第143話 受付 その⑤

「心当たり、かぁ……」


 ヴェルトの顔を見て、レベッカの顔を見て、そしてしばし目を瞑った。

 犬を追いかける女の子と、お皿を洗う女の人……。日常の一コマならありふれていてこれといったものはすぐに思い出せないけれど……。女の子のことはともかく、お皿を洗うことに、あれだけ熱意を込めた作品なんて滅多にないはず……。お皿、お皿、お皿……。あー、そう言えば。

 私は目を開けて人差し指を立てた。


「リンドンダラー著、『皿を洗う女』。そのままズバリのタイトルだけど、今の人はこれかも」


『皿を洗う女』。世界中の不幸を凝縮還元、というキャッチコピーの下に世に放たれた奇書で、幸福の代価というテーマが、世界規模の振り幅で描かれている。皿を洗うことがこの世最大の不幸だと嘆く女性が、嘆くたびにそれよりも大きな不幸に見舞われ心身ともに衰弱していく様子が、緻密なタッチで描かれていた。終盤の巻き返しが見事の一言。死よりも辛い目に遭った彼女が、自分からお皿を洗うと宣言したラストは涙なしでは語れない。


「何それ。面白いの?」


 説明を聞いたレベッカが渋い顔をする。


「面白いよ! 私の城の本棚にあるから、レベッカに今度貸してあげるね!」

「いや、あたしは童話とか読まないし……」


 童話の国の王女を前にして、童話の国の公人が問題発言である。今度軍機会議に議題として提供してやろうか。

 そんな冗談は、置いておいて。


「たぶん、あの人の物語は序盤だね。レモアと同じようにストーリーを辿るなら、あの人、これからどんどん不幸になっていくよ。最愛の人を失ったり、戦場で一人だけ生き残っちゃったり、文字通り空気として扱われたり、ね。でも、マーサは、あ、マーサってのは主人公の女性の名前ね。マーサは生きることだけはやめなかった。どんなに蔑まれても生きることにだけは固執し続けた。そしてついに、転換期が訪れて、すべての不幸が一つの幸福に向かっていくの! その伏線の回収の美しさは、圧巻なんだよっ!」


 語っていたら、初めて読んだ時の感動が蘇って来て腕に鳥肌が立っていた。


「最後まで読めずに挫折する人が多いから奇書っていう認識が広がっちゃって、名著とは呼ばれないんだけど。あの一線を越えたら畳みかけられるよ! 文字に! ふんっ!」

「はい。その辺で」


 ヴェルトの平手が、頭の上に降りてきて跳ねた。


「いたっ! もぉー、いい所なのに!」

「その話はここを出てからな。スイッチ入るとホント場所を選ばないな、お前は」


 いや、そのくらい私でもわかってるけどさ。何しに来たかは忘れてないけどさ。言いたいじゃん! 今! 思い出したら共有したいじゃん。


「リリィちゃん、さっきの女の人がその『皿を洗う女』のフェアリージャンキーだとしたら、それはこの先危険なの?」

「うーん、危険ってことはないと思うけれど……」


 マーサはずっと被害者だ。傲慢ではあったけれど、マーサ自身が誰かを不幸にしたり、傷つけたりすることはなかった。そこに一本芯が通っていたから、物語はただのストレスフルな童話で終わらなかった。

 レベッカは腕を組んで頷いた。


「あの人もカラテアの被害者なら助ける対象には変わらないけど、ひとまずは放っておいていいってことだね。もう一人の女の子の方は?」

「それもね、思い出したよ」


 彼女が呼んでいたエリザベートという名前。ぬいぐるみだと思っていたからすぐにピンとこなかったけれど、あれは多分、飼い犬の名前だ。


「『最愛のあの子に首輪をつけて』。これは、えっと、歴史の国出身の女性童話作家が描いたハートフルファンタジーだったはず」

「ハートフルファンタジー? どこが?」


 発狂してぬいぐるみを叩きつけていた少女のどこがハートフルなのか。あの姿を見て、ハートが温まるストーリーを思いつく方が無理がある。異色な作品ではあると思う。


「あの物語の主人公は、生まれつき障害があってね、生きているものの大切さを理解できていなかったんだよ。誰にでも暴力を奮ってしまう。そんな主人公が、子犬を拾ってくるの。両親は育てるなんて無理だって反対するんだけど、頑として受け付けなくて――」


 女の子は自分とは違う生き物を可愛がろうとするけれど、上手く愛情が伝わらない。怒ったり、駄々をこねたり、暴力に訴えたり。けれど、それではダメだって気付いていく。自分よりもか弱い存在を慈しむ心が次第に芽生え、そしてラスト……。


「エリザベートって名付けられた子犬は、その身をもって生命の尊さを教えてくれるの」


 確かそんな話だった。読んだことはあったけれど、説教臭くてあまり好きになれなかった一冊だ。部分的にノンフィクションだという情報を耳にしてしまったのもいけないのかもしれない。


「二人ともレモアと同じか。フェアリージャンキーになって、情緒不安定になっちまった……」

「うん。そうだと思う。――ねぇ。そもそも、どうしてフェアリージャンキーになろうとするんだろう。私にはそれが不思議。カラテアの魔法で強制的に童話の主人公だと思わされちゃったのかな? 暗示みたいに」


『皿を洗う女』も『最愛のあの子に首輪をつけて』も、一般的に楽しい物語ではないはずだ。主人公が苦悩し、葛藤し、闘い続ける物語。物語の着地点にはカタルシスがあっていいけれど、だからといって、その物語を追体験したいとは思えない。少なくとも私は。


「聞いた話じゃ、レモアちゃんは自分が好きな童話の主人公になっていたんでしょ? ヴェルトさんへの想いだって、出会ったときに感じたままのようだしさ。カラテアがこの廃病院を根城にし始めたのは、たぶん半年以内だよ」

「レモアが『歩き真似ヒツジ』にハマったのは、俺が最初に訪れて孤児院を紹介したころだ。なかなか俺以外に心を開かなったんだが、ポラーノの爺さんが童話を勧めたら貪るように読み始めた。その中の一冊に『歩き真似ヒツジ』があった。フェアリージャンキーになる前から、レモアにとっての愛読書だったのは間違いない」

「じゃあ、カラテアに童話を押し付けられているってわけじゃなさそうだね。うーん……」


 魔法にかかる条件や、魔法を得ヒントがあるかと思ったけれど、まだ情報が足りないようだ。


「ミヨ婆はどう思う?」

「そうさねぇ。カラテアの感応魔法はヒトの精神に作用する魔法。とはいえ、本来人間の意志ってもんは魔法よりも圧倒的に強固な物なんだよ。強大な魔力を吹っ掛ければ、その人間を操れるかというと、まったくそんなことはないのさ。……ヴェルトや、愛読書と言ったね」

「あぁ。レモアの奴は本当に童話が好きだった」

「今回会ったときも、ずっと肌身離さず持っていたんだよ」


 バートに踏まれそうになった童話を、身を挺して庇ったぐらいだ。あれは当たり前だけれど童話のストーリーには存在しない。レモアの意志や感情が身体を動かしたんだと思う。


「とすると、奴の魔法はバイアスをかけているだけに過ぎないようだね」

「バイアス?」

「意志や感情を後押しする力、と言えばわかるかねぇ。その人が向かっている方向が正しいんだと力を与えてやる類の魔法。応援とかアドバイスとかと原理は一緒さ」


 それだけ聞けばとても健全な魔法に聞こえる。頑張っている人を後押しするのは、人として普通のことだし、他人の励ましが結果に繋がるなんて、童話の世界だけでなく、現実世界でもままあることだ。

 それが、童話に限定されただけで、ここまで厄介になってしまうのだろうか?


「これ以上は、この魔女をもってしてもわからんね。直接会って確かめるしかない」

「だな」


 ヴェルトが同意して、腰を上げた。

 目指す先は霧がかかったような暗闇が漂っている。

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