒を眺めていた。

 特別軍鳥エンシェントイーグルによる快適とは言いづらい空の旅は、ここ童話市の郊外で終わりを迎えた。湖の村を出発してからたった五日。徒歩で一年かかった道のりを、五日で飛びきってしまった軍鳥に驚きを隠しきれない。日の出とともに飛び立ち、日の入りとともに人里離れた山の中に着陸する。夜は近くの宿場町に泊まったりり、久し振りに野宿をしたりした。

 軍鳥は利口で、自分が人に見つかってはいけないことを理解していたし、私たちの多少無茶なお願いも聞き届けてくれた。昨日は塩の街に寄ってもらい、アリッサの宿屋で久しぶりの再会を楽しんできた。

 本来なら今日は童話城へ直接飛んでいくつもりだったのだが、


「発売日、今日でしょ! これは行くしかないよね? 王女として!」


 と私が舵取りをし、当初の日程とは異なる形で空の旅は終了した。


「いい? お父様に、リリィは童話市で一泊した後帰りますって、伝えるんだよ? わかる?」

「ぴえー」

「どうしてって聞かれたら、うまく誤魔化すんだよ? わかる?」

「ぴぴえー」

「よし!」


 私の我儘を悟らせないように調教し、薄く輪郭だけ見える童話城の方へと飛んでいく大きな鷲を見送った。


「ふひひ。みんなが一つの童話を楽しんでいる雰囲気、堪んないよねぇ。よかったぁ、ここで降りて。童話を買い求める人の笑顔もそうだけど、読み終わった後に感想を語り合っている人たちも見てみたかったんだよ!」

「ホントにお前は……。童話のこととなると、周りが見えなくなるな。ポンコツ王女」

「むむむぅ! ポンコツ言うな! 私がポンコツなら、ここにいる人たちみんなポンコツってことになっちゃうよ!」

「ま、確かにな……」

「じゃ、ヴェルト。そう言うことだから、ちょっと行ってきます!」

「あ、おいっ! って聞いちゃいねぇし」


 この一年の旅を終えた今ならもう、ヴェルトに心配をされることもない。めくるめく世界を堪能する人ごみの中へと、自ら足を踏み入れた。

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