第159話 食堂 その①

「――ところで、なんだけどさ。なんかいい匂いがしない?」


 私はヴェルトに降ろされてからこっち、ずっと気になっていたことを口に出して聞いた。私の研ぎ澄まされた嗅覚は、埃っぽい空気の中に空腹を刺激するガーリックオイルの匂いを嗅ぎ分けていて、無性にご飯が欲しくなっていたのだ。


「匂い? ……言われてみれば、旨そうな料理の匂いがする」

「だよね! でも、ここ廃病院なんだよ……」


 ヴェルトと顔を見合わせ、匂いの先を凝視する。長く伸びる廊下には、鬱屈な暗闇が横たわっていて、とてもこの美味しい匂いを発している元があるとは思えない。


「まさか! これもカラテアの魔法!? 私たち既に魔法にかかっているの!?」

「これこれ、落ち着きな、王女様。早とちりしたら向こうの思う壺だよ」


 老婆の声が狼狽する私を嗜める。


「魔力の気配はないよ。ガロンを通じた通信じゃ匂いはわからないけれど、おそらく王女様が感じている匂いは、本物の料理の匂いさね」

「……本物。ますます訳が分からないね」

「こんな廃病院でフェアリージャンキーを十数人も養っているんだ。専用の料理人でも雇ってるんじゃないか?」

「まさかぁ」


 私はおどけたように肩をすくめた。




『食堂』

 廃病院二階の廊下の突き当りには、優に五十人は入れる大きな部屋があり、私たちを誘惑するいい匂いはこの部屋から漂ってきていた。

 大火力で肉や野菜を炒める匂い。つやつやなご飯が炊きあがる匂い。じっくり煮込んだスープが今、絶好のタイミングで熟しきった匂い。醤油が焼ける香ばしい匂いに、海の幸を大胆に炙ったスパイシーな匂い。

 溢れ出る涎を飲み込んで我慢すると、お腹の方が悲鳴を上げた。

 私は扉に着いた窓から中を覗き込んでみる。


「うわぁ。ねぇねぇヴェルト! なんだかすごく美味しそうなものが並んでいるよ!」

「あぁ。でも誰も食べに来てはいないようだ。せっかく作ってもこれじゃ冷めちまう」

「私たちに向けてカラテアが用意してくれたのかな?」

「だとしたら迂闊に食べられないな」

「あ!」


 見透かしたような流し目が向けられる。私は必死に代わる理由を探した。


「……そうか。えっと、じゃあ、この廃病院で料理の修行をしている人が、試作品として作ったとか!」

「……お前、食べたいだけだろ」

「だって! お腹空いたじゃん! ヴェルトはお腹空かないの? 朝から何も食べてないんだよ、私たち!」

「そうは言ってもなぁ。とりあえず入ってみるか」


 長テーブルが作るいくつもの島に、簡素なパイプ椅子が並んでいた。全体的に白いのは、やはりここが病院だったからだろう。かつてフェアリージャンキーとして収監された人たちが、ここでご飯を食べていたと言われると、不思議な気分になる。きっとヒロインへの思いを馳せながら、食事にありついていたのだろう。


「ここは綺麗だね」


 病院中どこへ行っても、窓ガラスは割られ、埃が積もり、病院と言う衛生管理が必要な場所とはかけ離れていたけれど、この食堂だけは違った。掃除が行き届いていて清潔感がある。テーブルの上に置かれたソースや塩なんかの調味料も整然と並べられており、中身も十分に満たされていた。

 久しぶりに生活感のある場所に出て少しホッとする。


「料理は出来立てだね。まだ湯気が立ってる。誰が作ってるのかな? 厨房はどこだろう」

「こっちの方から音がするな」


 ヴェルトに続いて食堂に足を踏み入れ、恐る恐る厨房へと向かう。匂いだけでなく、炒める音や煮込む音、小気味良い包丁のリズムが聞こえて来た。お皿を洗う水の音も聞こえる。

 とその時、厨房の奥から怒号が飛んだ。


「ってめぇ! ぼさっとしてんじゃねぇ! 客が腹ぁ空かして待ってんだろうがっ! いつまでも皿ばっかり洗ってんじゃねぇよ! 出来た料理運べさっさと運べ、このクズ!」


 病院の受付に居ても聞こえるんじゃないかと思うほどの大ボリューム。言葉の強さと声の大きさに、私はうひっと変な悲鳴を漏らした。


「料理は火力だ! 料理は速さだ! 炒めて、焼いて、蒸して、煮て。食材の味なんて関係ねぇ。全ては火力にかかってるんだよ! 冷めちまったら意味ねぇだろ!」

「……適当な事ばっか。いつか殺す。いつか殺す……」


 絶叫する料理人の声と鍋を振る音に紛れて、小さな恨み事も聞こえて来た。料理人とは打って変わって、地獄の底から響いて来るような、壮絶な怨恨。言霊で人を殺せてしまいそうなほど、感情が込められている。


「だ、誰かいたね……」

「あ、ああ。そうだな……」

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