第142話 受付 その④

「れ、れ、レベッカ……。後ろ……」

「後ろ?」


 レベッカのすぐ後ろに、中年の女性が立っていた。虚ろな瞳は焦点があっておらず、レベッカの肩越しに、少し先の地面を凝視している。


「だれっ! って、え? ちょっと待って。ねぇ! 寄りかからないでって!」

「レベッカ!?」


 私が声を上げるのと、レベッカが押し倒されるのが一緒だった。女性は倒れた拍子に提げていたバスケットを取り落してしまい、中身を盛大にぶちまけた。

 中から転がり出てきたのは、手のひらサイズのスポンジだった。それも一つや二つではない。十個二十個。カラフルな直方体が色褪せた病院の床に転がる光景は、現実感がない。


「あたしは平気。ね、おばさん? どいてくれないかな?」

「お皿……」

「へ? 何? お皿?」

「お皿を、洗わなくちゃ。洗わなくちゃ、お皿を」

「そ、そうなんだ。えーっと……」


 女性は自分の力で立ち上がると、転がったスポンジをそれが親の形見でもあるかのように感情を込めて拾い上げていく。全部拾い上げると、辺りをキョロキョロ眺めた後、背中を丸めて歩き出した。


「ちょっと、人にぶつかっておいて、それはないんじゃないかな」


 起き上がったレベッカの右手が女性の肩を掴むと。


「お皿ぁ!」

「ひぃ!?」

「お皿お皿お皿! お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿お皿ぁ!」


 頭を抱えて叫び出した。その変貌ぶりは私の理解の範囲を超えていた。


「う、うん。わかった、わかったよ。お皿だね。お皿お皿。おねーさんも、好きだよ? お皿。で、お皿をどうしたいの?」

「洗うんだよぉおおおおっ!」

「わ、わかった。邪魔しないから。呼び止めてごめんね。もう行っていいよ」

「……」


 女性は再び虚ろな目に戻り、


「あぁ。洗いたくない。こんなに手も荒れちゃった。洗いたくない。でも洗わないと終わらない。終わらないと帰れない。帰ったらまた明日お皿を洗わなくちゃ。洗わなくちゃ……」


 ぬいぐるみを追いかけていった女の子とは違う方の廊下へ消えていった。

 足音は小さくなり、やがて聞こえなくなる。聞こえなくなるまで、私たちは誰も口を開かなかった。


「随分と変わった趣味嗜好の人がいるもんだな。世界は広い」

「いやいやいやっ! どう見てもおかしいよ! なんでそんな平然してるの、ヴェルト! 意味わかんないじゃん、あれ! ねぇ!」


 私は女性が消えた廊下の先を指差して、ヴェルトに詰め寄った。


「も、もう。足が震えているよぉ。なんなの? ここに来た人は気が狂っちゃうの?」


 レモアはこんなところに一人で来ていたのかな。なんて勇気! 尊敬する! レモアすごい! いくらでも褒めるから、その勇気の片鱗を少し私に分けてくれないかなぁ。

 へたり込んでしまった私の下に、大きな掌が差し出されてる。


「まだ怖がるのは早いだろ。よく考えてみろ。ここは何の施設で、俺たちは何を止めに来たんだ?」

「……フェアリージャンキー隔離病棟? フェアリージャンキーを生み出している悪の親玉を……え? そうなの?」


 ハッとして顔を上げる。前髪の奥で優しく光るヴェルトの赤い瞳がすぐそこにあった。


「あの人たちも、フェアリージャンキー……?」

「それ以外考えられないな。……っていうか、お前の専門分野じゃねぇか。一発で見抜けよ、ポンコツ王女」

「むぅー……。わかってるなら先に言ってよね。怖がって損したじゃん! ついでのようにポンコツ言うなし!」

「損かどうかわからんけどな。なかなか見れないものを見れて面白かった」

「面白くないし! 性悪ヴェルト!」


 安堵したからなのか、きーっと怒鳴り散らすと、少し気持ちがすっきりした。レベッカがやれやれと言った表情で止めに入る頃には、だいぶ落ち着いていた。


「あたしもびっくりした。まさか体重全てこっちに預けて来るとは思わなかったよ」

「レベッカ、怪我はない?」

「これくらいで傷つくほどやわな鍛え方しちゃいないよ」


 ニッと笑う。

 息を吐き出すのと同時に、ヴェルトが改まったように言う。


「でだ、リリィ。ここからはお前の知識が頼りだぞ。さっきの二人、何の童話のフェアリージャンキーなのか、心当たりはないか?」

「心当たり、かぁ……」


 ヴェルトの顔を見て、レベッカの顔を見て、そしてしばし目を瞑った。

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