第93話 レモアとバート その①
製紙工場から帰る労働者の流れよりも少しだけゆっくり、私たちは石畳の街を歩く。わが家へ急ぐ人たちの顔は、憑き物が落ちたように明るかった。階段をいくつか上ったり下りたりして、今日の思い出をヴェルトとガロンと共有しているうちに住宅は少なくなる。やがて見えて来たシンメトリーな建物が、ポラーノ孤児院だ。
門をくぐり玄関を入っても、出迎えはなかった。ただいまと声を掛けてみても返ってくる声はない。昨日のようにダグラスとエドナが出迎えてくれるのを期待していたのに、少し残念だ。
「なんかあったのかな?」
「十中八九レモアだろ」
「あ、そっか。勝手に孤児院抜け出して来ちゃったんだもんね」
廊下を歩いて声のする方を目指す。子供たちはリビングに集まっていた。
「やい、レモア! マムの授業サボるなよ! ルールは守れって、マムがいつも言ってるだろ!」
「うくく。ご、ごめんなさい。うくく」
「な、何がおかしいんだよ! 気持ち悪いな!」
やはり争いの中心はレモアだった。それを厳しく問い詰めているのはバートである。
バートは真面目とは対極の子供だと思っていただけに、少しだけ意外だった。けれど、よくよく聞いてみると、自分が仕方なくマムのルールを守っているのに、レモアがそれを破ってしまったことに腹を立てているらしい。悪ガキとしての矜持が傷つけられたのかもしれない。
レモアを擁護しようとしている子もいたが、バートに睨みつけられると、委縮して何も喋れなくなる。バートの取り巻きのヴィッキーが囃し立てた。
「根暗! 髪の毛妖怪! そばかす魔人!」
確かに悪いことをしたのはレモアだ。そのレモアが叱責されるのは自業自得であると思う。でも、自分に正義があれば、悪に対して何をしてもいいという子供の考え方は、少し怖い。
「本狂い!」
バートが言うと、「本狂い! 本狂い!」と中傷が飛び交う。
「いつも髪なんか結んでない癖に! なんで最近髪留めなんて使ってるんだよ!」
「うくく。うくくく」
「やめろよ、その気持ち悪い笑い方!」
ついにバートが手を出した。本を抱えていたレモアの肩を強く押した。レモアはバランスを崩して尻餅をつく。その拍子に抱えていた童話がバートの足元に投げ出された。
「……あ。――ふ、フンっ! お前が悪いんだぞ! 気持ち悪いこと言うから!」
力はそこまで強くなかったようだ。レモアは体を起こして、打ち付けたお尻を擦った。何事もなかったかのように、バートを見つめ返す。バートにとっては、その視線すら腹に据えかねたようだ。足元に転がった童話を親の仇のように睨みつけ、そして足を振り上げた。
「こんなもの読んでるからっ!」
「だ――っ」
私の本能が声を上げていた。
子供の喧嘩。大人になるためには誰しも通るべき通過点なんだとは思う。当事者じゃない私が口を出すことは間違っている。それはわかっている。
でも、童話が八つ当たりの対象にされて傷つくのは見てられなかった。
ヴェルトの制止の声が聞こえたけれど、それよりも早く、私の足は動いていた。
「駄目ぇっっっ!!!」
けれど、リビングを震わせるほどの大音声を上げたのは私ではなかった。
床に転がった童話とバートの足の裏の間に、レモアが身体を滑り込ませる。次の瞬間、バートの勢いをつけた足が、レモアの脇腹に振り下ろされた。
「あぅ……。げほ……」
「あ、あ……」
切ない吐息がレモアの口からこぼれた。
走り出そうとしていた私の足も、その光景を目の当たりにして動かなくなっていた。
シンと静かな時間が流れる。
それも一瞬で、私の隣を猛スピードの風が通り抜けた。
「大丈夫か、レモア!」
踏み下ろされていたバートの足を押しのけて、大きな塊がその間に割って入る。ヴェルトだった。バランスを崩したバートが今度は尻餅をついた。
ヴェルトはレモアの頭を支えるようにして抱きかかえ、蹴られた脇腹に手を当てる。
「折れてはなさそうだ。脈も安定している。……よかった。内側は傷ついてない。内出血はするだろうから、痣にはなるかもしれないな。えっと君、タオルを濡らして持ってきてくれ」
心配そうにレモアを見つめていた女の子に指示をする。女の子は慌てて洗面所の方へと走っていった。
「お、俺は悪くないぞ! そいつが勝手に飛び込んできたんだ!」
「言い訳はいい。度が過ぎたんだ。ちょっと黙ってろ」
「だっ、大体! 悪いのはそっちだろ! 何考えてるかわかんねぇし! こわ……、気持ち悪いんだよ!」
ヴィッキーとロニーがバートの後ろを支えると、バートはレモアに人差し指を向けた。
「何で、身体張って童話なんか守るんだよ!」
「……うくく」
レモアがうっすらと目を開いた。
「何考えてる、か……。ボクはね、ずっとずっと、ヴェルトのことしか、考えてないんだよ。ずっとずっと。ずっとずっと……」
「……っ!」
「うくく」
恍惚とした表情は、それを直視していたバートでなくても悪寒に襲われた。形容しがたい薄気味悪さが背中を這って肩を震わせる。
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