第144話 診察室 その①
無機質な廊下を歩く。放棄されて十年以上経っているにもかかわらず、院内には消毒液の匂いが漂っていた。
残っていた薬の瓶が割れて漏れだしたりしているのかもしれない。
それは確実に、何者かがこの建物に潜んでいることを意味していた。
「おい、リリィ。くっつくなって。咄嗟に迎え撃てないだろ」
「べ、別に私だってくっつきたくてヴェルトの背中を掴んでるわけじゃないし! 怖くはないんだけどね。ぜんっぜん怖くはないんだけどね! 突然何か飛び出してビックリするのを防ぐためだから!」
「それを怖いっていうんだろうが」
「怖くないし!」
両手でぎゅっと握ったヴェルトの服の裾に力を込めて、私は周囲をキョロキョロと見回す。
先頭をヴェルト、真ん中に私、最後にレベッカの順で隊列を組み、冷たい廊下を進む。
「リリィちゃん! お姉さんに掴まってもいいんだよぉ。ほらほら! 昔みたいに飛びついておいでよ!」
「そ、それも嫌。なんか手の動きが怪しいし」
「そんなことないよ。あたしがばっちり守ってあげるってば。ほれほれ」
「遠慮するーっ!」
後ろから迫りくるレベッカの魔の手も、私がヴェルトの裾を掴む要因だ。
『診察室』
長い廊下の左側には時代を感じる引き戸が並んでいた。その一つ一つに劣化した木製の看板がかかっている。全ての扉が閉まっているのが、逆に不気味だ。
静まり返った廊下の扉の一つの前で、ヴェルトが立ち止まって手をかける。
「開けるの?」
「隠れてるかもしれないだろ?」
力をかけると特に抵抗もなくするすると扉は開いた。
カーテン付きのベッドに事務机。丸椅子といくつかの戸棚がある小さな部屋だった。室内は荒らされているという感じはしないが、放棄されているという現実は如実に表れていた。割れた窓の向こうには廃病院を囲む鉄線付きの塀が見える。
「だ、誰もいないね」
口から勝手に安堵の吐息が漏れた。
こういう時童話だったら一番か弱い隊員が襲われると相場が決まっている。用心せねば……。ここは童話の世界みたいなものなのだし。
「意外と当時のまま残されているもんだねぇ」
レベッカは棚に残っている小瓶に顔を近づけて、物珍しそうに眉をひそめた。
カーテンは途中で破れてその役割を果たすことが出来なくなっていたけれど、ベッドの薄いマットレスは弾力がありそうだし、机の上は綺麗に片付いていた。ヴェルトがおもむろに開けた引き出しには、錆びた聴診器が入っている。
「手掛かりなし、と。次行こ」
診察室と書かれた部屋は①から⑤まであった。その一つ一つをヴェルトが開けていく。どの部屋も変わりなく、ベッドと机が置いてあった。
かつてここに収容された患者はお医者様と何を語ったのだろう。そう思った時、診察室の綺麗さに恐ろしい想像を掻き立てられた。
診察の必要すらなかったのかもしれない……。
話を聞かない、言うことを聞かない患者とお医者様が話す必要はない。改善の見込みがないのだから。ここは、ただ、童話という麻薬から患者を引き離すための施設……。監獄と変わらなかったんじゃないだろうか……。
診察室⑤を開けた瞬間、ヴェルトから「おっ!」という短い驚きが漏れた。
私も思わず口を押える。
①から④までがあまりにも変化がなかったものだから、油断していた。
診察室⑤には一人の青年がいた。
事務机に向かって肘をついて口元を隠しいるその青年は、堅い雰囲気を身に纏っていてどこか近づきにくい。何を見ているわけでもなく、ペンキの禿げた壁を見つめ、ちらりと見える口元を醜く歪めていた。
「……まったく、待ちくたびれてしまった。私は待つのが嫌いなのだよ」
椅子を回転させて、青年がこちらを向く。
「君たちはお客さんかな? それとも、私を退治しに来た下劣なゴミどもかな?」
「お前が、カラテアか?」
ヴェルトのピリリとした雰囲気を察して、私はそっとヴェルトの背中から手を離した。
青年が鷹揚な態度で肩をすくめる。
「カラテアぁ? 誰だいそりゃあ?」
「……」
「どうやら、お客さんでも、退治屋さんでもないみたいだね。……まったく、とんだくたびれ儲けだ。部外者に用はないんでね。失礼させてもらうとするよ」
「待て! お前は誰だ?」
「これは傑作! 自分のバカを露呈した発言っ! ぷははぁ。よく恥ずかしくないものだね」
ぱしんぱしんと感情をわざと煽っているしか思えない拍手。むっとする私をヴェルトは片手で制して、一歩踏み込んだ。
青年はやれやれと首を振った。
「見てくれ通りの脳筋かよ。おいおい、勘弁してくれって。私がいくらか弱い一般市民だからって、ルルベの名を知らないなんてないだろ? お分かりかい? 君が今相対しているのは死神そのものなんだよ?」
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