第239話 誰もが幸せになる最善策 その③
「これはただの童話だ。特別な力は宿っていない。――人を虜にするっていう、童話本来の魅力以外には、な」
ヴェルトの優しげな瞳が私の方を向く。
「リリィ、この童話、読んだんだろ?」
「う、うん。読んだよ。でもそれ、未完だった」
モニカの部屋の本棚で見つけたモニカのセンスには似合わない一冊。
村を焼かれ、家族を殺され、復讐するための力もない、全ての取り返しがつかなくなった主人公が、科学者を名乗る謎の女性と出会い、過去に戻って世界の過ちを正していく物語。何度も何度も過去を変え、そして落胆する。主人公は自分自身がいなくなることがすべての解決だと気が付いている。けれど諦められず奮闘しする……。
――あなたがこの物語を読み始めた時、私は既にこの世に存在してはいないだろう。
冒頭のこの一節が現実味を帯びていくたびに、私の心は引き寄せられていった。
「吸い込まれるようだった。お調子者だった主人公の人柄も、必死に戦う覚悟も、守りたいっていう強い意志も、どれも力強くて、私を引き寄せるの。想定外のことが次から次へと起って、そのたびに主人公と一緒に一喜一憂して、めくるページが止まらない」
面白かった。その一言では片付けられない。複雑に絡み合った人間関係、予想外の舞台装置、常識を覆す設定の数々……。今まで読んだことはない、けれど、どこかでずっと、こんな話を待ち望んでいた。そんな気分にさせてくれる作品だった。
「俺たちは大きな間違いをしていたんだ。キャメロンと呼ばれる埒外な魔法を身近に置くことで、圧倒され麻痺していた。童話王が欲しかったのは童話の原石だったってのにさ」
「どういうこと? ヴェルト君の責務は、童話の原石を集めることだよ?」
「その童話が俺の答えだ」
レベッカはテーブルに置かれた魔の書物を恐る恐る手に取った。ぺらぺらと捲り、けれど諦めたように隣に立つギールに渡した。
「あたしじゃそんな早く読めないよ。ギール読んでみて」
「ほっほ。これは役得ですな」
ギールは童話を受け取ると、ページをめくり読み始めた。
速読だと聞いたことがある。知略化は多くの書物を読む機会があり、時間に追われる場面も多い。書物から得た知識をすぐに戦略として生かすため、自然に身付いたと言っていた。
「ふむ……。ん? ――ほう。――。――。いやまさか。――。――。――。……」
初めのうちこそ感嘆の言葉を漏らしていたギールだったが、ページをめくるうちにその手が止まらなくなり、しまいには周囲の注目を無視するほどに没頭していた。そして、最後のページをめくると、顔を上げた。
「なんと! ここで終わりか」
「そうだ。そこで終わっている」
読み終えた時の虚無感。私も味わった。過去に戻った主人公の葛藤がこれから始まるというところで、物語は途切れていたのだ。その感情が『悔しい』だと気付いたのは、つい最近のこと。読みたいのに続きが読めない心苦しさは、慣れるものではない。
「なるほど、うむ。お主の言う通り、傑作、いや、怪作となりうる素質を感じる。じゃが……」
「未完なんだよね……」
同じ『悔しさ』を共有したものとして、口が勝手に動いた。童話としての形を保っていない。
「なるほど……。面白いのは面白いんだろうね。ギールを唸らせるのは凄いと思うよ。童話の原石として、キャメロンで奪い取った記憶じゃなくて、未発表の原稿を出してくるなんて、今まで誰もそんなことはしなかったと思うし、いい着眼点だったよ」
レベッカが言う。
「でもそれじゃ、認めることはできないねー。童話の国がそれを受け取ったところで、童話として完結させることはできないもん」
「早とちりをするなって。俺が童話の原石と呼んだのは、その童話じゃない。それは単なるプレゼンテーション用の資料だ」
「ん?」
ヴェルトは大きく息を吸い込んだ。
「才能のことを原石って呼ぶだろう。磨けば光り何倍もの価値に跳ね上がる可能性を表す比喩だ。――文才も物語を作る才能もない俺のリアルな思い出なんかとは比べられない。無限に湧き出しこれから光り輝いて行くとてつもない可能性。そんな原石をあんたらに提供する」
ヴェルトは手を広げると、ある人物を指し示した。
「俺は童話の国に、童話の原石として、この童話の作者、アルトゥールの永久出版権を差し出そう!」
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