第145話 診察室 その②
「ルルベだ? 知らん名だな」
「……っ」
さらりと言ったヴェルトの言葉に、今度は青年の方が表情を硬くする。
私も知らないし、レベッカを見ても困惑を浮かべている。
「わかっていないね。全然わかっていないね! 私がその気になれば、君たちなど数秒後には向こうの世界だ。恐怖せよ、下賤の者ども!」
「やれるもんなら、やってみろよ」
「ぐっ……」
ヴェルトがもう一歩前に出た。
じりりと距離が詰まり、ルルベと名乗った青年の額に汗が浮かび始める。
「そ、そうだ! 今日は曇りだ、日が悪い。うむうむ。助かったな、脳筋。このくらいにしといてやろう。――だが! 私はいつでもお前たちを殺せるのだ! その事実をゆめゆめ忘れぬように!」
ルルベは、マントのように羽織っていた厚手のコートを片手で翻し、バックステップで距離を取る。
「あ、危ないっ」
私は思わず声を上げてしまった。けれど間に合わない。
ルルベがステップを踏んだ先にはもう一つ椅子があり、哀れな青年は着地に失敗してバランスを崩した。
派手な音が静かな病室に木霊する。
「だ、大丈夫?」
「……わ、私はいつでもお前たちを殺せるのだっ! その事実をゆめゆめ忘れぬように!」
「言い直した……」
打ち付けた肘を抑えながら内股気味に言うものだから、なんというか悲壮感が漂う。
ルルベはガラスの割れた窓を開けると、そこから身を乗り出す。
「アディオス!」
とうっ、と自分で効果音を口走り、窓を乗り越えると、私たちに背を向けて走って行った。
嵐のように過ぎ去った脅威に、しばらく呆然とした。
「なんなの、あれ?」
「十中八九フェアリージャンキーだろ。あんなおかしな人間その辺にはいやしない」
ヴェルトも緊張を解いて、息を吐き出す。
過ぎ去った怪人物を思い返し、私は一つの童話を思い出した。
「ヴェルト! わかった! 今の人は『復讐のルルベ』のフェアリージャンキーだよ!」
「『復讐のルルベ』?」
「もう! 旅の道中私が紹介したじゃん! 童話講義で!」
苦笑して視線を逸らす色男。私は愕然とした。
何ということだ! 私の講義は本当に右から左へ流れて行ってしまったのか……。
「トランプって言うクリエイト集団が出している童話! これ、すごく有名なんだよ? うーん! いいセンスしてるなぁ」
「あのドタバタっぷりを見ていいセンスとか……」
「私は童話の話をしているの! あの人は別物。顔もかっこよくなかったし、鈍臭いし」
「酷いこと言うな」
それほど私が好きな童話なのだ。常にクールで、スタイリッシュで、全能感が漂っている。国内の多くの童話好き女子の心を奪って言ったキャラクターだ。
「どんな話なの、リリィちゃん? いつでも殺せるとか物騒なこと言ってたけど」
「『復讐のルルベ』はね……」
社会と政治の軋轢の煽りを受けて、理不尽に弟を殺されたルルベが、腐り切った世界に復讐を行う痛快アクションストーリーだ。自分の無力さに嘆くルルベに謎の美少女ミラが現れ力を授ける。
ルルベが手に入れた力は、念じるだけで人を殺せる力で、最初ルルベはその力を持て余した。けれど、次々に傷ついて行く大切な人たちを目の当たりにして、ルルベは復讐を胸に誓う。
「それ結構まずいんじゃないの!? あたしたち、念じるだけで殺されちゃうってことでしょ?!」
「ううん。それはない」
私は首を振った。
「ルルベはね、最後までその力を使わなかった。ミラが色仕掛けとかで力を使わせようとしたけれど、ルルベは人を殺さず持ち前の自信だけで世界の悪を切り伏せていくの。もうね、凄いかっこいいんだよ! 最初に宣言したその誓いを最後まで守り抜く。私も昔憧れたなぁ」
「それが、今の茶番だったてわけか。フェアリージャンキーに絡まれるのは精神的に疲れるな……」
ルルベの姿をたまにヴェルトに重ねて見ているのは私だけの秘密だ。
だから、童話のチョイスはとても素敵だと思う。半面、完成度が低すぎてとても残念な気持ちになる。
「奇々怪々だねぇ、フェアリージャンキー。――あれ?」
「ん? どうしたの、レベッカ」
「うーん。あたしのところに入って来た行方不明リストに、あんな青年いたかなぁって……」
形のいい眉がへの字に歪む。
「捜索願が出されていない人もいるんだろうな。一人暮らしだったり、他人と壁を作っていた人間なんかは、いなくなっても気付かれないんじゃないか?」
ヴェルトは窓の外から首を戻し、振り返って言った。
「よく言えば自分の世界を持っている人間。内在世界に閉じこもりがちの人間の方が、かかりやすいんじゃないのか? この魔法」
「そうさね」
ミヨ婆がヴェルトの言葉を引き継ぐ。
「学問の国の資料には素直で思い込みの激しい人ほど、感応魔法の効果が大きかったという研究データも残っているよ。そう考えると、王女様なんか危ないんじゃないかねぇ。いっひっひ」
「わ、私はかからないから! 童話は童話だってちゃんと認識できている!」
「わからないぞ? 引っ掛かりそうな童話をいっぱいここに溜め込んでいるんだしな」
「かかんないって!」
だ、大丈夫だよね!? 私、いつの間にか童話の国の王女が主人公の童話の主人公になり切ってたりしてないよね!?
不安になってヴェルトを見上げると、楽しそうに笑いをこらえていた。この男はまったくもう……。
「ま、カラテア倒して、すべての人を元に戻してもらえれば解決するもんね!」
悩むのを辞めたレベッカが先導して、私たちは診察室を後にした。
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