第194話 怪しい影再び その②
その時、外から物音が聞こえた。パキパキと乾いた枝を折る様な音。
完全に油断していた私の心臓が、きゅっと小さくなる。
「なに? 何の音?」
窓の外には大きな金木犀の木が見える。庭に植えられた大樹で、今が盛りといい香りをこの部屋にも届けてくれていた。
私は窓に近づき、恐る恐る庭を一望した。
「生垣のところに、何か、いる……!」
「この前の影か!?」
「わからない……。でも……」
私は唐突に不安になった。モニカとヴェルトを見送ったとき、家のドアや窓を施錠した記憶がない。
村の誰もが顔見知りだ。盗みに入る人なんていないだろうし、用心もいらぬ気苦労だと思う。でも、今は教典の国のことがある。村の外から、誰かが来ることを想定しておくべきだった……!
私はガロンを首にかけて、部屋を出た。階段を一段飛ばしで降りていき、正面に見える玄関のドアを見た。
玄関の鍵はかけられてあった。
ヴェルトが気を利かせてくれたのかもしれない。
ひとまず安堵し、今度はリビングに転がり込む。リビングには縁側に出るための大きなガラス窓があって、そこは例の金木犀のすぐ傍だ。影がいる位置に一番近い。
「閉まってない!」
思わず叫ぶと、窓から見える生垣が揺れた。無理やり押し入ろうとして枝に引っ掛かっているのだろうか。ともかくチャンスだ。今のうちに鍵を閉めなきゃ……!
ソファーに身を隠し、窓から見えない位置を意識して、そっと近づく。
鍵を閉めるだけ。そう、あのクレセント錠を、くるっと回せれば……。
カチリ。回った!
伸ばした腕が金属の部分を掴み、窓に鍵をかけることができた。
全身から緊張が抜け落ちていく。仮に何か居たとしても、これで入っては来れない。胸に溜まっていた息を吐き出して、……その油断が、間違いだった。
ふと振り向くと、逆側の窓からぎょろっとした二つの眼がこちらを見つめていた。
「……っ!」
息が詰まった。
舐めるようにじっとりと粘つくような視線。まるで初めて宇宙人を見た人間のような必死さが、そこにはあった。
見つめ合ったのは一瞬だ。私と目が合ったその影は、またしても一目散に逃げていった。走り去る足音と、生垣の枝を折る音が聞こえ、そして聞こえなくなる。
「……はぁ」
足に力が入らなくなって、膝を曲げてその場にへたり込む。
大丈夫。私は強くなった。フェアリージャンキー隔離病棟を切り抜けた私だ、これぐらいで泣き叫ぶほどやわじゃない。うん、十分冷静でいられてる。
ゆっくりと呼吸を整えて、食卓に戻る。
見られていた。私を観察していた。
様々な推測が頭をよぎる。けれど形にならない。
ただ、これだけは確実に言える。
あの影は確かに人間で、そして小さな子供だった。
お昼過ぎにヴェルトが帰って来た。扉越しのヴェルトの声を聴いた瞬間の、私の救われた気持ちは形容しがたい。ガロンを抱えて心細さを凌ぐにも限界があったのだ。
「おわっ! なんだお前は。引きこもりプリンセスは卒業したのか?」
「違うの! いや、もともと引きこもりとかじゃないし。じゃなくて、また出た!」
コートを脱いでハンガーにかけ、リビングまで行ってくつろぎ始めるヴェルトの後ろを、とたとたとついて行き、さっき見た何かについて説明した。
「見間違いじゃないのか?」
「ホントにいたの!」
「俺様も見たぜ。ありゃ、確かに人間だった。だが、小さい子供だ」
「庭に大きな金木犀があるでしょ? あの辺にいたの!」
ヴェルトは淹れたてのコーヒーを口に含み、喉を鳴らす。胸の前で手を合わせる私の懇願を、十分時間をかけて楽しんだ後、ようやく重い腰を上げてくれた。
「じゃ、ちょっと調べてみるか」
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