第195話 怪しい影再び その③

 庭に面した窓を開けて縁側に出てみる。生垣に囲まれた猫の額ほどの庭があって、洗濯物を干すスペースでいっぱいいっぱいだ。裏手の方へ行くと金木犀の大樹がいい香りを放っていて、上からは見えなかったけれどその脇には朽ちかけた物置があった。

 風が強い。巻き上げられる髪の毛を抑えて、ガロンを握りしめながらヴェルトの後について行く。


「俺の家に何かが住み着いてるとか想像したくないんだけどなぁ」

「でも、一回目も二回目も、この家の中で出会ったし。外ではそういう視線気付かなかった」

「ますますミステリーじみてきやがったじゃねぇか。ガッハッハ」


 家の周りを確認していると、ヴェルトが「おっ」と言ってしゃがみこんだ。


「な、何かあったの?」

「地面に黒いシミが出来てる。まだ土に染みこんでない」


 そこは、あの影がこちらを覗いていた窓の下だ。恐ろしい想像が脳を巡る。


「もしかして、血……?」

「いや、違うな」


 人差し指で触り、臭いや感触を確かめていたヴェルトが首を横に振った。


「ツンとした匂いがする。粘性も薄い。何だこれ? どこかで嗅いだことがある匂いだが……」


 私もヴェルトの指先に鼻を突きつけてみる。

 ……あー。なるほど。これは私が大好きな匂いだ。いつも嗅いでいるものよりも、ずっと濃いけれど。


「ヴェルト。これ、インクだよ」

「インク? 文字を書くときに使うインクか? ……言われてみれば」


 ヴェルトが再び匂いを嗅いで頷いた。

 童話が好きな私は、インク=童話を書くためのツールという発想に至ったけれど、よく考えたらインクなんてどこの家にもある。

 国としてはもちろんのこと、各自治体に至っても、紙に記録を残すという文化が広がっている。こと識字率の高い童話の国に至っては他国に先んじてさえいるのだ。一般の家庭で文字を書く機会は多い。ヴェルトの家にもインク壺ぐらい置いてあるだろう。

 問題は、どうしてここに真新しいインクの水たまりができているのか。

 近くの茂みを調べると中にインクが少し残った蓋のついていないインク壺が転がっていた。これをここで落とし、ぶちまけてしまったようだ。窓には薄っすら、黒い手形も見て取れた。


「リリィと目が合って、向こうさんも驚いたんだろうな。落とした証拠を隠すこともできずに逃げて行ったみたいだ」

「し、失礼な! 王女に謁見して驚いて逃げるなんて。……でもなんでインク?」

「さぁてな」


 ヴェルトは立ち上がり、空を見上げた。そこに答えが書いてあるわけではないけれど……。


「俺はリリィの話から、人里を避けて森に住む浮浪者を想像していた。だが、噛み合わんな」


 インクを必要とする文化的な人間と言うことだろうか。けれど、私を見つめるあの目はどう見ても野生のそれだった。人間に慣れていない動物の目。

 ぐるりと一周して金木犀の元へと戻って来た。よく見ると金木犀の幹や生垣にも黒い小さなシミが付いているのを見つけた。先ほどの水たまりと違って、こちらは完全に乾ききっている。モニカがインクまみれの手で洗濯物を干したりしていない限り、これはあの影がずっと前からここにいた証拠だ。


「神出鬼没!? 謎の文化的野生児、家を荒らす! ってか!? ゴシップネタとしちゃあ面白くなってきやがったじゃねーか!」

「これが俺の家じゃなかったら、同感だが……」


 難しい顔をして、ヴェルトは金木犀の奥にこっそりと佇む納屋を見つめた。

 一畳ほどのスペースを占領している朽ちた物置。植物との生存競争に白旗を上げ、つる性の植物が壁に張り付いている。家の周りで調べていないのは、あとはここだけだ。


「開けるの?」


 私の心配をよそに、ヴェルトが扉は扉に手をかける。鍵はかかっていない。建付けの悪くなった扉がゆっくりゆっくり開いて行く。


「どう? 誰か居た?」

「誰もいないが……。――案外、リリィとなら話の分かる相手かもしれないぞ?」

「どういう意味?」


 恐る恐るヴェルトの腰のあたりから覗き込む。

 私の鼻腔に、つんとしたインクの匂いが突き刺さった。薄ぼんやりとした室内が次第にあらわになり、……あまりの光景に私は言葉を失った。

 まず目に入って来たのは大量の紙束だ。狭い室内を埋め尽くすように、絶妙なバランスでうずたかく積み上げられ、さながら樹氷のような様相を呈している。家具と呼べるものは小さなちゃぶ台一つ。申し訳程度に置かれた座布団はくたくたで、これならフローリングに座っているのと大差ない。床は書き損じらしい紙屑が散乱し、足の踏み場もない。ペンやペン立て、開いたインク壺なども一緒に転がっているところを見るに、整理整頓とは無縁の人物が使っていることは簡単に想像がついた。

 誰かが生活していることは確実で、こんなところを根城にする以上相当奇特な人間だと思っていたが、これはあまりにも癖が強すぎる。人が住むための環境とはとても思えない。


「こりゃ、すげぇな。なんつーか極まってるぜ」

「ヴェルト。どうなってるのこれ?」


 ヴェルトの横顔を見上げても、そこに明確な答えは書いてなかった。


「俺にもわからん」

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