第141話 受付 その③

 スタッスタッとスリッパが床を擦る音が聞こえて来た。

 受付の横から伸びる長い廊下の向こう側、薄暗いその道を、何かがこっちに向かって走ってくる。

 かつては白く照らしていた天井のライトも、今はそのすべてが割れていて、正体を明らかにしてはくれない。足音は壁に反響して残響を生む。

 レベッカが一歩踏み込み、レイピアの柄に右手が添えられた。

 緊張感は一瞬で研ぎ澄まされた。

 足音が近づいて来る。その姿は次第に鮮明になり、止まることなく私たちがいる待合室に姿を現す。


「……え? 女の子?」


 虚を突かれて言葉を漏らしたのは私だった。その小さな体躯を見て、一瞬で思考が麻痺した。

 いや、だって廃病院だよ。なんで女の子が楽しそうにスキップして向かってくるの!? 歳だって孤児院のダグラスと同じぐらいだよ。理解が追いつかないよ!


「これは、えっと……?」

「うーむ、子供を斬ることは、さすがにできないなぁ……」


 戸惑いは二人も同じようで、向かってくる女の子に対処できないでいた。


「エリザベート! どこなの、エリザベートぉ!」


 女の子は、私たちのことなど眼中にないようで、必死に誰かの名前を呼ぶ。受付まで来たと思ったら、私たちの目の前を横切って、奥のキッズスペースへ走って行った。


「エリー。エリザベートぉ! お夕飯の時間ですよぉ。早く帰って来ないと、ママが夜ご飯抜きするって言ってますよぉ」


 ベンチの下や、マガジンラックの下を覗き込もうと膝をついて、必死に何かを探している。

 流石にそんなところに人は隠れられないと思うけれど、それを伝えてあげる勇気が私にはない。


「あっれぇ? どこ行っちゃったんだろう。全くもう、悪戯っ子さんなんだからぁ」

「えっと、お嬢さん。ここで何を?」


 レベッカが柄から手を放して、女の子に声を掛けた、直後。


「あっ!」


 耳をつんざくような大歓声を上げた。

 レベッカを認識したと思ったけれど、女の子はレベッカなど見ていなかった。その後ろ、くたびれたおもちゃ箱に向かて嬉々として走って行く。


「なんなの、もう……。調子狂うなぁ……。襲ってきてくれた方が、わかりやすいのに」


 出鼻をくじかれたレベッカが女の子の背中を追う。女の子は、色褪せたおもちゃ箱に飛びついて、中のものを取り出し始めた。

 なんだ。普通に子供じゃん。

 私は腰をかがめて女の子に近づいた。


「こんにちは。ねぇ、あなたの名前は? どうしてこんなところにいるの? お姉さんに教えてくれないかな?」

「いたいたぁ、エリザベートぉ!」


 渾身の猫なで声も、女の子は無視をする。見つけ出したエリザベートに夢中らしい。


「もう、勝手にいなくなっちゃ駄目っていつも言っているでしょう!」


 女の子が取り出したのは犬のぬいぐるみだった。

 かつては綺麗な毛並みをしていたのだろう。けれどそれはここが盛況だった十年前の話。今は毛が抜け、目のボタンは取れかかっていて、節々が破れて中の綿がはみ出していた。ゴミ捨て場に転がっていても不思議ではないそのぬいぐるみを、女の子は抱き上げ、大事そうに抱きしめた。

 まるでとても大切な友達とかわすハグのように……。

 異様な光景だった。


「ね、ねぇ。そのぬいぐるみ、あなたの、お気に入り?」


 私はなおもコミュニケーションを試みる。けれど、反応はない。


「もう。エリザベートったら、甘えん坊なんだから。はははっ! ヤダ♪ くすぐったいよ。舐めないで! きゃははは!」

「えっと、ごっこ遊びか何か、かな? 私もね、小さい頃は……」

「もう! くすぐったいって! こうなったら、仕返ししちゃうんだよ! こうだ! えい! えい!」

「あのー」

「きゃははははははははっ!」


 耳に障る高音の笑い声が、朽ち果てた廃病院とはミスマッチで、おぞましさが腕を伝う。

 助けを求めてヴェルトの方を見ると、ヴェルトから表情が消えた。


「おい、リリィ! 様子が変だ! すぐ離れろ!」

「え?」


 視線を戻すと女の子はもう笑ってはいなかった。

 くたびれたぬいぐるみを、冷めた目で見つめている。さっきまであれほど楽しそうにぬいぐるみと戯れていたのに……。なに、この変わり様……。


「何で……」


 小さな口が言葉を紡ぐ。


「何で、動かないのよぉぉぉぉおおおおお!」

「ひっ!」


 唐突に振り回された腕を避けて、私は尻餅をついた。背中にヴェルトの暖かさを感じる。

 な、なに? 何が起こったの?

 女の子は癇癪を起したように暴れ回る。犬の前足の一つを掴んで、手当たり次第に振り下ろす。ぶつかる度に布が裂ける嫌な音がした。

 やめて! ぬいぐるみが可哀想!

 叫び出したいのを、ヴェルトの手をぎゅっと握って抑えていると、女の子はまた唐突に動きを止めた。

 虚ろな瞳で天井を見上げ、そして手に持っていたぬいぐるみに視線を落とす。

 私たちが見ていることなんてお構いなく、トボトボと前を横切って歩き、来たときとは別の方向に伸びる廊下に向かって、ぬいぐるみを投げ捨てた。

 そして、思い出したように猫なで声に変えて。


「エリザベートぉ! エリザベートぉ、どこなのぉ! 夕ご飯だよぉ!」


 叫びながら投げた方に向かって走って行った。

 私たちは、その後ろ姿をただ見ていることしかできなかった。


「な、なんなの……」


 安心感を求めて振り返ると、再び背筋が凍りつく。


「れ、れ、レベッカ……。後ろ……」

「後ろ?」

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