第160話 食堂 その②
カウンターに近づくと、向こう側に白いコックコートを着て円柱形の帽子を被った大柄な男が見えた。
片手で大きなフライパンを振るい、もう片方の手では、野菜を刻んでいる。かと思ったら、鍋を手放して今度は蒸し器の蓋を開け、野菜を切り終わったもう片方の手で煮込んでいる鍋の味見をする。スープを口にした一瞬怒号が止んだが、小さく頷くと再び口からは汚い罵声の言葉が飛び出した。
言葉をかけた先にはくすんだエプロンを身に纏う細身の女性がいる。女性は悲痛な表情を隠しもせず延々とお皿を洗っていた。
私はあまりの迫力に呆気にとられてしまった。
「十中八九フェアリージャンキーだろうな。料理人が主人公の童話に心当たりは?」
「多すぎてわからないよ。もっと特徴がないと」
いたかなぁ? しっくりする童話がパッと出てこない。
料理というジャンルは古今東西人気が高く、常に一定の周期でブームが到来する。料理人が主人公の童話も山のように生産されているのだ。
「……料理は火力、料理は火力……うーん。――うん?」
厨房から細身の女性が出て来た。どうやら料理を運ぶらしい。呪詛のように恨み言をまき散らしながら、それでもトレーにお皿を乗せて、誰もいないテーブルに配膳をしていく。
「お皿を洗わなくちゃいけないのに……。私は、お皿を洗わなくちゃいけないのに……。料理も運ばなくちゃいけない。これほどの不幸がこの世に二つとあるものか……。お皿お皿お皿……」
「あの人、『皿を洗う女』の主人公の人だ。朝受付で遭遇した人」
女性はカウンターで見つめる私たちに目もくれず、せっせと料理を運び続ける。その後ろ姿には、世界中の不幸を背負っている貫禄があった。……実際はまだほんの序の口で、ストーリーが進むと更なる不幸が降りかかるわけだけれど。
「この食堂に皿を洗いに来ていたんだ。就職先があってよかったね」
「場違いな心配だな」
女性は最後の料理を並べると、天を仰ぎ大きく溜め息をついた。
「何が満員御礼よ。誰もいないのに……。冷める前に料理を出せって、お客さんが待ってるって……。配膳先で冷めてちゃ世話ないじゃない……。あの店主には見えないものでも見えているのかしら……」
独り言のように呟いて、そしてまた「お皿お皿」と口走りながら厨房へと消えていった。
見えない客……あ、もしかして!
「『幽霊食堂』かな。あの料理人の人」
「『幽霊食堂』?」
ヴェルトが怪訝な顔をした。
『幽霊食堂』は、昨今増えて来たティーンエイジャー向け作品の先駆けとなった童話だ。
読み口があっさりしていて、挿絵が多く場面が想像しやすくてじわじわと人気が出ていると聞く。童話という文学を馬鹿にしているという風潮がある一方で、柔軟に受け入れられる子供たちからの支持は厚い。重厚な肉料理の後には口直しのデザートが欲しくなるのと同じように、私も気分によって読み分けている。どちらの童話も分け隔てなく好きだ。
「幽霊を見ることができる主人公が料理人をやるお話なの。未練があってあちらの世界に旅立てない幽霊たちに、最後の晩餐を振舞うってストーリー。オムニバス形式だけど、登場人物の背景がよく深堀されていて最後はいつもじんわりする。いい童話だよ」
「なるほど。だから誰もいない食堂に料理が並んでいるのか。料理人は幽霊が食べに来ると信じていて、その実、ここで生活しているフェアリージャンキーたちの食事になる。需要と供給がいい感じにマッチしたんだな。給仕係もいることだし」
カラテアが意図して『幽霊食堂』のフェアリージャンキーを作ったのか、たまたまこの形に落ち着いたのかはわからないけれど、少なくとも童話に狂うあまり栄養を取らずに衰弱してしまうという危機はなさそうだ。
なるほどなるほど。じゃあ遠慮はいらないよね?
「この料理は食べても大丈夫ってことだよね……あ!」
「ん? どうした? ……お!」
振り向いた先に、また見覚えのある人物が座っていた。
料理がずらりと並んだテーブルの隅。カレーの大皿にスプーンを突き立て、一心不乱に掻きこむ男の姿があった。
「また出た、偽ルルベ!」
「お前もしつこい奴だな」
私たちの存在に気付くと、片手をあげ、緩く垂れさがった瞳を猫のように細くした。鼻の頭が赤くなっているのは、ヴェルトに殴られたからだろう。
手なんて振ってどういうつもり? 随分友好的な仕草に見えるけれど……。
「いやー。これはどうも、お二人さん。先ほどはとんだ醜態晒してしまって。お兄さん、お強いですねぇ。効きましたよ、そのパンチ。まさに一撃必殺! 痺れますよね」
……。
「……ん?」
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